207 砂漠の働き者現る
三日目の朝、夜明けとともに野営地を出た。
砂が、昨日よりも白かった。
足を踏み下ろすたびに靴の底から熱が這い上がる。空気は乾いていて、鼻の奥がじりじりとした。ロバたちは黙々と歩いていた。荷を背に積まれたまま、耳だけを前に向けて。
ユミルが隣を歩きながら、砂の上に落ちた自分の影を見ていた。踏むたびに長さが変わる。朝の光が斜めで、影が間延びしていた。
リンは先を行くレイラの背を目で追った。黒い外套が白い砂漠の中で一点だけ色を作っていた。振り返らない。地形を読みながら歩いている、それだけがわかった。
昼に近い頃、前方から砂埃が上がった。
商人の荷車が二台、こちらに向かって来ていた。アル・ザフラからミルラペトラへ戻る方向。荷は軽そうで、ロバが二頭、合わせて引いていた。
商人が片手を上げた。レイラが無言で応じた。
すれ違う、その直前だった。
音がした。音、というより——地面の揺れが先に来た。
荷車の下の砂が盛り上がった。一拍あって、荷車が、消えた。
正確には、粉砕された。
板材が弾け飛んで、荷が砂の上に叩き散らされた。ロバ二頭が吹き飛んで、数メートル先に転がった。商人二人が宙を舞い、砂の上に落ちた。
誰も、しばらく、声を出さなかった。
「——砂の下だ」
レイラが、静かに言った。
砂が、また、盛り上がった。リンは弓を構えた。狙う場所がなかった。砂しかなかった。
次の瞬間、砂が割れた。
それが地面から出てきた時、リンの最初の感想は——でかい、だった。
直径一メートル半。頭部から尾まで二十メートル近い胴体が、くねりながら砂の上に躍り出た。体表には鱗ではなく、白みがかった硬い殻。節の間が微かに柔らかく見えた。目はなかった。
口だけがあって、それが開いていた。
「サンドワームだ」
レイラの声に、驚きがあった。淡々と喋る彼女の声に、初めて何かが混じっているのをリンは聞いた。
「……こんな大きさは、見たことがない」
ファーファが前に出た。
ニャルニルを手に持って、走った。速かった。砂漠の熱の中でも、足が砂を蹴る音が小気味よく響いた。胴体の横を一閃——する前に、サンドワームが砂に潜った。
ファーファの攻撃が空を切った。
砂が、また揺れた。今度は下から来た。
「ファーファ!」
間に合わなかった。
足元の砂が噴き上がり、ファーファの体が宙に浮いた。
そのまま弧を描き——砂の中に、頭から、刺さった。
足だけが出ていた。
ニャルニルを握ったまま、ぴんと伸びた二本の足が、砂から突き出ていた。
「——犬神家!」
リンの口から出た言葉は我ながら意味不明だったが、それ以外の言葉が出てこなかった。
砂の中から、くぐもった声がした。
「……ニャーーーーーー!!?」
---
砂に潜られると弓が使えなかった。
地面のどこかに体があって、どこから出てくるかわからなかった。砂の波紋が走る。あそこ、と思った瞬間に方向が変わる。
ロック・レヴィも声を低くして顔を見合わせていた。認識操作は地中の敵に意味をなさない、と小声でロックが言った。
レイラが投擲用の短刀を三本、指の間に挟んで立っていた。構えながら、狙えずにいた。
ファーファが砂から這い出してきた。砂まみれで、耳の穴に砂が詰まっていた。ニャルニルは離さなかった。
「……終わったニャ?」
「終わってない」
砂の波紋が、また来た。今度はリン達の方へ、真っ直ぐ。
「ユミル」
「……はい」
リンは考えながら喋っていた。
「一瞬でいい。動きを止めてほしい。みんなに頼む」
ユミルが頷いた。
「……準備します。時間をください」
リンはロックを見た。ロックが顎を引いた。
---
ファーファが走った。
今度は囮だった。
砂の上を全速力で、ジグザグに。追いかけてくる砂の波紋がファーファを追った。
感知しているのだろう、振動を。
足が砂を蹴るたびに波紋の向きが変わった。
「ニャーニャーニャー!!」
必死だった。笑える状況でなかったが、リンには少し笑えた。
ロックが砂漠の空気に向かって、何かをした。気配が散った、というのが正確なところで——ファーファの「振動」に似た何かが複数、砂の上に生まれた。
波紋が、一瞬、迷った。
レイラが腕を振った。
短刀が三本、音もなく飛んだ。一本が節の隙間に入った。サンドワームが地上に半身を出した。痛みか、攪乱か、理由はわからなかった。ともかく出てきた。
リンが構えた。
地上に出た胴体の、首に近い場所。節の隙間。狙える場所はそこだけだった。距離、風、角度——一呼吸で計算した。計算というより、体が勝手に知っていた。
でも——間に合わない。砂に潜る速度の方が速い。
「……ファイアウォール」
ユミルの声は静かだった。
光の板が一枚、サンドワームの首元に差し込まれた。薄かった。一枚だけだった。
サンドワームが止まった。一瞬だけ。本当に一瞬だった。
「——今!」
ロックの声が聞こえた頃には、リンの指は弦を離れていた。
矢が飛んだ。
節の隙間に、入った。
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サンドワームが暴れた。
尾が砂を叩いて、砂塵が上がった。
矢は刺さっていたが、それで終わりではなかった。胴体が激しく動き、地上に全身が出てきた。二十メートルの体が砂漠の上でのたうった。ロバたちが後退した。商人が悲鳴を上げた。
ファーファが飛びつこうとした。
「ファーファ、下がれ」
ユミルが前に出た。
静かな足取りだった。砂漠の真ん中、荒れた砂の上を、ただ歩くような速度で。
リンは何も言わなかった。
ユミルが足を止めた。のたうつ二十メートルの体の前で、立っていた。フードの中の顔が、サンドワームに向いていた。右手が持ち上がった。
「……加減。。。できませんが!」
唇が動いた。
(exec.garbage_collection ——target=surface ——range=point ——output=max)
白い光が出た。
熱がなかった。音がなかった。焦げ臭さがなかった。砂漠の乾いた匂いだけが、そのままあった。
光の中で、サンドワームの体がちぎれた。
白い光が消えた後、砂の上に殻の欠片が散らばっていた。
大きなものから、小さなものまで。断面が綺麗だった。ふつうの刃物が切ったような断面ではなかった。ただ、そこで存在が終わっていた。
誰も、しばらく喋らなかった。
ユミルが右手を下ろした。少しだけ、肩が沈んだ。
---
風が吹いた。砂が舞い上がった。
ファーファが砂を払いながら近づいてきた。耳の穴を指でほじっていた。
「……終わったニャ?」
「終わった」
「ニャ。……ジャーキー、ニャ」
リンは何も言わなかった。
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レイラが残骸の方へ歩いた。
殻の欠片をいくつか手に取り、断面を確かめた。ひっくり返した。また確かめた。眉根が、わずかに寄った。
「……動き方が、おかしかった」
「おかしかったって?」
「サンドワームは、一頭で縄張りを持つ。こんな荷車を粉砕するほどの接触は——本来、しない。地下の土を耕すのが仕事だ。砂漠の緑はこいつらのおかげで保たれている」
リンはしばらく聞いていた。
「人は、襲わない?」
「砂の振動が大きすぎる時は避けるように逃げる。荷車に向かってくるなんて、聞いたことがない」
リンは殻の欠片を一つ、拾い上げた。断面が白かった。鋭くなかった。きれいに終わっていた。
「……中を、確認してみてくれ」
レイラが大きめの欠片を選んだ。短刀の柄で叩いた。殻が割れた。内部が露わになった。
あった。
欠けていた。ブレスの余波で粉砕されていた。でも、形の残った欠片があった。薄青い、小さな石だった。
リンはそれを見た。
「……またか」
小さく、声が出た。
ユミルが近づいてきた。欠片を受け取り、しばらく見ていた。
「……能力付与型です。飢えと、振動感知が、強化されています」
「そうか」
「……はい。本来の感知範囲より、ずっと広い。荷車の振動を、脅威として処理するように——書き換えられています」
リンは砂の上に目を落とした。白い砂だった。何もなかった。
レイラが静かに言った。
「これは、知らなかった。カリム様にも、報告が要る」
少し離れた場所で、ロックがレヴィと何かを話していた。声は小さくて聞こえなかった。
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商人が近づいてきた。荷が全部散らばっていた。ロバ二頭は無事だったが、荷車は原形をとどめていなかった。顔が白かった。
「あんたたちが、助けてくれたのか」
「そうとも言えない。あなたの荷車は、どうにもならなかった」
商人は頷いた。荷を拾い集めながら、もう一度だけ振り返った。
「最近、砂漠で変なことが多い。商人仲間が何人か、似たような目に遭っている。犯人がわからなくて困っていたんだが——」
散らばった殻の欠片を見た。
「これか」
「そうかもしれない」
商人は何も言わなかった。
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夕方の野営地に向かいながら、リンはユミルの隣を歩いた。
ユミルは黙っていた。フードの中で、何かを考えているようだった。砂漠の夕暮れが、影を長く伸ばしていた。
「疲れたか」
「……少し、です」
正直な声だった。
「ブレスの後はいつもそうか?」
「……いつも、ではないです。ただ——今は、少し」
リンはそれ以上聞かなかった。
ファーファが前を歩きながら、砂を一歩ごとに踏みしめていた。耳の穴を、まだ指でほじっていた。
「砂、まだ入ってるニャ」
「帰ったら洗え」
ロックが後ろを歩きながら、小声でレヴィに何かを言っていた。
「——砂漠ごと、あいつらの手の中、ってことかもしれんな」
風が吹いた。砂が舞い、また落ちた。
野営地まで、あと少しだった。




