179 隔離の壁
===== ユミルルート =====
左の通路は暖かかった。
通路の壁からわずかに熱が漏れていた。鉱山跡の下層と似た構造。岩の中に装置の配管が走っているのだろう、とユミルは思った。
光の薄い板を手元に開いていた。指先で文字列を滑らせる。
`exec.scan --range=ahead --depth=structure`
通路の先の構造が板の上に徐々に描かれていった。広い空間。装置の配置。それから、人の気配。
一名。
ユミルの口元がわずかに動いた。
「**……予測通りです**」
ユミルは通路をゆっくり進んだ。
外套のフードを深く被り直した。上位竜の姿を抑える、いつもの仕草。だが、いつもより深く被った。
リン様には見せたくない。
そう思っていた。
リン様がここにいない、ということ。それはユミルにとって重みと軽さの両方を持っていた。
重みはリン様を守れない、ということ。
軽さはリン様の前で出せない手を、ここでなら出せる、ということ。
ユミルは軽さの方を選ぼうとしていた。
---
通路の奥が開けた。
円形の広い空間。岩を削り出した、天井の高い、洞窟のような構造。中央に低い段差。段差の周囲に古代の装置の残骸。配管、計器、それから、用途の分からない金属の塊。
空間の中央、装置の隙間に男が座っていた。
岩の床に胡坐をかいて。膝の上にぼんやりと頬杖をついて。
優男だった。
肉体派ではない。線の細い体。眠そうな目元。顎髭が無精に生えていた。年は二十五ほど、と思われた。フードは被っていなかった。茶色の無造作な髪。
男の腰に、装具のようなものが下げられていた。革帯の下、内側に、何かが収まっている。だが、外から見ても何かは分からない。
男はユミルを見た。
それから、わずかに口元を歪めた。
「あー」
低い、気だるげな声。
「やっぱり来た、か」
ユミルは答えなかった。
光の薄い板を手元に灯したまま、男を見ていた。
男は頬杖を解いて立ち上がった。立ち上がる動作も気だるげだった。
「面倒くさい、ね」
男が言った。
「俺さあ、女子と戦うの、好きじゃないんだよ」
ユミルは答えなかった。
「上に言われたから来たんだけどさ」
男が岩の床を軽く蹴った。靴の踵で低く音を立てた。
「やっぱ、面倒くさい」
ユミルの口元がわずかに動いた。
「**……あなた様はお名前を**」
「あー」
男が頭を軽く掻いた。
「ヘルム、って呼ばれてる」
「**……ヘルム様**」
「様、いらないよ」
「**……ヘルム様**」
「……はあ」
ヘルムがため息をついた。
「呼び方くらい、好きにしてくれ」
ユミルの目はヘルムを見ていた。
板の上で文字列が更新された。
`exec.scan --target=helm --depth=structure --layer=function`
ヘルムの内部構造を解析しようとする処理。
板の上の文字列がしばらく止まった。
それから、エラー表示が出た。
`ERROR: 解析不能。対象、構造不定`
ユミルは目を細めた。
ヘルム自身の能力を解析しようとして、解析できなかった。
「ああ、それね」
ヘルムが低く言った。
「俺、解析、得意なんだ」
「**……」**
「解析されるのも、防げる。互いに見えない、ってこと」
ヘルムの腰の革帯から、低い声が漏れた。
「**……ご主人、相手の解析、未知の構造です。私の方からも、覗きにくい**」
ユミルの目がわずかに動いた。
ヘルムの腰のものが、声を、出した。
ヘルムは肩を軽く竦めた。
「あー、聞こえた? こいつ、ガラルホルンっていうんだ。喋るんだよ。よろしく」
「**……ガラルホルン様**」
ユミルが低く答えた。
「**……お初に、お目にかかります。私はガラルホルン。ヘルム様の補佐を務めております**」
革帯の下から、丁寧な声が応じた。
「**……どうぞ、お手柔らかに**」
ヘルムが頭を掻いた。
「礼儀、正しいだろ。俺より」
「**……ご主人、それは事実です**」
「うるさいな」
ユミルは答えなかった。
光の薄い板を撫でた。
「で、君も、解析、得意でしょう」
ヘルムが首を傾けた。
「俺の能力、ちょっと特殊でね。**解析した技を一時的に使える**んだ。だから他の連中の技、結構使える」
「**……」**
「君の技も、解析できれば使えるはず、なんだけど」
ヘルムがわずかに口元を歪めた。
「君のは、解析できないね」
ガラルホルンが付け加えた。
「**……ご主人、対象の構造、底が見えません。私の出力、限界点を超えております**」
「あー」
「**……どこまで解析しようとしても、層が深い。限界が分かりません**」
ヘルムが頭を掻いた。
「そうなんだよね」
ユミルはしばらく二人を見ていた。
それから低く言った。
「**……ヘルム様、退かれませんか**」
「あー」
ヘルムが頭を掻いた。
「退きたいけどさ」
「**……」**
「上が、うるさいからね」
「**……」**
「やる、しかないんだよ」
ガラルホルンが低く言った。
「**……ご主人、戦闘準備、整えます**」
ヘルムが右手を軽く上げた。
右手の指先に火が灯った。赤い、燃える、火球。
ユミルの目がわずかに細くなった。
「**……それは**」
「あー」
ヘルムが面倒くさそうに言った。
「これね、他の人の技。手持ちの誰かから奪ったんだ。誰だっけな。覚えてない」
ガラルホルンが補足した。
「**……火球魔法、火属性、中位。詠唱省略型。私が記録しております**」
ユミルの板の上で文字列が更新された。
`scan: 火球魔法、構造、簡素。火属性、中位。詠唱省略型`
「**……」**
「魔力は俺、結構ある方でね」
ヘルムがもう一方の手も上げた。左手の指先にも火球が灯った。
それから、もう一つ。空中に勝手に火球が現れた。さらにもう一つ。もう一つ。
火球がヘルムの周りに浮かんだ。
十、ほど。
「**……」**
「数で押すよ」
「**……」**
「ごめんね」
ヘルムが軽く手を振った。
火球がユミルの方向に飛んだ。
---
ユミルの口が動いた。
「**……exec、firewall、direction、front、layer、five**」
ユミルの前に光のカーテンが立ち上がった。五重の薄い光の板。
火球がカーテンに当たった。
最初の二枚が砕けた。光の破片が空中を舞った。
——三枚目で止まった。
火球が消えた。
「**……」**
ユミルは板を撫でた。
`exec.firewall --direction=front --layer=five`
カーテンの残り三枚がまだ立っていた。
ヘルムがもう一度手を振った。
火球がまた飛んだ。今度は十五ほど。
「**……exec、firewall、direction、front、layer、ten**」
カーテンが五重から十重に増えた。
火球が当たった。五枚が砕けた。光の破片が舞った。
——六枚目で止まった。
「**……」**
ヘルムが口元を歪めた。
「あー、防御、しっかりしてるね」
ガラルホルンが低く言った。
「**……ご主人、相手の防御、密度が高い。私の見立てでは、本来の出力の三割程度です**」
「三割?」
「**……はい。本来は、もっと出せると思われます**」
「あー、面倒くさいな」
ヘルムが両手を上げた。
ヘルムの周りに火球が増えた。二十、三十——
ユミルの板の上で文字列が走った。
`観測:火球、増加中、現在、四十二、上昇継続`
「**……」**
ユミルは低く言った。
「**……exec、firewall、direction、front、layer、twenty**」
カーテンが二十重に増えた。
ヘルムが軽く手を振った。
四十あまりの火球が一斉に飛んだ。
カーテンに当たった。
光の破片が空中を舞った。
——十二枚が砕けた。八枚が残った。
ユミルの口元がわずかに動いた。
「**……」**
ヘルムが頭を掻いた。
「面倒くさいなあ」
ヘルムがもう一度両手を上げた。
火球がまた増えていった。五十、六十——
ユミルは板を撫でた。
このままでは消耗戦になる。ヘルムの魔力は確かに多い。盗んだ技を無尽蔵に撃ってくる。ユミル自身はファイアウォールで防げる。だが、ガベージコレクションは遺跡内で使えない。
ユミルは別の手を考えた。
`exec.sandbox`
ユミルの内部での、未使用コマンド。対象を隔離した仮想の枠の中に閉じ込める処理。実行環境を外と切り離す。
ヘルムを隔離してしまえば、火球の連射は外に届かない。
ユミルの口が動いた。
「**……exec、sandbox、target、helm、scope、isolate**」
ユミルの右手が上がった。
ヘルムを指先で指した。
ヘルムの周りに透明な光の枠が立ち上がった。ヘルムをすべての方向から囲む立方体の枠。
枠の内側でヘルムがわずかに目を細めた。
火球が枠の内側で消えた。
「**……」**
ユミルは息を整えた。
サンドボックスの中にヘルムは閉じ込められた。これでヘルムの攻撃は外に届かない。あとは装置を押さえる時間を稼ぐ——
ユミルの板の上で文字列が走った。
`観測:sandbox、内部、解析、検出`
「**……」**
ユミルは目を細めた。
サンドボックスの内側でヘルムがユミルのコマンドを解析していた。
`観測:sandbox、内部、ヘルム、コマンド、複製`
「**……」**
ユミルの息がわずかに止まった。
サンドボックスの内側から新しい光の枠が生成されていった。
ユミルの周りに立方体の透明な枠が立ち上がった。
ユミルをすべての方向から囲む。
「**……」**
ユミルの体が枠の内側で止まった。
サンドボックスをヘルムが複製した。同じ処理をヘルムがユミルに向けて実行した。
ユミルの方が隔離された。
「あー」
ヘルムの声がユミルのサンドボックスの外から聞こえた。
「これ、面白い技だね」
ガラルホルンが応じた。
「**……ご主人、構造の表面、複製可能と判断。実装、完了しました**」
「ありがと」
「**……どういたしまして**」
ユミルは答えなかった。
「俺の能力、解析した技を一時的に使える、って言ったでしょう」
「**……」**
「君のサンドボックス、解析できた。だから複製して使った」
「**……」**
「ごめんね」
ヘルムが低く言った。
「君が外にいると、面倒くさいから」
ユミルはサンドボックスの内側で立っていた。
光の薄い板はまだ手元に灯っていた。だが、外へのコマンド送信が阻害されていた。サンドボックスは内と外を切り離す枠。ユミルの処理は内側で完結するしかなかった。
ヘルムが外で軽く手を振った。
ヘルム自身を囲んでいたユミルのサンドボックスが消えた。ヘルムは自分の枠を自分で解除した。
ヘルムは自由に動けるようになった。
ユミルだけが枠の中に閉じ込められた。
「で、装置の方、行ってもいいかな」
ヘルムが面倒くさそうに言った。
「君の主が、装置を止めようとしてる、らしいでしょう。それ、阻止するのが俺の仕事」
「**……」**
「君がここで大人しくしてくれてれば、それが一番、楽」
ヘルムがユミルの方をちらりと見た。
それから装置の方向に歩き始めた。
気だるげな足取り。
ユミルはサンドボックスの内側でヘルムの背を見ていた。
光の薄い板を撫でた。
板の上で文字列が走った。
`内部処理、確認、サンドボックス、構造、解析中`
ユミルの口元がわずかに動いた。
「**……ヘルム様**」
ヘルムが足を止めた。
振り返った。
「あー、何」
ユミルはしばらく答えなかった。
光の薄い板の上で文字列が走り続けていた。
ユミルの右手がゆっくりと上がった。
「**……舐めないでください**」
ユミルの指が動いた。
サンドボックスの立方体の一面がわずかに揺らいだ。
—了—




