198 ロバの旅
馬車が、谷を二日下った。
温泉地を発った日は、午後から雨が降った。山岳路の上の方では、雨が霧と混ざって、車輪の音を吸い込んでいった。ファーファは、幌の中で、ジャーキーを噛みながら、外の雨をしばらく眺めていた。
「**……主、雨ニャ**」
「雨だな」
「**……雨、湯気と、似てるニャ**」
「水だからな、両方とも」
「**……ニャ**」
ファーファは、納得したらしく、また奥に引っ込んだ。
ユミルは、馬車の縁に座って、雨の落ちる斜面を見ていた。雨水が、岩の表面を伝って、谷の底に向かって流れていく。岩肌の色が、濡れて、暗い緑になっていた。
「**……雨のあとは、植生が、よく見えます**」
ユミルが、ぽつりと言った。
「そうか」
「**……乾いている時より、葉の輪郭が、はっきりします**」
「ああ」
リンは、御者台の隣に座って、手綱の補助をしていた。ヴァナールから来た馬車は、ここまでは慣れた山道だったが、これから先の道は、慣れていない。リンも、街道の様子を、自分の目で見ておきたかった。
雨は、夕方には止んだ。
宿場が、谷の出口の少し先に見えてきた。
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宿場は、街道沿いに、家屋が十軒ほど並ぶ集落だった。集落の手前に、広場があって、そこが、ロバ隊の発着場になっていた。広場には、ロバが二十頭ほど、繋がれている。荷を背負ったロバ、まだ何も背負っていないロバ、横になって休んでいるロバ。ロバ使いの男達が、その間を歩き回って、世話をしていた。
リンは、馬車を広場の脇に止めて、ロバ使いの一人に声をかけた。
「砂漠の方へ向かう隊は、いつ出る」
「あんた方か。明朝だ。日の出と一緒に出て、平原に下りる」
「乗せてもらえるか」
「人数と、荷の量による。見せてくれ」
リンは、馬車から、荷を降ろして見せた。商人は、荷の量を一通り確認すると、頷いた。
「ロバ三頭、荷物用に手配する。あんた方は、自分の足で歩いてもらう。砂漠の入り口までは、五日。乗りロバが要るなら、追加で二頭」
「乗りロバを頼む」
「分かった」
商人は、銀貨を確認すると、ロバの世話に戻っていった。
リン達は、宿場の宿屋に部屋を取った。
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宿屋の主人は、年配の女将だった。
部屋に案内する間、女将は、ファーファの方をしばらく見ていた。それから、首を傾げた。
「猫獣人かい」
「ニャ?」
「砂漠は、暑いよ。耳と尻尾、布で覆っとくと良い。日に焼けると、痛むよ」
「**……ファーファ、平気ニャ**」
「そうかい。それなら良いけど」
女将は、笑って、部屋の戸を開けた。
部屋は、温泉地の宿よりも狭かった。寝台が三つと、簡素な卓が一つ。窓は、街道の方を向いていた。
ユミルは、寝台の縁を、軽く撫でた。
「**……寝台、ですね**」
「布団じゃないな」
「**……はい**」
ユミルは、しばらく、寝台の表面を撫でていた。それから、リンの方を見た。
「**……でも、これも、これで**」
「これで?」
「**……これで、良いです**」
ユミルは、頷いた。
リンも、頷いた。
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夕食は、一階の食堂で取った。
宿屋の女将が、街道で売られているパンと、煮込み料理を出してくれた。煮込みは、肉が多めで、香りが、ヴァナールのものとは違っていた。何の香辛料か、リンには分からなかった。
ファーファが、肉を、ガブガブ食っていた。
「**……主、これ、美味いニャ**」
「砂漠の方の味だな」
「**……ファーファ、好きニャ**」
「砂漠、もう近いんだ」
「**……ニャ**」
ユミルは、煮込みの香りを、しばらく嗅いでいた。それから、ひとくち、口に運んだ。
しばらく、咀嚼していた。
それから、もう一度、ひとくち、口に運んだ。
「**……何か、分かりませんが**」
「分からないか」
「**……はい。でも、美味しいです**」
「俺もだ」
ユミルは、頷いて、また、ひとくち食べた。
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夜、宿の窓から、街道が見えた。
宿場には、街灯が、まばらにしかなかった。月の光が、街道の白い砂を照らしている。山岳路の終わりの宿場だった。ここから先は、平原に下りていく。
リンは、窓辺で、しばらく外を見ていた。
ユミルが、隣に来た。
「**……明日から、平原ですね**」
「ああ」
「**……山が、終わります**」
「終わる」
ユミルは、しばらく、月の光の中の街道を見ていた。
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朝、広場に、ロバ隊が集合していた。
ロバ使いの男達と、客が十人ほど。客は、商人風の男が四人、巡礼者らしき女が二人、武装した冒険者風の男が三人、そしてリン達。
ロバが、荷を背負わされて、列を作っていた。リン達のロバも、荷物用と乗りロバが、合計五頭、用意されている。
ファーファが、自分の乗りロバを、しばらく見上げていた。
「**……主、ロバ、大きいニャ**」
「お前より、大きいな」
「**……ファーファ、乗れる、ニャ?**」
「乗れる。ほら、こうだ」
リンは、ファーファを抱え上げて、ロバの背に乗せた。ファーファは、ロバの首にしがみついた。ロバが、軽く首を振った。
「**……ニャ! 揺れるニャ!**」
「揺れる。我慢しろ」
「**……ファーファ、ジャーキー食えないニャ**」
「平原に出たら、休憩がある。その時に食え」
「**……ニャ**」
ユミルも、ロバに乗った。長い髪を、後ろで結び直して、ロバの首を、軽く撫でていた。
リンは、最後にロバに乗って、ロバ使いの隊長らしき男の方を見た。
「準備、できた」
「よし、出発だ」
隊長が、声を上げた。
ロバ隊が、ゆっくりと動き出した。
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街道は、宿場を出ると、すぐに下り始めた。
山岳路の最後の下りだった。木々が、徐々に低くなっていく。岩肌が、徐々に減っていく。やがて、街道の両側に、開けた景色が見えてきた。
平原だった。
地平線が、遠かった。
ヴァナールの城壁の中では、見たことのない地平線だった。山岳路の谷の底からも、見えなかった景色だった。空が、上から覆いかぶさるように、広い。雲が、平原の遠くで、低く流れている。
ファーファが、ロバの背の上で、目を見開いていた。
「**……主、空、広いニャ**」
「ああ」
「**……ファーファ、こんなの、初めてニャ**」
「俺もだ」
ユミルは、ロバの背の上で、地平線を見ていた。
しばらく、ユミルは、何も言わなかった。
それから、口を開いた。
「**……これが、平原ですか**」
「これが、平原だ」
「**……知らない、景色です**」
「ああ」
ユミルは、頷いた。
それから、わずかに、口の端を緩めた。
ロバ隊は、平原の街道を、ゆっくりと進んでいった。
【了】




