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177 届かぬ矢


===== リンルート =====


「いいや」


男の声が、消えた。


リンの指は、弦に、かかったままだった。距離十間。風なし。


指が、止まった。指が、離れた。


——空気を切り裂く音。


矢が、まっすぐ、男の胸に向かった。


途中で、消えた。


矢の軌道が、霞のように、ぼやけた。岩の柱の前に立っていたはずの男の姿も、揺らいでいた。同じ場所に、同時に、二つの男が、見えた。三つに、なった。


リンは、二射目を、すでに、番えていた。


——空気を切り裂く音。


矢が、左の男に、当たった。男の姿が、消えた。


リンの背後で、低い声が、した。


「届かない、よ」


リンは振り向きざまに、三射目を、放った。


——空気を切り裂く音。


矢が、岩の柱の側面に、刺さった。


男は、もう、岩の柱の前に、戻っていた。肩の雄鶏も、一緒に。


「狙い、悪くは、ないよ」


男の唇が、動いた。


「でもね、こっちが、いる場所が、本当に、こっちか、どうか」


男の姿が、揺らいだ。


「分からない、でしょう」


肩の雄鶏が、低く、言った。


「**……ダンナ、口で説明、するな。やぼだ**」


「**……うるさいな**」


ガルムが、低く、言った。


「リン様、私の目にも、複数に、見えております」


「お前の方には、何人、見える」


「右に、二人、左に、一人。中央に、一人」


「俺の方には、右に、一人、中央に、二人、左に、一人だ」


「……認識操作、ということで、ございますか」


「ああ」


男が、わずかに、笑ったように、見えた。


「お二人で、見ても、合わないでしょう」


「そういう、ことか」


「申し訳ない。こっちも、商売、なのでね」


リンは、矢を、もう一本、番えた。


ニャルニルが、低く、響いた。


「**……主、感応、揺れて、ございます。男の位置、判別できませぬ**」


「お前にも、効くか」


「**……私の感応、視覚と、別系統で、ございますが、それでも、揺れます。あの方の能力、感覚全般に、効く、と思われます**」


「対策、あるか」


「**……ファーファ様の鼻のように、別系統の感覚を、複数、合わせる、しかございませぬ**」


「ファーファは、ここにいない」


「**……はい**」


リンは、矢筒を、撫でた。


矢は、減っている。腰の十三本のうち、三本が、消えた。残り十本。背の十五本は、まだ、無傷。合計、二十五本。


矢を、無駄に撃てない。


---


リンは、目を、閉じた。


視覚を、捨てる。


息の音、足音、風の流れ。それから、ニャルニルの感応。複数を、合わせる。


男の位置を、推定する。


岩の柱の前、と、思われた。


——空気を切り裂く音。


リンが、目を閉じたまま、四射目を、放った。


「……惜しいね」


男の声が、リンの、右後方から、した。


リンは、目を、開けた。


男は、岩の柱の前に、戻っていた。


「目を、閉じても、無駄だよ」


男の唇が、わずかに、動いた。


「こっちが、どこに、立っているように、見えているか。それが、認識の話」


「霞、か」


「霞、というより、こっちが、立っている場所そのものが、揺らいでいるんだ」


肩の雄鶏が、首を、傾けた。


「**……それでよい。説明するから、底が、知れる**」


「**……うるさいな**」


「**……」**


「**……まあ、説明したくなる気持ちは、分かるけどね**」


リンは、矢を、新しい一本に、入れ替えた。


「リン様」


ガルムが、低く言った。


「弓では、決まらぬ、可能性が、ございます」


「ああ」


「私が、剣で、近接の対応を、致します」


「行けるか」


「ティルス殿との対応とは、また、別の難しさが、ございます。ですが、近接でなら、私の手の届く範囲は、確かに、ございます」


リンは、ガルムを、見た。


ガルムの剣身は、低く構えられていた。三十年使い込んだ剣の柄を、両手で、しっかりと握っていた。武人の、しっかりした立ち姿。


「行こう」


「はい」


ガルムが、低い姿勢で、岩の柱に向かって、踏み込んだ。


リンも、矢を番えたまま、その後ろに、続いた。


---


ガルムが、岩の柱の前に、達した時、男の姿は、もう、そこには、なかった。


ガルムが、剣を、振った。


何もない、空間を、剣が、切った。


男の声が、ガルムの、左斜め後ろから、した。


「いい踏み込み、だね」


ガルムが、振り向きざまに、剣を、振った。


男の姿は、もう、別の場所に、あった。


「でも」


ガルムの右脇腹に、鈍い、衝撃が、来た。


ガルムが、横に、二歩、よろめいた。剣を握る手が、わずかに、震えた。


「届かない、よ」


リンは、矢を、放った。


——空気を切り裂く音。


矢が、ガルムの、横を、すり抜けて、男の方向に、飛んだ。


男の姿は、もう、別の場所に、あった。


矢が、岩の壁に、刺さった。


リンは、新しい矢を、番えた。


「ガルム」


「無事で、ございます。ですが、肋骨に、ひびが、入った、可能性が、ございます」


「下がれ」


「いえ、リン様、私が、引けば、リン様お一人で、対峙、することに」


「ガルム」


「……」


「肋骨は、戦場で、致命傷では、ない。だが、無理は、するな」


「承知いたしました」


ガルムは、剣を、構え直した。剣身を、低く、傾けて、二段の構え。リンの斜め後ろの位置に、戻った。


男の声が、また、別の方向から、した。


「お二人とも、よくやってる、よ」


リンは、矢を、引き絞った。


息が、細くなった。


指が、止まった。


「でもね」


男の声が、リンの、すぐ、後ろから、した。


「届かない、んだよ」


リンの背中に、何かが、当たった。


軽い、衝撃。


蹴り、だった。


リンの体が、岩の床を、二間ほど、滑った。矢筒の中の矢が、いくつか、転がり出た。


リンは、すぐに、起き上がった。


矢筒の中の矢を、慌てて、拾った。


二本、転がり出ていた。腰の十本のうち、二本が、再装填可能。背の十五本は、まだ、無事。


肩の雄鶏が、低く、言った。


「**……ダンナ、優しいな。本気なら、肋骨、折れていた**」


「**……あんまり、本気は、出したくないんだよ**」


「**……それで、よい**」


ガルムが、男の方向に、剣を、振った。


男の姿は、もう、別の場所に、あった。


リンの背中が、痛かった。


蹴られた箇所、肋骨の下、内臓の近く。痛みが、遅れて、来た。


「リン様、無事で、ございますか」


「ああ」


「肋骨は」


「無事だ」


リンは、立ち上がった。


矢を、番えた。


---


リンの内心は、整理されていなかった。


矢が、当たらない。


弓は、距離の武器だ。距離の武器の前提は、敵の位置が、固定されている、ということ。敵の位置が、揺らいでいたら、弓は、機能しない。


近接でも、男の姿は、消える。ガルムの剣戟も、届かない。


劣勢、だった。


リンは、息を、整えた。


ユミルが言っていた。「あの方の能力、認識操作系」。「視覚、聴覚、感応、すべてに、影響します」。「複数の感覚を、同時に、確認することで、誤認の確率を、下げられます」。


複数の感覚を、合わせる。


リンは、目を閉じた。


視覚を、捨てる。


聴覚と、皮膚感覚と、ニャルニルの感応を、合わせる。


男の声が、左後方から、した。


足音は、聞こえなかった。


風の流れが、わずかに、左から、来た。


ニャルニルの感応は、揺れていた。


リンは、矢を、左後方に、向けた。


——空気を切り裂く音。


矢が、左後方の、空間を、切った。


男の声が、右前方から、した。


「視覚を、捨てるのは、いい判断だね」


リンは、目を、開けた。


男は、岩の柱の前に、戻っていた。


「でも、ね」


男の唇が、動いた。


「聴覚も、揺らせるよ」


「……」


「皮膚感覚は、揺らせない、けどね。それは、自分の中の感覚、だから」


リンは、矢筒を、撫でた。


腰の矢、減っていた。残り、八本。


「ガルム」


「リン様」


「下がるか」


「下がる、と申しますと」


「一度、距離を、置く。整理する時間を、稼ぐ」


「承知いたしました」


ガルムが、リンの方に、足を引いた。


男の声が、また、岩の柱の前から、した。


「下がるの、自由だよ」


「……」


「逃げないで、戦ってくれてる、それだけで、こちらは、満足、だね」


リンの中で、何かが、わずかに、揺らいだ。


満足、と、男は、言った。


その言葉に、悪意は、なかった。むしろ、純粋な、仕事の、声だった。商売、と、男は、最初に、言った。仕事として、この戦闘を、している。リンに、特別な、敵意は、ない。


リンは、男の声を、聞きながら、奇妙な、感覚を、覚えた。


この男は、勝つ気は、ない。


殺す気も、ない。


ただ、引き分けに、持ち込もうとしている。


「リン君」


男の声が、変わった。低く、落ち着いた、声のままだったが、わずかに、温度が、上がった。


「君が、こちらを、追って来たのは、勇気あるよ。さっきも、言った」


「……」


「でも、勝てない、と、思うんだ」


リンは、矢を、引き絞った。


「諦めなよ。悪いようには、しない」


肩の雄鶏が、首を、傾けた。


「**……ダンナ、その言い方は、逆効果**」


「**……え**」


「**……諦めなよ、と、若者に、言うのは、火に油**」


「**……そう、かなあ**」


「**……頭を、使えよ**」


リンの指が、弦に、かかった。


息が、細くなった。


指が、止まった。


——空気を切り裂く音。


矢が、男の方向に、飛んだ。


男の姿は、もう、別の場所に、あった。


矢が、岩の壁に、刺さった。


リンは、低く、言った。


「……なめやがって」


男の唇が、わずかに、動いた。


笑った、ように、見えた。


「素直、じゃないね」


リンは、もう一本、矢を、番えた。


腰の矢、残り、七本。


戦闘は、続いていた。


—了—


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