183 投降
===== リンルート =====
「**……マジか……!**」
男の声が初めて大きくなった。
岩の柱の前にいた男が跳んだ。広間の岩の壁の方向に。
跳んだ先にまた青い板が出現した。
ランダムだった。
男が空中で姿勢を変えた。別の場所に転移しようとした。転移先が青い板の近くだった。男が慌てて転移を解除した。空中で姿勢を崩した。岩の床に転がるように降り立った。
「**……マジか、マジか**」
男の声が続けて漏れた。
リンも跳んでいた。
リンの周りで青い板が次々と転移を続けていた。リンの右斜め前。リンの左斜め後ろ。リンのすぐ後ろ。
リンは岩の床を転がって跳んでまた転がった。板に触れないように必死で避け続けた。
ガルムは岩の壁の側に貼り付くようにして動いていなかった。動けば板に触れる可能性が高かった。
板の数は揺れていた。今五枚。次の瞬間、三枚。次の瞬間、七枚。
予測できなかった。
リンの心臓が激しく打っていた。
リンは自分の出した何かを止めたかった。だが止め方が分からない。引数を `hoge` で出したその後の処理がどこで終わるのか、リンには分からなかった。
「**……ユミル**」
リンの口が低く動いた。
ユミルがここにいれば。
ユミルなら止め方を知っているはずだった。
だがユミルは別の通路にいた。
板が続けて転移した。
岩の柱の上半分が円形に消えた。岩の床にまた円形の抜けた跡。古代の装置の残骸らしき金属の塊が消えた。
「**……これ、ヤバい**」
男の声が漏れた。
「**……マジに、ヤバい**」
男が岩の床を、何度目かの跳躍の後、座り込んだ。
息を整えていた。
それから肩の雄鶏に目を向けた。
「**……なぁ、レヴィ**」
「**……ダンナ**」
「**……これ、捕まる、選択肢、ありだよな**」
肩の雄鶏がしばらく答えなかった。
それから首を傾けた。
「**……ダンナ、勝てれば、逃げるつもり、だったろう**」
「**……うん**」
「**……負けたら**」
「**……負けたら、それは、それで**」
「**……話す、機会、できる、と**」
「**……うん**」
肩の雄鶏が嘴をわずかに開いた。笑ったように見えた。
「**……賢いな、ダンナ**」
「**……レヴィに、賢いって、言われると、嬉しいな**」
「**……それは、皮肉では、ない。事実、だ**」
「**……」**
「**……捕まったら、組織には、戻れぬぞ**」
「**……」**
「**……戻る気は、あったのか、ダンナ**」
「**……」**
「**……」**
「**……さあな**」
男が低く笑った。
それから両手を上げた。降参の合図。
「**……やめた、やめた**」
ゆっくりと立ち上がった。リンの方向に歩き始めた。
板の隙間をゆっくり縫って進んだ。途中で板が近づいた時には足を止めた。板が別の場所に転移した時にはまた進んだ。
リンは矢を番えていた。男に向けて構えたまま。
男がリンの五間ほどの距離まで来た。
それから足を止めた。
岩の床に片膝をついた。両手は上げたまま。
「**……投降するよ**」
低い、落ち着いた声。
最初の岩の柱の前で聞いた声と同じ温度に戻っていた。
「**……縛ってもいいし、ガルムさんに、剣で構えてもいい。抵抗、しない**」
リンは矢を番えたまま男を見ていた。
「**……ロック、と、呼んでくれ**」
男が低く言った。
「**……それが、俺の名前だ**」
リンはしばらく答えなかった。
矢を番えたまま男の表情を見ていた。
男の唇はわずかに笑っていた。だが目元は真剣だった。
リンは低く答えた。
「**……ロック、か**」
「**……うん**」
「**……話したい、ことが、あるのか**」
男の口元がわずかに動いた。
「**……あるよ。前から、ね**」
「**……」**
「**……でも、今は、ここでは、ない**」
「**……」**
「**……ヴァナールに、戻ってから、話そう**」
肩の雄鶏が首を傾けた。
「**……レヴィも、一緒、だよな**」
ロックが肩越しに言った。
「**……当然、ご一緒する**」
「**……ありがとな**」
「**……礼には、及ばぬ。私も、興味、ある**」
リンは矢筒を撫でた。
ガルムが岩の壁の側から慎重に近づいてきた。剣身を低く構えたまま。男の方向を警戒したまま。
「**……リン様、罠の、可能性は**」
「**……ある。だが、矢を構えたまま、近づこう**」
「**……承知**」
ガルムが男の傍に立った。
男は片膝のまま動かなかった。両手は上げたまま。
肩の雄鶏も動かなかった。男の肩にただ止まっていた。
ガルムが剣身を男の首筋に当てた。
「**……動けば、斬る**」
「**……動かないよ。約束**」
ガルムが片手で男の手首を後ろでまとめた。
リンは矢を矢筒に戻した。
革帯から捕縛用の紐を取り出した。事前に何本か用意してきたもの。ティルス用、それから予備。
ガルムが押さえている男の手首に紐を巻きつけた。両手首を後ろで固く縛った。次に両足首も紐で縛った。
男は抵抗しなかった。されるがままだった。
板の動きはまだ続いていた。だが数は徐々に減り始めていた。
リンは男を岩の壁の側まで引きずった。板から距離を置く位置に。
肩の雄鶏も一緒に引きずられた。男の肩に止まったまま。
「**……ダンナ、惨めな、姿だ**」
「**……うるさいな**」
「**……だが、選んだのは、ダンナ自身だ**」
「**……それは、認める**」
リンは男を岩の床に座らせた。
男が低く言った。
「**……君、本当、強かったよ**」
「**……」**
「**……運だけじゃ、なかった、と、今は、思う**」
リンは答えなかった。
男は目を閉じた。投降した敗者の姿勢。だが口元はわずかに笑っていた。
肩の雄鶏も軽く目を閉じた。共犯者の姿勢。
---
広間に男の姿はもう動かなかった。
だが青い板はまだ転移を続けていた。
リンは岩の床に座り込みかけて止めた。座り込めば板に触れる可能性があった。
リンは立ったまま息を整えた。
板の数が徐々に減っていた。最初は五枚から七枚を揺れていた。それが三枚になった。二枚になった。
それから——
板がすべて消えた。
最後の一枚が岩の壁の近くで転移して、そこで自然に消滅した。
広間に静寂が戻った。
「**……」**
リンはしばらく立っていた。
息がまだ整わなかった。心臓が激しく打っていた。手が震えていた。
ガルムが岩の壁の側からゆっくりとリンの傍に寄った。
「**……リン様**」
「**……ガルム、無事か**」
「**……はい。リン様こそ**」
「**……ああ**」
リンは矢筒を撫でた。
腰の矢、残り六本。背の十五本。合計二十一本。消費は四本だった。最初の十間の距離で的に当たらなかった矢。それから近接戦闘の中で放った矢。
リンは矢を矢筒に戻した。
そして初めて岩の床に座り込んだ。
膝が震えていた。立っているのが辛かった。
ガルムが低く言った。
「**……リン様、あれは、何でございましたか**」
「**……分からん**」
「**……」**
「**……俺も、何が起きたか、分からん**」
ガルムが頷いた。
「**……ですが、リン様、あれは強力でございました**」
「**……強力すぎる**」
「**……」**
「**……俺も巻き込まれかけた。あれが続いていたら、俺もガルムも消えていた可能性がある**」
ガルムはしばらく答えなかった。
それから低く言った。
「**……リン様、あれはお一人で止められぬ技なのですね**」
「**……今は、まだ、そうだ。ユミルに聞かないと、分からん**」
「**……承知いたしました**」
リンは立ち上がろうとした。
膝が震えていた。立ち上がれなかった。
ガルムがリンに手を貸した。
「**……リン様、お休みになられても、宜しいかと**」
「**……いや、ユミルがまだ戦っている可能性がある。ファーファも**」
「**……」**
「**……合流しないと**」
ガルムが頷いた。
リンがガルムの手を借りて立ち上がった。
体が重かった。だが立ち上がれた。
リンは広間を見渡した。
岩の壁が何箇所か円形に抜けていた。岩の柱の上半分が消えていた。岩の床にもいくつか円形の抜けた跡。古代の装置の残骸が消えていた。
ハッカー側の装置の一部が失われていた。
リンは低く息を吐いた。
「**……ヴィレム氏に、悪いな**」
「**……と、申しますと**」
「**……ハッカー側の装置を押さえて、証拠にするのが目的だった。一部が消えた**」
「**……」**
「**……まあ、仕方ない。生き残ったほうが優先**」
リンは捕らえた男を、岩の壁の側から引きずった。両手両足を縛られた男は、抵抗せず、岩の床を引きずられた。肩の雄鶏も一緒に。
リンは広間の入口の方向に足を向けた。
ガルムがリンの後ろに続いた。
---
通路に戻った。
最初に来た細い通路を戻った。古代の文様が彫られた岩肌。
通路の奥から別の音が聞こえた。
ガルムの肩がわずかに緊張した。
「**……リン様**」
「**……」**
リンも矢を番えようとして、止めた。
足音が聞こえた。
複数。
何かを引きずる音。
そして低い声。
「**……武人さんニャ、もうちょっとニャ。あと、少しの距離ニャ**」
ファーファの声だった。
リンの肩がわずかに下がった。
矢を矢筒に戻した。
「**……ファーファ**」
通路の奥からファーファが現れた。
黒猫獣人姿。体に傷がいくつもあった。血が滲んだあとがあった。
ファーファは右手で何かを引きずっていた。
人だった。
ティルス・ヴァルクスだった。両手両足を紐で縛られていた。意識はあるようだったが体は動かなかった。革鎧の表面が焦げていた。腕の皮膚が爛れていた。長剣がティルスの体の上に置かれていた。剣身は熱で歪み、表面が黒く焦げていた。
「**……主、無事ニャ**」
ファーファがティルスを岩の床に置いた。
リンの傍に駆け寄った。
「**……主、怪我**」
「**……ない。ガルムが肋骨を打っただけだ**」
「**……ニャ。ファーファ、武人さん捕まえたニャ**」
「**……ファーファも生きてるな**」
「**……ニャ**」
ファーファの口元が笑っていた。
それから、リンの引きずる男に目を向けた。
「**……主、その人**」
「**……ロック。フードの男だ。投降してきた**」
「**……ニャ? 投降ニャ?**」
「**……ああ**」
ファーファが首を傾けた。
「**……武人さんは、ファーファが捕まえたニャ。主は、自分から捕まりに来た人を捕まえたニャ**」
「**……そういうことになる**」
「**……変な戦闘ニャ**」
ロックが目を閉じたまま、低く言った。
「**……ご挨拶だな**」
「**……ニャ。誰**」
「**……だから、ロックだよ**」
肩の雄鶏が付け加えた。
「**……レーヴァテインだ。ロック殿のご相棒、を、しておる**」
ファーファが首をさらに傾けた。
「**……雄鶏も、お喋りニャ**」
「**……時代の趨勢、で、あろう**」
ティルフィングの声が、ティルスの体の上の長剣から漏れた。
「**……ご同類が、増えた**」
ファーファが鼻を、ぴくり、と動かした。
「**……武人さんの剣も、お喋りニャ**」
リンはしばらく、ファーファとティルスとロックを順に見ていた。
それから低く言った。
「**……ファーファ、ティルス殿はここに置いていけ。俺がロックを連れていく。お前は、ユミルを迎えに行ってくれ**」
「**……主、ファーファが武人さんを連れていくニャ。主は、ロックさんを**」
「**……お前、傷だらけだろう**」
「**……傷は、平気ニャ**」
「**……無理は、するな**」
「**……ニャ**」
ファーファがリンを見ていた。
リンが首を振った。
「**……ガルムが、いる**」
「**……ニャ……」**
ファーファはしばらく考えていた。
それから頷いた。
「**……分かったニャ。ファーファ、ユミルさん、迎えに行くニャ**」
ファーファがリンの背を、軽く叩いた。
「**……主、無理しないニャ**」
「**……お前もだ**」
ファーファが立ち上がった。
それから別の通路の方向に駆けていった。装置の方角の、本来ユミルが進んだ通路。
通路の奥にファーファの姿が消えた。
---
ガルムがティルスを担ごうとした。
担げなかった。ガルムも肋骨にひびが入っていた。長身のティルスは重すぎた。
「**……リン様、申し訳ございません**」
「**……仕方ない。引きずるか**」
「**……はい**」
ガルムがティルスの片腕を掴んだ。
リンも、もう片方の腕を掴んだ。
二人でティルスを引きずる。岩の床を、ティルスの体がずるずると進んだ。長剣はティルスの胸の上に置かれていた。剣身が体と一緒に揺れた。
ロックは縛られたまま、岩の床を一人で歩いていた。両手両足は縛られていたが、足首を結ぶ紐は歩ける程度の長さに余裕を持たせてあった。捕縛紐の端をリンが片手で持っていた。
「**……ロック、お前、自分で歩け**」
「**……はい、はい**」
肩の雄鶏が低く言った。
「**……ダンナ、リン殿に、丁寧に、答えろ**」
「**……うるさいな**」
「**……」**
「**……はい、リン殿**」
リンは答えなかった。
黙々と引きずった。
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ファーファとユミルが追いついてきたのは、中層の階段の手前だった。
ユミルは光の薄い板を手元に灯したまま、外套のフードを深く被っていた。リンを見ると、わずかにフードを上げた。
「**……リン様**」
「**……ユミル**」
「**……ご無事で、何よりです**」
「**……お前もだ**」
「**……はい**」
ユミルがガルムとリンの引きずるティルスを見た。それから、リンが連れているロックを見た。
ロックの肩の雄鶏も見た。
「**……」**
「**……ユミル、ロックは投降してきた。話したいことがあるそうだ**」
「**……」**
ユミルはしばらくロックを見ていた。
それから板を撫でた。
`exec.gravity_shift --target=tilus --weight=reduce_half`
板の上で文字列が走った。
ティルスの体の重さが半分になった。リンとガルムが引きずるのが楽になった。
「**……ユミル、ありがたい**」
「**……どうぞ**」
ユミルがロックの方にも目を向けた。
「**……ロック様の方は**」
ロックが頷いた。
「**……俺は自分で歩く。重さ、変えなくていい**」
「**……承知しました**」
ユミルがリンの後ろに立った。リンの足元がふらつくたび、ユミルの視線がリンの足元に落ちた。だがユミルは何も言わなかった。
リンも何も言わなかった。
階段を上った。
中層に出た。
中層には、リンが押さえた歩哨二名がまだ縛られていた。意識はあるようだった。
「**……ガルム、この二人も連れて行くか**」
「**……ティルス殿の配下と思われます。連行は必要かと**」
「**……分かった**」
ガルムが歩哨二名の縛り紐を確認した。意識は戻っていた。猿轡を噛ませて、両手を前で縛り直し、足は歩ける程度に余裕を持たせた紐に変えた。歩かせて連行する。逃げようとすれば刺せる距離で。
リンが低く言った。
「**……外に出るか**」
「**……はい**」
ユミルが頷いた。
中層から入口の方向への通路に入った。
ヘラ山の岩の道をゆっくりと上った。
通路の奥からわずかに外の風の匂いが流れてきた。
—了—




