182 アレか。
===== ユミルルート =====
「**……舐めないでください**」
ユミルの指が動いた。
サンドボックスの立方体の一面がわずかに揺らいだ。
ヘルムが足を止めた。振り返った。
気だるげな目元がわずかに開いていた。
「**……あー?**」
「**……」**
「**……何それ**」
ガラルホルンが革帯から声を漏らした。
「**……ご主人、対象、内部から、コマンド構築中。サンドボックスの内壁、解析対象に変化しております**」
「あー、本当だ」
ヘルムが頭を掻いた。
ユミルは答えなかった。
光の薄い板の上で文字列が走っていた。
`分析:sandbox、構造、ヘルム、複製版`
`分析:複製、忠実度、不完全`
`分析:複製、ヘルム自身の、解析能力、由来`
ユミルの口元がわずかに動いた。
ヘルムの能力は解析した技を一時的に使える、というもの。だがそれは**解析の深さに依存する**。深く解析できた技は忠実に再現できる。浅い解析は不完全な複製しか生み出せない。
ユミルのサンドボックスはユミル自身の構造の内部の処理。ヘルムはそれを外側から観察して解析した。観察の範囲はサンドボックスの見た目の効果——対象を隔離する立方体の枠。
だがサンドボックスの本来の構造はそれだけではない。
内側からの操作を許す抜け道がある。実装段階で設計者が意図的に組み込んだデバッグ用のハッチ。本来はテスト時に内部の状態を外から確認するための仕掛け。設計者でなければ知り得ない内部仕様。
ヘルムの複製サンドボックスにはそのハッチがなかった。
ヘルムは外見の効果を複製しただけ。設計の内側までは複製できなかった。
だからユミルは内側から出られた。
ユミルの指先が立方体の枠の一面を軽く押した。
枠の一面がわずかに押し戻った。
そして消えた。
立方体の枠が崩れた。光の粒が空中で消滅した。
ユミルはサンドボックスの外に立っていた。
「**……」**
ヘルムの目が見開かれていた。
気だるげな顔がわずかに引き締まっていた。
「**……俺の複製、突破したのか**」
「**……はい**」
「**……どうやって**」
「**……ヘルム様の複製、不完全でした**」
ガラルホルンが低く言った。
「**……ご主人、複製の精度、表層のみ。内部仕様、未解析でした。私の見立て、甘かった**」
「あー」
ヘルムが頭を掻いた。
「俺のせいじゃない、ってこと?」
「**……ご主人、私の責任でもあります。共同責任です**」
「優しいなあ」
ヘルムがユミルを見た。
「**……君の構造、解析しきれない、って言ったでしょう**」
「**……はい**」
「**……それ、本当の本当に解析できないんだよ**」
「**……」**
「**……他の誰のは、ある程度解析できるんだけどね。君のは、底が見えない**」
ガラルホルンが応じた。
「**……ご主人、私もです。出力を上げて深部を覗いても、層が続いている。終わりが見えない**」
ユミルは答えなかった。
光の薄い板を撫でた。板の上で文字列が走った。
`exec.scan --target=helm --depth=root_source`
ヘルムの能力の根源を解析しようとする処理。表面の能力ではなく、能力の出所。
板の上でエラーが出た。
`ERROR: 解析、不能。ただし、検出、外部依存、確認`
「**……」**
ユミルの目がわずかに細くなった。
外部依存。
ヘルムの能力はヘルム自身の内部から湧いているのではなかった。何か外部のものに依存していた。
ユミルはヘルムの全身を見た。
ヘルムの腰。革帯の下、内側に。
ガラルホルンの声の出所。
ユミルの口元が動いた。
「**……ヘルム様**」
「**……」**
「**……腰のそれ、何ですか**」
ヘルムがわずかに後ろに退いた。
「**……あー、それ気付いたか**」
「**……」**
「**……君、本当、面倒くさいね**」
ガラルホルンが低く言った。
「**……ご主人、相手の解析、急速に深まっております。私の存在、捕捉されました**」
「うん、分かった」
ヘルムが両手を上げた。
両手の指先に火球が灯った。空中にも火球が生まれた。十、二十、三十——
「**……数で押すよ。さっきの続き**」
火球がユミルの方向に一斉に飛んだ。
ユミルの口が動いた。
「**……exec、firewall、direction、front、layer、thirty**」
ユミルの前に三十重の光のカーテンが立ち上がった。火球が当たった。十二枚が砕けた。十八枚が残った。
「**……」**
ヘルムが頭を掻いた。
「**……魔力、無駄遣い嫌なんだけどなあ**」
ガラルホルンが付け加えた。
「**……ご主人、相手の防御、密度上昇中。本来の出力に近づいております**」
「マジか」
「**……はい**」
ヘルムがもう一度火球を生成した。今度は五十ほど。
ユミルの板の上で文字列が走った。
`観測:火球、生成元、ヘルム、外部依存、確認`
`観測:依存対象、ヘルム、腰、内側`
ユミルの目が光った。
ヘルムの能力の根源は腰の何か——ガラルホルン自身。それを破壊すれば、能力ごと機能停止する。
ユミルは左手で板を撫でた。
`exec.firewall --direction=front --layer=fifty`
光のカーテンが五十重に増えた。
火球が当たった。三十枚が砕けた。二十枚が残った。
「**……」**
「**……あー**」
ヘルムの口元がわずかに引き締まった。
「**……君、面倒くさいなあ**」
ガラルホルンが低く言った。
「**……ご主人、これ以上は、出力に限界があります。私の負荷、上限近くです**」
「分かってる」
ヘルムが両手をもう一度上げた。
火球の数がさらに増えていった。百、二百——
ユミルの板の上で文字列が走り続けた。
`観測:ヘルム、魔力、消費、加速`
ユミルは息を整えた。
リン様には見せたくない。
そう思っていた。
リン様は別の通路にいた。リン様はここを見ていない。
ユミルは外套のフードを深く被り直した。それから、フードの内側でわずかに目を閉じた。
「**……ヘルム様**」
「**……」**
「**……リン様には、見せたくない、けれど**」
ユミルは目を開けた。
「**……ここなら、良いでしょう**」
---
ユミルの口が動いた。
詠唱は聞こえなかった。
ユミルの唇はわずかに動いていた。だが声は出ていなかった。
光の薄い板の上で文字列が走った。
文字列はこれまでとは違う形をしていた。コマンドラインの形ではなく、もっと深い場所からの何か。
板の表面が白い光を帯び始めた。光が強くなっていった。
広間の中の空気が変わった。
火球の熱が消えた。岩の床の振動が止まった。装置の低い唸りが消えた。
すべての音が引いた。
「**……」**
ヘルムが目を見開いた。
「**……何、これ**」
ヘルムの声は自分の耳にも届かなかった。
世界から音が消えていた。
ヘルムの生成した火球はまだ空中に浮いていた。だが燃える音も空気を切る音も消えていた。火球そのものはまだ燃えているように見えた。だがその熱はヘルムまでは届かなかった。
世界が止まったように見えた。
それはティルスの停止能力ではなかった。停止能力は対象の動きを止める。ユミルのこれは違った。**世界のある側面を切り離す**処理。音、熱、振動——それらの伝達をユミルが束ねていた。
ガラルホルンの声が革帯から漏れた。震えていた。
「**……ご主人、これは——危険です——出力、計測、不能——**」
ヘルムは自分の足元を見た。
岩の床がわずかに震えていた。
震えは足元から上に伝わってこなかった。震えそのものは起きていた。だが伝達が絶たれていた。
ヘルムは目を上げた。
ユミルのフードの内側を見た。
フードの影の中で、ユミルの目が光っていた。
光の色はいつもの淡い色ではなかった。
深い青。
底のない、深い青——
ヘルムの息が止まった。
「**……お前、お前**」
ユミルの唇が動いた。
声は出なかった。世界から音が引いていたから声が伝わらないのか、それともユミルが声を出していないのか。区別がつかなかった。
光の薄い板の上で、文字列が走っていた。
`分析:対象、外部依存型、外来構造`
`分類:未知、感染性、能力寄生型`
`処理:免疫応答、抗体生成、開始`
板の上の文字列を、ヘルムは見ていなかった。
見えていたとしても、意味は分からなかったかもしれない。
ヘルムの目に映ったのは、ユミルのフードの影の中の、深い青の光、それだけだった。
ガラルホルンの声が、鋭く、革帯から漏れた。
「**……ご主人——下がって——」**
「**……」**
「**……これは——」**
---
世界に音が戻った。
ヘルムは岩の床に両膝をついていた。
両手は前に投げ出されていた。手のひらに、白い粉。
骨の粉。
握っていた角笛がいつ砕けたのか、ヘルムには分からなかった。
ヘルムの周りで、火球はすべて消滅していた。
ヘルムの口が動いた。声にはならなかった。
しばらく、何も音にならなかった。
それから、低く、掠れた声が漏れた。
「**……ガラル**」
返事はなかった。
ヘルムの両手はまだ何かを握る形で留まっていた。だがその中にはもう何もなかった。
ヘルムの目がユミルを見上げた。
ユミルの目はまだ深い青の光を帯びていた。
「**……お前**」
ヘルムの声は震えていた。
気だるげな、面倒くさそうな声ではなかった。
「**……アレ、なのか**」
ユミルは答えなかった。
ヘルムの体がわずかに震えた。両膝をついたまま。
「**……」**
それ以上、何も言わなかった。武人ではないが、敗者の沈黙だった。
ユミルの口元がわずかに動いた。
「**……どうぞ、お引き取りください**」
「**……」**
「**……あなた様はもう、戦えません**」
ヘルムは岩の床に両膝をついたまま、しばらくユミルを見上げていた。
それから震える両手で、岩の床から白い粉をわずかにすくった。胸の前に握りしめた。
それから立ち上がった。
膝が震えていた。
ヘルムが岩の床の装置の隅に駆け寄った。
岩の床に古い魔法陣が刻まれていた。半分が装置の影に隠れていた。ヘルムの退路用の転送陣。
ヘルムが魔法陣の上に立った。手を振った。
魔法陣が白く光り始めた。
ヘルムが最後にユミルを見た。
何か言いかけて、止めた。
口を開いては閉じる、それを二度繰り返した。
それから、低く呟いた。
「**……じゃあ**」
ユミルは答えなかった。
魔法陣の光が強くなった。
ヘルムの体が光に包まれた。胸の前で、白い粉を握りしめたまま。
ヘルムの体が消えた。
魔法陣の光が収まった。
岩の床に魔法陣だけが残った。表面の文様がわずかに焦げていた。一回限りの転送陣。もう機能しない。
---
広間に静寂が戻った。
火球の熱はもうなかった。空気は冷たかった。岩の床のヘルムの足跡だけがわずかに温度を残していた。
岩の床に、破片だけがこぼれていた。
ユミルはしばらく立っていた。
光の薄い板を撫でた。板の上で文字列が走った。
`観測:ヘルム、転送、完了`
`観測:転送先、不明`
`観測:ガラルホルン、消失、確認`
ユミルはわずかに、破片のこぼれた場所に目を向けた。
狙ったのは、ヘルムの能力の根源だった。能力寄生型の構造。それを切り離すことで戦闘力を無効化する。物理的な破壊までは意図していなかった。
だがガラルホルンが、間に入った。
ユミルの最後の処理が走るその瞬間に、ガラルホルンが自ら、ヘルムと能力の根源の間に、構造を割り込ませた。能力の寄生先を、自分自身の本体にすり替えた。
結果として、ガラルホルンの本体が砕けた。
ヘルム本人は無傷だった。能力は喪失したが、肉体は生きている。
ユミルが意図したよりも、はるかに軽い結果だった。
そして、はるかに重い結果でもあった。
ユミルの目から深い青の光がわずかに引いていった。
いつもの淡い色に戻った。
ユミルの息が長く出た。
外套のフードをもう一度深く被り直した。
「**……」**
ユミルは装置の方向に目を向けた。
岩の床に転がっていた古代の装置の残骸。配管、計器、用途の分からない金属の塊。
ユミルの本来の任務は装置の制御を押さえることだった。
ユミルは装置に近づいた。光の薄い板を撫でた。
`exec.scan --target=device --depth=function --layer=control`
板の上で文字列が走った。
装置の構造が徐々に解析されていった。
これは転移の増幅装置。古代の上位竜の転移能力を補助するための装置。元々は上位竜のためのものが、ハッカー側に流用されて、低位の魔族の転移補助にも使えるように改造されていた。
ユミルは板を撫で続けた。
装置の機能停止の手順を組み立てた。
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板の上で別の通知が走った。
`scan: 遺跡内、空気の変動、確認`
`scan: 装置、複数、消失、確認`
ユミルの目がわずかに細くなった。
リン様の戦闘が進んでいる。何か大きな現象。
ユミルはしばらく板を見ていた。
それから目を装置に戻した。
板の上で文字列が走り続けた。
ユミルは装置の機能停止の手順を進めた。
リン様の戦闘が続いている間に、ここを終わらせる。それがユミルの任務だった。
—了—




