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194 最後の訪問


牢の廊下は、朝でも光が薄かった。


地下に降りる階段を、ガルムが先に歩いていた。鍵束が、腰のところで、軽く鳴る。リンとユミルが、後ろに続いた。ファーファとニャルニル、クラケンは、宿に置いてきた。


「あの男、最近は、ほとんど話しません」


ガルムが、振り返らずに言った。


「食事は取ります。水も飲みます。ただ、口は開きません。看守の話では、髭が伸びるのも気にしていなかったと」


「そうか」


「ユミル様も、ご一緒に入られますか」


ガルムが、ユミルを見た。


「**……はい、同席します**」


ユミルは、短く答えた。


階段を降りきって、廊下の奥の扉の前で、ガルムが鍵を回した。


「外でお待ちしております」


ガルムは、そう言って、扉の脇に下がった。


---


部屋は狭かった。寝台と、卓と、椅子が一つ。鉄格子の向こうの小窓から、薄い光が落ちている。


ティルスは、寝台の縁に腰掛けていた。


髭は、ヴィレムの言った通り、伸びていた。それでも、目は澄んでいた。リンを見て、軽く頷いただけだった。それから、また床に視線を落とした。


リンは、椅子に腰掛けた。ユミルは、扉のところに立ったままだった。


腰の脇に、布で巻いた剣を、立てかけた。ティルフィングだった。鞘越しでも、ティルスの目に、それが何かは分かったはずだった。


ティルスの視線が、布の包みに、わずかに動いた。それから、また床に戻った。


「明日、街を出る」


ティルスは、答えなかった。


「砂漠の方だ。ミルラペトラ」


ティルスは、床を見ていた。指が、卓の角を、軽く撫でていた。


「お前の弟が、剣を、預けてくれた」


ティルスの指が、止まった。


それでも、顔は上げなかった。


「ティルフィングだ。まだ、しゃべらない。お前のことを、覚えてるんだろう」


ティルスは、息をひとつ、ゆっくりと吐いた。


「**……そうか**」


それだけだった。


声は、低かった。掠れていたが、聞き取れた。


リンは、しばらく、ティルスを見ていた。ティルスの目は、床の一点に、置かれたままだった。


「街は、続いていく。商業ギルドも、冒険者ギルドも、領主館も、回ってる。ローズが、お前の机を整理した。トビーが、執務室を片付けた。グレンは、何も特別なことを言わない」


「……」


「お前の弟は、お前のことを、まだ兄として見ている」


ティルスの肩が、わずかに、動いた。


「兄が、これからも、人で、いられるように、と。お前の弟は、剣を渡す時、そう言った」


ティルスは、しばらく、動かなかった。


それから、顔を、ゆっくりと上げた。


リンを見た。


目は、濡れてはいなかった。ただ、光だけが、奥に、残っていた。


「**……済まなかった**」


ティルスは、それだけ言った。


リンは、頷いた。


「街は、見ていく。お前のいない時間も、続いていく」


「**……ああ**」


ティルスは、また床を見た。


リンは、立ち上がった。腰の脇に立てかけた剣を、取った。


ティルスが、顔を上げた。


「**……一度だけ、頼みがある**」


リンは、止まった。


「**……それを、こちらへ**」


ティルスの声は、低かった。それでも、はっきりしていた。


リンは、布を解いた。鞘ごと、ティルスの座る寝台の前に、軽く差し出した。


ティルスは、剣に手を伸ばさなかった。鞘の方に、視線を落としただけだった。指先が、わずかに、震えていた。


しばらく、ティルスは、剣を見ていた。


それから、口を開いた。


「**……ティルフィング**」


剣は、応えなかった。


「**……俺は、もう、お前の主では、ない**」


声は、静かだった。


「**……お前を握る資格を、俺は、自分で、捨てた。お前が黙っているのは、当然のことだ。だが、それでは、お前が困る**」


ティルスは、ひとつ、息を吐いた。


「**……このお方が、新しい主だ。これからは、このお方に、献身せよ。俺の名で、命じる。これが、俺がお前に出す、最後の命令だ**」


部屋の中は、静かだった。


剣は、応えなかった。


それでも、ティルスは、頷いた。自分が為すべきことを、為した、という頷き方だった。


「**……持っていって、いただきたい**」


リンは、剣を、布で巻き直した。


「分かった」


「**……済まない。重ねて**」


「ああ」


リンは、剣を、腰の脇に立て直した。


ティルスは、また床を見た。指が、卓の角を、軽く撫でた。


リンは、立ち上がった。


扉のところまで歩いて、振り返った。ティルスは、寝台の縁で、もとの姿勢に戻っていた。


ユミルが、扉を、軽く押した。


リンは、最後にもう一度、ティルスを見た。


ティルスは、顔を上げなかった。


---


廊下を上がって、外に出た。


ガルムが、扉を施錠して、鍵束を腰に戻した。


「話せましたか」


「ああ」


「そうですか」


ガルムは、それ以上、聞かなかった。


ギルド舎の階段を上がりながら、ユミルが、口を開いた。


「**……ティルス様のお声を聞いたのは、初めてでした**」


「俺もだ」


「**……短いお言葉でしたね**」


「ああ。十分だった」


ユミルは、頷いた。


外に出ると、街は昼前の光に満ちていた。市場の方から、声が混じり合って、風に乗ってきた。


リンは、しばらく、その音を聞いていた。


---


宿に戻ると、ファーファが寝台の縁で、ジャーキーを噛んでいた。クラケンが肩のところで、精製水を出している。ニャルニルは、壁際に立てかけられたままだった。


「**……主、終わったニャ?**」


「終わった」


「**……ファーファ、ジャーキー食ってたニャ**」


「見れば、分かる」


ファーファが、ジャーキーをもう一つ、リンに差し出した。


リンは、受け取って、噛んだ。


塩が、少し、強かった。


---


午後は、出立の支度に費やされた。


馬車の手配は、ヘンリーの紹介で、商隊と便乗する形になっていた。砂漠方面に向かう商隊が、明日の昼に街を出る。山岳路の入口まで、二日ほど一緒に進み、そこから別ルートで温泉地に抜ける。


リンは、宿の卓に荷を広げ、装備を仕分けていた。


矢は、新しいものを五十本、まとめて買い足した。弓弦は予備を二本。剣の手入れ用の油と、布。革鎧の修繕用の糸。


ユミルは、薬包と乾燥食品の確認をしていた。


「**……糖を追加します。砂漠は、消耗が激しい**」


「頼む」


「**……塩も増やします**」


ファーファは、ジャーキーの袋を、自分の腰の周りに、増やしていた。


「**……ファーファ、ジャーキー足りるニャ**」


「足りすぎだろう」


「**……砂漠長いニャ**」


「砂漠に着く前に、減らしてくれ」


「**……ニャ**」


ファーファは、頬を膨らませた。


ニャルニルが、壁際から、口を開いた。


「**……ジャーキーを減らすな。主の好物ぞ**」


「お前、そっち側か」


「**……ファーファ様のお好み、最優先**」


リンは、息を吐いた。


クラケンが、肩のところで、軽く触手を動かした。


「**……主、クラケンが水たくさん出せるニャ**」


「お前は頼りにしてる」


「ぴゅ」


クラケンが、満足げに、触手を縮めた。


---


夕方、ヴァナールの市場に、最後の買い出しに出た。


香辛料の店で、ヘンリーの所で受け取った包みとは別に、もう少し買い足した。砂漠の街への手土産用と、自分たちの料理用。


パン屋の親父が、店先でリンに気付いて、声をかけてきた。


「兄ちゃん、行くんだって?」


「ああ」


「砂漠の方は、パンが固いぞ。ここのパンを覚えてるうちに、楽しんどけ」


親父は、焼きたてのパンを、布に包んで、押し付けてきた。


「土産だ。明日の朝飯にしろ」


「いくらだ」


「いらん。次に来た時に、砂漠の話、聞かせてくれ」


リンは、頷いた。


「分かった」


宿屋の女将が、夜、リンの部屋に来た。


「明日の朝の支度、いつもより早めに出しますからね」


「助かる」


「砂漠は、暑いんでしょ。お嬢さん、日に焼けないように」


女将は、ユミルの方を見て、軽く笑った。ユミルが、わずかに、目を伏せた。


「**……ありがとうございます**」


「猫さんも、毛が抜けないようにね」


「**……ファーファ、毛、抜けないニャ**」


「そりゃ頼もしい」


女将は、笑って、部屋を出ていった。


---


夜が、深くなってきた。


リンは、剣立ての前に立っていた。自分の剣と、ティルフィングが、並んで立てかけられている。


ティルフィングは、相変わらず、沈黙していた。


リンは、ティルフィングの柄に、軽く手を添えた。


「明日、街を出る」


応答は、無かった。


「お前の前の主に、会ってきた。お前に、命じてくれた。新しい主に、献身せよ、と」


応答は、無かった。


「あれが、あいつの最後の命令だ。お前が、それをどう受け取るかは、お前に任せる」


応答は、無かった。


「気長に、やる」


リンは、手を離した。


ユミルが、寝台のそばで、荷物を最後に整えていた。ファーファは、もう寝ていた。クラケンが、ファーファの胸のあたりで、小さく光っている。ニャルニルは、壁際で、鎚頭が薄い影を落としていた。


ユミルが、顔を上げた。


「**……明日、ですね**」


「ああ」


「**……長い道のりになります**」


「分かってる」


ユミルは、頷いた。


それから、わずかに、口の端を緩めた。


「**……楽しみ、です**」


リンは、ユミルを見た。


「砂漠が、か」


「**……知らない土地です。私の知らない植物があります。鉱物が違います。空気の湿度が違います**」


「ああ」


「**……それを見るのが、楽しみです**」


リンは、頷いた。


「俺もだ」


ユミルは、もう一度、頷いた。


窓の外で、街の灯りが、ひとつずつ、消えていく。


明日、ヴァナールを発つ。


【了】


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