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193 見送り



朝の光が、街の壁を斜めに撫でていた。


リンは宿の窓辺で、装備の点検をしていた。弓弦の張りを確かめ、矢筒の本数を数え、剣の柄を布で拭く。ティルフィングは、相変わらず沈黙したまま、剣立ての二本目に収まっている。


ユミルは荷物を、ひとつひとつ並べ直していた。


「**……三日後、ですね**」


「ああ」


ファーファは寝台の縁に座って、ジャーキーを噛んでいた。クラケンが肩から触手を伸ばして、精製水をコップに注いでいる。ニャルニルは部屋の隅で、鎚頭を磨いていた。


挨拶回りの初日が、始まろうとしていた。


---


最初に向かったのは、商業ギルドだった。


ローズが、机の向こうで顔を上げた。


「もう、行かれるのですね」


「三日後だ」


「貿易ルートの整理は、こちらで進めます。ティルス様の机から出てきた書類、商業側の控えと突き合わせて、まとまり次第、トビーへお渡しします」


「頼む」


ローズは、ペンを置いた。


「**……これは、嘘では、ありませんね**」


ローズが、ふと、口にした。


ロックの報告文を読み上げた時の、あの言葉だった。


「あの時の、ローズの一言で、こっちも肚が決まった」


「**……そうですか**」


ローズは、微笑んだ。少しだけ。


「街は、続きます。ご心配なく」


ローズは、それだけ言って、また書類に視線を落とした。長い別れの言葉は、無かった。それで十分だった。


---


冒険者ギルドでは、トビーが、机の前で待っていた。


ティルスの執務室だった部屋を、彼が片付けた跡が、整っている。書類の山は仕分けされ、棚の本は背を揃え、窓辺には、新しい蝋燭が立っていた。


「終わったか」


「**……ええ。終わりました**」


トビーは、机を見た。


「綺麗になった。でも、ここに座る覚悟は、まだです」


「臨時代表で、続けていくのか」


「**……ええ。当面は**」


トビーは、リンの方を見た。


「リンさん。あの時、瓶を渡してくださったこと、まだ、忘れていません」


「俺が、お前に瓶を預けた覚えは、ない」


「**……ええ。そう言うと思いました**」


トビーは、わずかに口の端を上げた。


「お元気で。砂漠でも、無理はなさらず」


「お前もな」


トビーが、書類の束を、机の端に積み直した。


リンは、扉のところで、一度振り返った。


トビーは、机に向かっていた。背中の輪郭が、以前より、少し広く見えた。


---


領主館で、グレンに会った。


執務室の机の向こうで、グレンは茶を飲んでいた。


「行くのか」


「ああ」


「砂漠の方は、聞いている。ミルラペトラだろう」


「ロックが、先に行ってる」


「あの男か」


グレンは、茶碗を置いた。


「**……信用したわけじゃ、ないんだろう**」


「まだ、な」


「それで、いい」


グレンは、頷いた。


「街のことは、こっちで、なんとかする。お前さんの心配する話じゃない。ティルスの件も、商業ギルドが書類を整えれば、商売の方は回っていく。冒険者ギルドの方も、トビーが、今は持ちこたえている」


「助かる」


「礼を言われる筋じゃない」


グレンは、窓の方を見た。


「死んだ者は、戻らん。だが、生きてる奴らは、生きていく。それだけだ」


リンは、頷いた。


退室する時、グレンが、短く声をかけた。


「砂漠は、暑いぞ」


「ああ」


「水を、絶やすな」


「分かった」


扉が閉まる時、ファーファが小さく付け足した。


「**……ファーファ、暑いの、平気、ニャ**」


グレンが、笑ったような気配が、扉越しに伝わってきた。


---


ヘンリーの店は、昼下がりだった。


棚に積まれた香辛料の瓶が、午後の光を受けて、琥珀色に透けている。店先の小さな卓に、茶器が出されていた。


ヘンリーが、茶を注いだ。


「ヴァナールから出る荷の手配は、こちらでやっておきます。砂漠方面の商隊と、便宜を図れる筋がいくつかあります」


「悪いな」


「いえ。商売です」


ヘンリーは、軽く笑った。


「それと、こちらは、餞別というか」


ヘンリーが、小さな包みを差し出した。


「香辛料です。砂漠の街は、よその香辛料を喜びます。物々交換の種にも、贈り物にもなります」


「もらう」


クララが、店の奥から出てきた。


クララは、リンの一行を見て、軽く会釈をした。それから、ファーファのところへ、まっすぐに歩いていった。


手に、布の小袋を持っていた。


「**……ファーファさん**」


「**……ニャ?**」


「これ、よかったら、道中で」


クララは、小袋をファーファに差し出した。


ファーファが、受け取って、覗き込んだ。


「**……ジャーキー、ニャ**」


「ヘンリーお父さんが、燻製にした、新しいやつです。塩を、控えめに」


「**……ファーファ、嬉しい、ニャ**」


ファーファは、頬を膨らませて、頷いた。それから、自分の腰の袋から、ジャーキーをひとつ取り出して、クララに差し出した。


「**……交換、ニャ**」


クララが、小さく息を吸った。


それから、笑った。


「ありがとうございます」


クララは、ジャーキーを受け取って、両手で包んだ。


「**……元気でね、ファーファさん**」


クララが、初めて、ファーファに声をかけた呼び方だった。


「**……うん、ニャ**」


ファーファは、頷いた。クララの言葉の、何かが普段と違っていることに、気付いた様子は無かった。


クララは、頷いて、もう一度笑った。


ヘンリーが、娘の肩を、軽く押した。


クララは、店の奥に下がっていった。背筋が、まっすぐだった。


リンは、ヘンリーと、軽く目を合わせた。


ヘンリーは、何も言わずに、茶碗を取った。


茶を、ひとくち、含んだ。


「**……良い茶葉が、入ったんですよ**」


ヘンリーは、それだけ言った。


リンは、頷いた。


---


街を歩きながら、ファーファが、リンの隣に並んだ。


「**……主、クララ、優しい、ニャ**」


「ああ」


「**……ジャーキー、味、楽しみ、ニャ**」


「楽しみだな」


ユミルが、リンの反対側に並んだ。


ユミルは、何も言わなかった。


少しだけ、口の端が、緩んでいた。


---


夕方、ヴィレムが、宿を訪ねてきた。


部屋の入口で、ヴィレムは深く頭を下げた。


「お忙しいところ、失礼します」


「入れ」


ヴィレムは、入って、椅子に腰掛けた。茶を勧められて、両手で受け取った。


「兄に、会われましたか」


「明日、行くつもりだ」


「**……そうですか**」


ヴィレムは、茶を見ていた。


「兄は、何も話さないかもしれません。ですが」


ヴィレムは、顔を上げた。


「来てくださると、ありがたいです」


「ああ」


ヴィレムは、頷いた。


それから、剣立てに目をやった。沈黙したままのティルフィングが、二本目に立てかけられている。


「**……兄の剣、ですね**」


「ああ」


「**……まだ、しゃべりませんか**」


「ああ」


ヴィレムは、わずかに笑った。


「気長に、お願いします」


「気長にやる」


ヴィレムは、立ち上がった。茶を、飲み干していた。


「明日のティルスのこと、よろしくお願いします。それと、街を出られる時、見送りに、行きます」


「来なくていい」


「**……いえ。行きます**」


ヴィレムは、頭を下げて、出ていった。


扉が閉まった後、ユミルが、口を開いた。


「**……ヴィレム様は、強い方、ですね**」


「ああ」


「**……人が、人で、いられるように、と。あの、ティルフィングを、託す時の、言葉**」


「覚えてる」


「**……あの言葉を、自分に、向けても、いる気が、します**」


リンは、ユミルを見た。


ユミルは、目を伏せていた。


「そうかもな」


リンは、それだけ答えた。


---


夜、宿の窓辺で、リンは地図を広げていた。


ヴァナールから、温泉地までの山岳路。そこから、森林、平原、草木が減っていき、砂漠。馬車で、二十日ほど。


ファーファは、寝台で、すでに眠っていた。クラケンが、肩のあたりで、小さく光っている。ニャルニルは、壁際に立てかけられていた。


ユミルが、隣に来た。


「**……明日は、ティルス様、ですね**」


「ああ」


「**……何を、話されますか**」


「分からない」


リンは、地図を畳んだ。


「ティルスが、何も言わないなら、こっちも、何も言わないかもしれない。ただ、行く。それだけだ」


「**……はい**」


ユミルは、頷いた。


窓の外で、街の灯りが、ひとつ、ふたつと、消えていく。


ファーファの寝息が、規則正しく、続いていた。


【了】


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