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186 猫のピン


昼頃まで眠っていた。


リンが目を覚ました時、領主邸の客室の窓から、すでに高い陽が差していた。寝台の上で体を起こす。膝の震えは、収まっていた。手の震えも。


体の節々が痛んだ。BSoSの暴れに振り回された筋肉。ガルムを庇って跳んだ際の捻り。だが、起き上がれた。


廊下に出た。


ガルムは右脇腹に晒を巻いて、椅子で浅く眠っていた。リンが廊下に出た音で目を開けたが、リンが「**そのままでいい**」と低く言うと、また目を閉じた。


ファーファの部屋を覗いた。毛布にくるまった黒い塊が見えた。耳が一つ、出ていた。動いていない。よく眠っている。


ユミルの部屋の扉は閉まっていた。


リンは扉の前で、しばらく立っていた。


それから、軽く、扉を叩いた。


「**……ユミル**」


返事は、すぐに来た。


「**……リン様**」


「**……起きてるか**」


「**……起きております**」


「**……出かけないか**」


しばらく沈黙があった。


それから、扉が開いた。


ユミルがフードを被って立っていた。光の薄い板を手元に灯したまま。フードの内側で、わずかに目が動いていた。


「**……出かける**」


「**……ああ**」


「**……どこへ**」


「**……街を、見て回ろう**」


ユミルがしばらく答えなかった。


それから、低く言った。


「**……行き、ます!**」


「**……」**


リンの動きが、止まった。


ユミルの語尾に、感嘆符のような、わずかな、力が、入っていた。普段の、淡々とした、抑制された声とは、違う。


リンが、ユミルを、見た。


ユミルがフードの内側で、わずかに、目を、伏せた。


「**……」**


「**……」**


リンが低く問うた。


「**……ユミル**」


「**……はい**」


「**……拗ねてるか**」


ユミルがフードの内側で、わずかに、固まった。


「**……拗ねて、おりません**」


「**……」**


「**……」**


「**……朝から、お誘い、いただけるかと、思っておりました**」


「**……済まん**」


「**……」**


「**……寝坊した**」


「**……承知しております**」


リンの口元が、わずかに、動いた。笑った。


「**……今からで、いいか**」


ユミルがフードの内側で、わずかに、目を上げた。


「**……すぐ、出れます……!**」


「**……」**


リンが、目を、見開いた。


「**……早いな、ユミル……!**」


ユミルがフードの内側で、わずかに、慌てた。


「**……」**


「**……」**


「**……いえ、その**」


「**……」**


「**……ご準備、できております、と、いう、意味で**」


「**……」**


リンが、笑った。


「**……行こう**」


「**……はい**」


ユミルが、扉を、自分で閉めた。それから、リンの後ろから、ついてきた。いつもより、わずかに、足取りが、軽かった。


リンは振り返らずに、わずかに、笑った。


---


ヴァナールの中央通りは、昼過ぎでも賑わっていた。


街は、ε編の闇MTTB事件の収束を、徐々に受け入れ始めていた。商業ギルドへの追訴は進行中。ティルスの捕縛は街中に布告されていた。住人たちはまだ事件の余韻を引きずりつつ、日常の活気を取り戻しつつあった。


リンとユミルは、中央通りの東側、商業区画に入った。


ユミルはフードを被ったまま。だが、いつもより、わずかに、フードを浅く下ろしていた。視界を、広く取るために。


最初に目に入ったのは、屋台街だった。


ヴァナールには様々な獣人が住んでいた。猫獣人、犬獣人、狼獣人、鳥獣人、山羊獣人、熊獣人、狐獣人。それぞれの故郷の料理が、屋台で売られていた。


「**……これは**」


ユミルが立ち止まった。


最初の屋台は、犬獣人の店主の、肉の串焼き。香辛料が強い。


「**……興味深い、香りです**」


リンが店主に銅貨を二枚渡した。串を二本受け取って、一本をユミルに渡した。


ユミルがフードの下で、串を、両手で受け取った。


しばらく、串を見ていた。


それから、小さく、口を開けた。


肉を、ひと口、噛んだ。


「**……」**


ユミルの目がフードの内側で、わずかに、開いた。


「**……これは**」


「**……どうだ**」


「**……塩と、香辛料の、配合が、複雑です**」


「**……」**


「**……一口ごとに、味が、変化します**」


「**……うまいか**」


ユミルがしばらく答えなかった。


それから、低く言った。


「**……はい**」


リンの口元が、わずかに動いた。


ユミルは串を、もう一口、噛んだ。それから、もう一口。


リンも、自分の串を、食べ始めた。


---


次の屋台は、鳥獣人の店主の、揚げパン。中に甘い果実の餡が詰まっていた。


「**……パンの、内側に**」


ユミルがフードの内側で、わずかに、目を細めた。


「**……果実、甘味、香りも、複層的です**」


「**……これも、食べてみるか**」


「**……はい**」


リンがもう一つ、ユミルに渡した。


ユミルが噛んだ。果実の餡が、わずかに、唇に付いた。ユミルが慌てて指で拭った。リンに気付かれぬように、フードの内側に手を入れて、唇を、軽く、整えた。


リンは見ていたが、何も言わなかった。


---


次は猫獣人の店主の、魚の干物。


「**……これは**」


ユミルが目を細めた。


「**……ファーファ様の、お好きな種類**」


「**……ジャーキーじゃないのか**」


「**……ジャーキーは、肉です。これは、魚**」


「**……ああ**」


ユミルが小さく頷いた。


リンが店主から干物を一枚買った。ユミルに渡した。ユミルが噛んだ。


「**……塩気が、強い、ですが、後味が、軽い**」


「**……魚の脂、抜けてるな**」


「**……はい。製法の違い、を、感じます**」


ユミルがしばらく、干物を、見つめていた。


それから、低く言った。


「**……ファーファ様、これを、好まれる理由が、分かりました**」


「**……何だ**」


「**……一度、食べると、もう一度、食べたくなる、味です**」


リンの口元が、わずかに、笑った。


---


布の屋台に立ち寄った。


絨毯が、何枚も、立てかけられていた。煌びやかな装飾。複雑な紋様。色の組み合わせ。


ユミルがフードの下で、しばらく、絨毯を見ていた。


「**……これは、何の、紋様ですか**」


リンが店主に問うた。店主——狐獣人の老婆——が、低く笑った。


「**幸運の、結び目だよ。砂漠の向こうの民の、伝統の紋様だ**」


「**……」**


「**幾何学に見えるが、実は、文字でね。読むと、祈りの言葉になる**」


ユミルが目を細めた。


「**……文字、ですか**」


「**そうさ。お嬢さん、興味があれば、解読法を、教えるよ**」


「**……いえ、結構です**」


ユミルが軽く頭を下げた。


「**……ですが、紋様の、構造、興味深いです**」


「**変わったお嬢さんだね**」


老婆が低く笑った。


リンとユミルが、屋台を離れた。


ユミルが歩きながら、わずかに、振り返った。


「**……あの紋様、後で、解析、してみたいです**」


「**……買うか**」


「**……いえ。見るだけで、覚えられます**」


「**……お前、便利な能力だな**」


「**……はい**」


ユミルがフードの内側で、わずかに、頷いた。


---


歩いていると、街の人たちがリンに気付いた。


商家の主人が、リンに頭を下げた。


「**リン殿、お疲れ様で。ティルスを、捕らえてくださった、と、伺っております**」


「**……ファーファです。僕じゃないです**」


「**いえ、皆さまのお力で。本当に、ありがたいことです**」


別の老人が、軽く手を振った。


「**水脈の事、安心しました。にゅーるが、また、安心して、口に出来ます**」


子供が、リンに駆け寄って、何かを差し出した。木彫りの、小さな、馬。


「**お兄ちゃん、これ、あげる**」


「**……俺に、か**」


「**……お父さんが、お兄ちゃんに、お礼を、って**」


リンがしゃがんだ。木彫りの馬を、両手で受け取った。


「**……ありがたく、もらおう**」


子供が頷いて、走り去った。


ユミルがリンの傍で、しばらく、それを見ていた。


それから、低く言った。


「**……街の方々、リン様を、慕っておられます**」


「**……いや、皆の、おかげだ**」


「**……皆、と、リン様は、ご一緒に、いる、と、私は、思います**」


リンはしばらく、ユミルを見ていた。


ユミルの口元が、フードの内側で、わずかに、笑っていた。


リンが見たのは、ユミルの**微笑み**だった。


---


中央広場を抜けた。


広場の隅に、猫の集まりがあった。日向ぼっこをする街の猫が、何匹か。それから、猫獣人の子供が、二人、猫を、撫でていた。


ユミルが、足を、止めた。


フードの下で、目が、わずかに、開いた。


「**……」**


「**……どうした**」


「**……猫**」


「**……ああ**」


「**……可愛い、ですね**」


リンが、ユミルの方を、見た。


ユミルの目が、いつもの淡い色のまま、だが、いつもより、ずっと、輝いていた。フードの影の中で、目が、キラキラしていた。


ユミルが猫を好む事は、リンは、もう、知っていた。屋敷の庭で、こっそり、街の猫に、餌をやっていた事も。窓の外を通る猫を、フードの内側から、目で追っていた事も。


リンが、低く、言った。


「**……行ってみるか**」


「**……」**


「**……宜しい、のですか**」


「**……行こう**」


ユミルが、リンの後ろから、ついてきた。広場の隅、猫の集まりの傍。


ユミルが、しゃがんだ。


一匹の、白黒の猫が、ユミルの手の方に、ゆっくりと、近づいてきた。


ユミルが、指を、わずかに、伸ばした。


猫が、指を、嗅いだ。


それから、頭を、ユミルの指に、押し付けた。


ユミルの手が、猫の頭を、優しく、撫でた。


ユミルの口元が、フードの内側で、笑った。


リンは、それを、見ていた。


ユミルが、こんな笑い方を、するのは、リンも、初めて、見た。


---


屋台街を抜けて、少し奥の細い通りに入った時。


ジャーキーの強い匂いが、流れてきた。


ファーファだった。


黒猫獣人姿のファーファが、抱えきれないほどのジャーキーの袋を、両手と、尻尾と、腰に、ぶら下げていた。屋台から屋台へと回って、買い続けていた。


「**……ニャ。これも、これも、これもニャ。ぜんぶ、買うニャ**」


ファーファが、店主に、銅貨を、たっぷり、握らせていた。店主が、慌てて、頷いた。


「**……ファーファ**」


リンが声をかけようとして、止めた。


ファーファの後ろ、十間ほど離れた、別の屋台の影に、誰かが、隠れていた。


茶色の毛の、若い、猫獣人の女性。


クララだった。


商家の娘、若い猫獣人。リンが街の入り口で盗賊から助けた、あの娘。


クララは、ファーファを、後ろから、こっそり、見ていた。屋台の影に隠れて、ファーファの動きを、追っていた。


リンが、クララの方に、目を向けた。


クララが、リンと、目が、合った。


クララの顔が、瞬時に、赤くなった。


慌てて、屋台の影に、引っ込んだ。


リンの口元が、わずかに、動いた。


ユミルが、リンの傍で、低く問うた。


「**……あの方、どうかされましたか**」


「**……いや、何でもない**」


「**……」**


「**……行こう**」


リンとユミルが、その通りを、抜けた。


通りを抜けながら、リンは一度だけ、振り返った。


クララが、屋台の影から、わずかに、顔を出して、ファーファを、見ていた。ファーファは、相変わらず、ジャーキーを、買い続けていた。


リンは、何も、言わなかった。


ユミルにも、説明しなかった。


ユミルもそれ以上、問わなかった。


---


通りを歩いていると、ユミルの足が、ある店の前で、わずかに、止まった。


アクセサリー屋だった。


店先に、銀のピンが、並んでいた。木の台の上に、いくつか、見本として、並べられている。蝋燭の橙色の光が、銀の表面を、わずかに、反射していた。


ユミルがフードの下で、しばらく、見本のピンを、見ていた。


リンがユミルの傍で、低く、言った。


「**……入るか**」


「**……」**


「**……宜しい、のですか**」


「**……ああ**」


ユミルがフードの内側で、わずかに、頷いた。


二人で、店に、入った。


店内は、薄暗かった。蝋燭の橙色の光。木の棚に、銀のピン、銀の腕輪、銀の鎖、それから、いくつかの宝石。


ユミルが、棚を、ゆっくり、見て回った。


「**……これは**」


「**……銀の、装身具、ですか**」


「**……ええ。お嬢さん、何か、お探しで?**」


店主——年配の山羊獣人の女——が、低く言った。


「**……いえ、ただ、見て、おります**」


「**……どうぞ、ご自由に**」


ユミルがフードの下で、棚を、見ていた。


腕輪。鎖。耳飾り。指輪。それから、髪に挿す、ピン。


ユミルが、ピンの棚の前で、足を、止めた。


色々な、デザインがあった。花、鳥、星、月。


その中の、一つに、ユミルの目が、止まった。


銀の、ピン。先端に、小さな、猫の、彫刻。耳が、上を、向いた、座っている、猫の姿。シンプルだが、丁寧な、細工。


ユミルが、しばらく、ピンを、見ていた。


それから、リンに、目を向けた。


「**……リン様**」


「**……ああ**」


「**……これ、いただいても、宜しいですか**」


「**……買うか**」


「**……はい**」


ユミルがピンを、棚から、そっと、取り上げた。


リンが、店主に、銀貨を渡した。


店主がピンを、小さな、布の袋に、入れて、ユミルに渡した。


「**……お買い上げ、ありがとうございます**」


「**……」**


ユミルが、布の袋を、両手で、受け取った。


しばらく、袋を、見ていた。


それから、布の袋から、ピンを、取り出した。


両手で、ピンを、持っていた。


「**……」**


ユミルが、ローブの胸元の、フードの留めの、隣に、ピンを、刺した。


銀の、猫が、ユミルの胸元で、座っていた。


ユミルが、ピンの位置を、軽く、整えた。


それから、リンに、目を向けた。


ユミルの口元が、フードの内側で、笑っていた。


リンが、初めて、見る、笑顔だった。


街の、人々への、微笑みでもなく、猫を撫でた時の、優しい笑みでもない、何か、別の。


リンの中で、何かが、動いた。


「**……似合うな**」


「**……ありがとうございます**」


「**……」**


「**……大切に、致します**」


ユミルが、低く言った。


リンが頷いた。


---


夕刻が、近づいていた。


中央通りの、西の空が、橙色に、染まり始めていた。


リンが懐の時計を見た。父からもらった、簡素な時計。冒険者になる時に持たされた、家族の品。


「**……ユミル、そろそろだ**」


「**……夕食会**」


「**……ああ**」


ユミルが頷いた。


夕食会は、領主邸の中ではなく、街の食堂を借りて行われる予定だった。今回の顛末を、仲間たちと、一緒に、飯を食べながら、振り返る。グレン領主が手配してくれた、街の人たちにも開かれた席。


リンとユミルが、食堂の方向に、歩き始めた。


ユミルの胸元の、銀の、猫のピンが、夕陽を、わずかに、反射していた。


リンが、ユミルの傍を、歩きながら、低く言った。


「**……ユミル**」


「**……はい**」


「**……今日、楽しかったか**」


ユミルがしばらく答えなかった。


それから、低く言った。


「**……はい**」


「**……」**


「**……リン様は**」


「**……また行こうな**」


ユミルがフードの内側で、わずかに、目を、見開いた。


それから、わずかに、頷いた。


「**……はい**」


二人で、食堂の方向に、歩いた。


通りの先に、食堂の灯りが、見えてきた。


橙色の、暖かい、光。


二人が、食堂の扉の前に、立った。


リンが、扉を、押した。


中から、賑やかな声が、聞こえてきた。ガルムの低い声、ファーファの「ニャ」、それから、商業ギルドの面々の、笑い声。


リンが、振り返った。


ユミルが、リンの後ろに、立っていた。


胸元に、銀の、猫。


ユミルがリンに、わずかに、頷いた。


二人が、食堂に、入っていった。


—了—


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