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205 王子その1


その日も、リン達は、街を歩いた。


朝、市場で果物を買って、ファーファが砂漠のナツメヤシを初めて食べた。「**……甘い、ニャ**」と頬を膨らませていた。昼、別の食堂で、今度は山羊の煮込みを食べた。ユミルが「**……ヤギ肉は、初めてです**」と興味深そうに咀嚼していた。夕方、宿に戻る前に、ロックの部屋に立ち寄って、簡単な報告をした。


「観察、続いてるか」


「ああ。今日も四回」


「向こうも、慎重だな。だが、そろそろ、判断が下りる頃合いだ」


「分かった」


ロックは、頷いた。


部屋に戻って、夕食を済ませて、リン達は、いつもより早めに、寝る支度をした。


---


夜半、リンは、目を覚ました。


窓のところに、人影があった。


昨夜と同じだった。黒装束の女。布で口元から下を覆っていた。目だけが、街灯りの中で、光っていた。


ユミルが、すでに起きて、椅子に座っていた。リンが目を覚ますのを、待っていたらしい。


ファーファは、寝ていた。クラケンが、ファーファの胸の上で、わずかに光っている。


「夜遅くにすまない」


女が、口を開いた。


「判断が、下りた」


「そうか」


「私の主のところへ、案内する。今夜、できるか」


「今からか」


「ああ」


リンは、しばらく、女を見ていた。


それから、頷いた。


「行く」


「ファーファ殿は、起こすのか」


「ああ」


「分かった。十分後、宿の裏口に来てくれ」


女は、それだけ言って、また窓の格子を抜けて、消えた。


---


リンは、ファーファを起こした。


「ファーファ、行くぞ」


「**……ニャ?**」


「夜の客の、主のところに、案内される」


「**……ファーファ、起きたニャ**」


ファーファは、目をこすって、ニャルニルを担いだ。クラケンを、肩に乗せ直す。


ユミルは、すでに装備を整えていた。


リンは、腰に剣を二本差して、弓を背負った。


ロックの部屋を、軽く叩いた。すぐに、ロックが出てきた。装備済みだった。レヴィを肩に乗せて、布を頭から羽織っている。


「来たか」


「ああ」


「行こう」


---


宿の裏口に、女が立っていた。


布で頭から下まで覆い直していた。目だけが、暗がりの中で、見えた。


「ついて来てください。足音、注意して」


「ああ」


女が、先に立った。


宿の裏路地から、街路を二本下がった。それから、岩の壁の隙間に、女が体を入れた。リン達も、後を続いた。


岩の隙間は、奥に進むと、地下への階段に変わった。階段は、岩を削って作られていた。手すりはなく、壁を伝って降りる形だった。階段の先は、暗かった。女が、小さな蝋燭を取り出して、火を点けた。蝋燭の灯りが、女の足元を、薄く照らしていた。


階段を、しばらく降りた。


地下に出た。


岩を削って作られた、狭い通路だった。天井が、低かった。リンは、頭を軽くかがめないと、歩けなかった。両側の壁には、岩を削った跡が、波のように残っている。古い通路だった。


通路を、しばらく歩いた。


途中で、二度、分岐があった。女は、迷わずに、片方を選んで進んだ。リンは、方向感覚を失いそうになるのを、堪えながら、女の後を歩いた。


ロックが、リンの後ろで、低く呟いた。


「俺も、ここは、知らない通路だ」


「お前の知り合いなのに、か」


「俺は、街の地上を、歩く人脈だ。地下は、別の人脈の領分だ」


ロックは、軽く笑った。


「それぞれの、領分があるんだよ」


リンは、頷いた。


---


通路の先に、扉があった。


岩を削った、重い扉だった。女が、扉を、軽く三回叩いた。それから、二回。それから、もう一回。決まった合図らしかった。


扉が、内側から開いた。


中は、絨毯が敷かれた、小さな広間だった。広間の壁は、岩そのもの。天井は、低めだった。広間の中央に、低い卓が置かれていて、その周りに、いくつかの座布団が、並んでいた。


広間の奥に、男が一人、座っていた。


二十代後半くらいの、端正な容姿の男だった。布で頭を覆っていない。髪は、黒くて長い。目は、深い色をしていた。母親似、と思わせる柔らかさが、顔の輪郭にあった。


男の左右に、護衛らしき男が、二人ずつ立っていた。武装している。だが、リン達に剣を向けてはいなかった。


女が、男の前で、軽く膝をついた。


「主、お連れしました」


「ありがとう、レイラ」


男が、女に声をかけた。


レイラ、と呼ばれた女が、頷いて、男の隣に下がった。


男が、リン達の方を、見た。


「夜分にお越しいただき、感謝する」


声は、低くて、穏やかだった。


「私の名は、カリム・ヴァフスルーズニルセス。この国の、第一王子だ」


カリムが、軽く頭を下げた。


リン達も、頭を下げた。


「リン・アルビオン。こちらが、ユミル。それと、ファーファ。ロックは、知ってるな」


「ロック殿には、お世話になっている」


「**……カリム様、お変わりないようで**」


ロックが、軽く頷いた。


カリムも、頷き返した。


それから、レイラの方を、見た。


「レイラ、自己紹介を」


レイラが、布を、口元から下ろした。


二十代前半くらいの女だった。髪は、後ろで結んでいる。目は、鋭いが、暖かさも、わずかに残っていた。


「レイラ、と呼ばれている。本名は、別にある。だが、今は、レイラ、で通している」


「**……はい**」


ユミルが、軽く頷いた。


「私は、カリム様の警護を務めている」


「分かった」


リンは、頷いた。


---


カリムが、卓を、軽く示した。


「お座りいただきたい。長い話に、なる」


リン達は、卓の周りに座った。座布団は、少し硬かった。


レイラが、護衛の一人に合図して、茶を運ばせた。砂漠の茶だった。香辛料が混じった、独特の香りがした。


カリムは、自分の前に置かれた茶を、ひとくち飲んだ。


それから、口を開いた。


「単刀直入に言う。この国は、十年前から、おかしい」


「ロックから、聞いている」


「父は、十年前から、人前に出てこない。私が会える時間も、月に一度、形式的な謁見の時だけだ。それも、父は、ほとんど話さない」


カリムは、卓の上で、指を組んだ。


「母は、八年前に、亡くなった。事故死、と発表された。だが、私は、そう思っていない」


「事故じゃない、と」


「母は、宮廷の中で、何かを調べていた。日記の最後の頁に、警告が書かれていた。**大臣バシムを信用してはいけない**、と」


「バシム、か」


「父の側近の大臣だ。表向きは、温和な男だ。だが、母を殺した可能性が、ある」


カリムは、しばらく、茶碗を見ていた。


「母が亡くなった後、父は、急速に、傀儡化していった。執政は、第二夫人ネフェルと、バシムが、握っている。私の異母弟、ラシードを、王位に就けようとしている」


「お前は、邪魔者か」


「そうだ。私が、王宮に居続けると、危険だった。だから、私は、王宮を出た。レイラ達と、共に」


レイラが、カリムの隣で、軽く頷いた。


「私は、もともと、第一夫人——母上の警護だった。母上が亡くなって、私は、王宮を出る決断をした。カリム様を、守るために」


リンは、レイラを、しばらく見ていた。


それから、カリムに、視線を戻した。


「で、王宮の最奥で、何かが、起きてる、ってことか」


カリムが、頷いた。


「定期的に、儀式が、行われている。何の儀式かは、私にも、分からない。だが、王宮で長く働いている使用人達が、徐々に、虚ろになっていく。父も、その一人だ」


ユミルが、口を開いた。


「**……儀式の現場を、見たことは、ありますか**」


「私は、ない。だが、何度か、夜中に、王宮の奥から、低い音が、響いてくることがあった」


「**……低い音、ですか**」


「振動のような、機械の唸りのような。それが、半時間ほど続いて、止まる」


ユミルは、しばらく、何か考えていた。


それから、リンの方を見た。


「**……リン様**」


「ああ」


「**……王都の、ヴェルガ村と、シルム村の、件に、似ています**」


リンは、ユミルを、しばらく見ていた。


それから、頷いた。


「あれか」


「**……はい。村人が、機能だけ残して、主体性を失っていた、あの現象です**」


「同じ系統、ってことか」


「**……断定はできませんが、症状は近い、です**」


ユミルは、しばらく、何か考えていた。


「**……それと、もう一つ、引っかかります**」


「何が」


「**……海洋国家の、第一遺跡は、冷却不全で、海に霧を出していました。山の方の鉱山跡は、地下水脈に、闇にゅーるが混ぜられていました**」


「ああ」


「**……どちらも、遺跡や、装置が、本来の用途を外れて使われた結果、周辺の環境が、おかしくなっていました**」


リンは、頷いた。


「街の人が虚ろになる、ってのも、似た構造かもしれない、ってことか」


「**……可能性は、高いです。少なくとも、調査の対象に、なります**」


「遺跡が、何かに使われていて、それの副作用が、街に出ている」


「**……はい**」


ユミルは、頷いた。


カリムが、ユミルとリンを、交互に見ていた。


「貴方達、この症状を、知っているのか」


「俺たちの、出身地に近い場所で、似た事件があった」


リンが、答えた。


「集団的に、人々から、何かが抜けていく現象だ。当時は、村単位で起きてた。原因は、別の地域にいた敵だった」


「同じ敵が、ここでも」


「分からん。同じ敵じゃなくても、同じ手口の組織、ってことは、ありうる」


ユミルが、頷いた。


「**……あの時の事件は、塔の記録によれば、三百年前にも起きていました。当時の王都の、人口の半分が、人格希薄化したそうです**」


「三百年前」


カリムが、繰り返した。


「同じ系統の、組織が、長く続いている、ということか」


「**……可能性は、あります**」


カリムは、しばらく、卓を見ていた。


「では、王宮の儀式は、その手口の、最新版なのかもしれない、ということだな」


「**……手口の、進化、です**」


ユミルは、頷いた。


それから、リンの方を見た。


「**……リン様。これは、ヴェルガの時より、規模が大きいです**」


「集団で、何年も、やってる、ってことだもんな」


「**……はい**」


「**……あと、もう一つ、私たちの経験から言えるのは、こういう事件の場合、街や王宮を直接調べるより、遺跡そのものを調べた方が、早く核心に近づきます**」


「遺跡が、何に使われているか、を見ろ、ってことか」


「**……はい**」


ユミルは、頷いた。


カリムが、わずかに、姿勢を変えた。


「私達は、長年、街の異変ばかりを、追っていた。だが、貴方達の経験では、遺跡を見るのが、近道だ、と」


「**……経験則ですが、はい**」


「アル・ザフラとフィン・ヌールの神殿は、確かに、貴方達の目で見てもらった方が、いいだろう」


カリムは、頷いた。


---


カリムが、卓の上に、地図を広げた。


ミルラペトラ王国の地図だった。中央のミルラペトラと、北東のアル・ザフラ、南西のフィン・ヌールが、線で繋がれている。


「貴方達の力を、貸してほしい」


カリムが、リンを見た。


「アル・ザフラと、フィン・ヌールに、それぞれ古い神殿がある。どちらも、最近、人々の異変が報告されている。同じ儀式が、行われている可能性が、高い」


「三箇所で、並行してやってる、と」


「そう、考えている」


リンは、地図を見ていた。


「条件は」


「貴方達の目的は、王宮最奥の遺跡だろう。ロック殿から、聞いている」


「ああ」


「私達が、政情を変える。その後、王宮最奥の遺跡を、貴方達が、好きにしていい」


「同盟、ってことだな」


「そう、解釈してくれて、構わない」


リンは、ロックを見た。


ロックが、軽く頷いた。


リンは、ユミルを見た。


ユミルも、頷いた。


ファーファは、卓の脇で、出された菓子を、もぐもぐ食べていた。


リンは、カリムに、視線を戻した。


「乗った」


カリムが、軽く息を吐いた。


「ありがたい」


「最初は、どこからだ」


「アル・ザフラから、お願いしたい。フィン・ヌールより、まだ被害が浅い。レイラが、案内する」


「分かった」


「出発は、明後日の朝だ。準備の時間を、取ってほしい」


「ああ」


リンは、頷いた。


---


帰りの地下通路は、レイラが、また案内してくれた。


途中、ユミルが、レイラの隣を、しばらく歩いていた。


それから、口を開いた。


「**……レイラ様**」


「呼び捨てで、いい」


「**……はい。レイラ**」


「何だ」


「**……お母上のこと、伺っても、いいですか**」


レイラが、ユミルを、しばらく見ていた。


それから、口を開いた。


「アイシャ様、と申し上げる。第一夫人だった方だ。穏やかで、知的で、宮廷の中でも、人気のある方だった」


「**……そうですか**」


「いずれ、もっと、お話しする機会が、あるだろう」


「**……はい**」


ユミルは、頷いた。


地下通路の蝋燭の灯りが、レイラとユミルの横顔を、薄く照らしていた。


---


宿に戻ったのは、夜明け前だった。


ファーファは、すでに眠そうにしていた。ニャルニルを担いだまま、リンの後ろを、ふらふらと歩いていた。


「**……主、ファーファ、眠いニャ**」


「もうすぐ、宿だ」


「**……ファーファ、ジャーキー、明日、食うニャ**」


「明日な」


部屋に戻って、ファーファは、すぐに寝台に倒れ込んだ。


リンとユミルは、しばらく、起きていた。


ユミルが、窓辺で、外を見ていた。


「**……リン様**」


「ああ」


「**……明後日から、本格的に、始まりますね**」


「ああ。明後日からだ」


「**……アル・ザフラ、楽しみです**」


「お前、また食い物か」


「**……それも、あります**」


ユミルは、わずかに、口の端を緩めた。


リンは、息を吐いて、寝台に横になった。


夜明け前の街路の音は、まだ、静かだった。


【了】


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