180 壊れた青
===== リンルート =====
「素直じゃないね」
男の唇がわずかに動いた。
リンは矢を引き絞った。
——空気を切り裂く音。
矢が男の方向に飛んだ。男の姿はもう別の場所にあった。矢が岩の壁に刺さった。
リンは矢筒を撫でた。残り六本。背の十五本はまだ無事。だが消費が速い。
ガルムが低く剣を構え直した。右脇腹を庇う姿勢。肋骨のひびが効いていた。
「リン様」
「ああ」
「私の見立てですが」
「言え」
「あの方の消える動き、私の目には一定の間合いで起きているように見えます」
リンはガルムを見た。
「間合い」
「はい。一定の距離。それから一定の時の隔たり。常にというわけではございませぬが、規則性のようなものがあるように見えます」
リンは目を男の方向に戻した。
男は岩の柱の前に戻っていた。長剣も何も佩いていない。腕を軽く組んでいた。肩の雄鶏も一緒に。
リンはしばらく男を見ていた。
矢を放った。
——空気を切り裂く音。
男の姿が消えた。リンの背後で男の声がした。
「届かないよ」
リンは振り向きざまに矢を放った。
——空気を切り裂く音。
男の姿はまた別の場所にあった。今度は岩の柱の右側。
リンは矢をまた番えた。
放つ前に止めた。
男を見ていた。
ガルムの言葉。一定の間合い、一定の時の隔たり。
リンは自分の中で男の動きを整理し始めた。
最初に男は岩の柱の前にいた。矢を放つ。男がリンの背後に出る。矢を放つ。男が岩の柱の右側に出る。
リンは目を閉じた。
頭の中で男の出現位置を並べ直した。
岩の柱の前——リンの背後——岩の柱の右側——
距離はそれぞれ十間ほど。リンを中心とした円の上の点。
時の隔たりはそれぞれ二、三呼吸ほど。
リンは目を開けた。
そして矢を放たずに待った。
男は岩の柱の右側に立っていた。
二呼吸待った。
三呼吸——
男の姿が揺らいだ。別の場所に出た。今度はリンの左前方。距離十間。
「**……」**
リンの口がわずかに動いた。
「ガルム」
「リン様」
「お前の見立て、当たってるかもしれない」
「と申しますと」
「あの男、消える時、距離と時の間隔が一定だ」
ガルムが男の方向を見た。
「では次の出現位置が予測できるということに」
「全部はできない」
「と申しますと」
リンは目を男に戻した。
男はわずかに笑ったように見えた。
「**……」**
リンの中で何かが引っかかっていた。
距離と時の間隔は一定。だが出現する位置は毎回違った。リンの背後、岩の柱の右側、リンの左前方——位置だけはばらけていた。
距離は規則的。位置は不規則。
「……パターンとランダムの混在、か」
リンは低く呟いた。
ガルムが首を傾けた。
「リン様、何と仰せですか」
「いや」
リンは矢筒を撫でた。
頭の中で男の動きをもう一度整理した。
距離は十間。一定。時の隔たりは二、三呼吸。一定。位置は——円周上のランダム。
リンは矢を新しい一本に入れ替えた。
予測はできない。位置がランダムだから。だが距離と時の間隔は決まっている。次に出現する時間は推定できる。出現後の二、三呼吸の間に別の場所に消える、ということも決まっている。
リンは息を整えた。
問題は矢を当てることだった。位置が予測できなければ当てられない。
矢を放つ前に男の位置を確定させる、何か。
リンは自分の手元を見た。
矢筒。腰の六本。背の十五本。
それからリンの内心に別のものが浮かんだ。
ユミルから教わったいくつかの中位の処理。
シルド——火盾。リンが自力で出せる簡素な防御。
ファイアウォール——ユミルの本来の防御技。リンが見よう見まねで覚えた不完全な版。
どちらも防御。攻撃にはならない。
だが男の動きを止めるなら——
リンの中で何かが組み合わさった。
ファイアウォールを男の出現位置に置けば、男はその先に出られない。少なくともその方向には。男の出現位置が限定される。
リンは矢を番えた。
「ガルム、下がれ」
「と申しますと」
「俺が何かをやる。お前は巻き込まれない位置に」
「リン様、それは」
「いいから」
ガルムはしばらくリンを見ていた。
それから頷いた。
「承知いたしました」
ガルムが岩の壁の側に下がった。
リンは男の方向に矢を向けた。
息が細くなった。
---
男が岩の柱の前にいた。
リンの中で距離と時の間隔の計算が走った。
次の出現は二、三呼吸後。距離十間。位置ランダム。
リンはファイアウォールを出そうとした。
`exec.firewall --direction=hoge --layer=hoge --target=hoge`
引数が全部適当だった。
リンはユミルのコマンドを見よう見まねで覚えていた。だが引数の意味は半分しか分かっていなかった。direction、layer、target、それぞれが何を指しているのか完全には把握していない。
把握できていないものは `hoge` で置く。
それがリンの流儀だった。
リンの唇が動いた。
「……exec、ファイアウォール、direction、hoge、layer、hoge、target、hoge」
詠唱が不完全だった。コマンドの形は整っていたが引数の中身がすべて空欄。
リンの中で何かが走った。
ユミルがいつも言っていた言葉が思い出された。
——リン様、引数をすべて `hoge` る、その時、技はバグります。
リンは目を瞑った。
開けた。
「……layer、10」
数の指定だけは入れた。
10、と言った。十重のファイアウォールを想定していた。
だがリンの口の中で、10の音がわずかに揺らいだ。
「……layer、10——いや、いくつだ」
リンの中で数が固まらなかった。10か、20か、100か。緊張で判断がぼやけた。
「……layer、10、20、なんでもいい」
リンは適当に数を口走った。
——マジックナンバー。
数の指定が複数の固定値に揺れた。
リンの口が止まった。
リンの目の前に何かが現れた。
---
それはファイアウォールではなかった。
青い板。
光のカーテンではない。光の薄い板でもない。**壊れた青い板**。
板の表面にノイズが走っていた。砂嵐のような揺らぎ。色が赤や緑にちらついた。一部にモザイク状のブロック化。歪んでいた。揺れていた。
板の周りで低い音がしていた。クリッピングのようなノイズ音。何かが壊れた機械の音。
板が空中に立ち上がっていた。
一枚——
二枚——
三枚——
板が増えていった。リンの周りに勝手に出現した。それぞれがわずかに別の場所に。一枚はリンの右斜め前。一枚は岩の柱の手前。一枚は岩の壁の側。
数が揺れていた。三枚が四枚になった。四枚が二枚に減った。二枚が五枚に増えた。
リンは立ち尽くしていた。
「**……」**
リンの口は開いたまま動かなかった。
これは何だ——
リンの中で何かが思い出された。ユミルがいつか教えてくれたコマンドの中で、不完全な引数の組み合わせで稀に別の処理が発動する場合がある、と。引数の解釈が構築段階で別のテーブルに流れ込む——
それがこれか。
青い板。複数。揺れている。
板がゆっくりと男の方向に動き始めた。
「**……」**
リンは自分の出した何かを見ていた。
ガルムが岩の壁の側で低く呟いた。
「リン様、これは……」
「俺にもわからない」
「……」
「触るな」
「は、はい」
リンは自分の右手を見た。震えていた。
板の一枚が岩の壁に触れた。
岩の壁の一部が消えた。
円形に抜けた。岩肌が何の痕跡も残さずに消失した。岩の粉も破片もなかった。ただ抜けた。
「**……」**
リンの息が止まった。
板が続いて岩の柱の方向に動いた。
岩の柱の表面がわずかに削れた。板が表面に触れて、それから別の場所に移動した。
板が消えた。
その瞬間、別の場所に新しい板が現れた。さっきとは別の位置。
「**……」**
板の数は減って、増えて、また減った。
そのうちの一枚が男の方向に動いていった。
ゆっくり——とてもゆっくり——
男は岩の柱の前で動いていなかった。
板が男に近づいた。距離五間。
男の唇が動いた。
「**……それは、何だい**」
低い、落ち着いた声。
だがその声に初めてわずかな温度の変化があった。落ち着きがわずかに薄れていた。
肩の雄鶏が首を傾けた。
「**……ダンナ、これは、見たことが、ない**」
「**……俺もだよ**」
「**……読みが、効かぬ、現象**」
「**……リン君**」
男の声はわずかに低くなった。
「**……それ、何**」
リンは答えなかった。
答えられなかった。
「**……答えなくて、いいけど**」
男がわずかに後ろに退いた。
「**……それ、危ないでしょう**」
板が男の方向に動き続けた。
男の姿が揺らいだ。消える寸前——
板の一枚がふいに男の出現予定の位置に転移した。
板が消えた場所に再出現した。出現位置はランダム——男の予定位置と近い場所——
男の動きが止まった。
「**……」**
男の唇が動いたが声は出なかった。
板が男の方向にすぐ近くまで迫った。距離二間。
「**……マジか**」
男の声が漏れた。
低い落ち着いた声ではなかった。驚きの混じった素の声だった。
「**……マジか、これ**」
肩の雄鶏が低く言った。
「**……ダンナ、退け**」
「**……」**
「**……これは、付き合う、相手では、ない**」
板が別の場所に転移した。今度は岩の柱の上空に。
岩の柱の上の方が円形に消えた。岩の粉もなかった。
板がまた別の場所に移った。リンの右斜め前。
リンは跳んで後ろに下がった。
「**……ヤバい**」
男の声がわずかに震えた。
別の場所で新しい板が生まれた。リンの左斜め後ろ。リンはまた跳んだ。
板の数が五枚になった。それぞれが別々の場所に転移を続けた。岩の壁、岩の柱、岩の床——触れたものが円形に消えた。
リンの心臓が激しく打っていた。
板の動きはランダムだった。リン自身も予測できない。男も予測できない。誰にも予測できない。
ただゆっくりと転移しながら空間を消していった。
板の一枚が男の足元に出現した。
男が跳んだ。
跳んだ先に別の板が出現した。
男がもう一度跳んだ。
「**……マジか……!**」
男の声が初めて大きくなった。
肩の雄鶏が付け加えた。
「**……だから、退け、と、言った**」
—了—




