表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
177/237

176 割れる足音


階段は、思ったより長かった。


岩を削った段が、踊り場で一度折れて、また下に続いていた。岩肌に灯りはなかった。ユミルの手元の光の薄い板が、かすかに足元を照らしていた。それ以外は暗かった。


下りていくほど、空気が変わっていった。最初は装置の気配だけだったのが、徐々に別のものが混ざり始めた。湿気の奥に、薄い、冷えた金属の匂い。それから、もっと奥に、何かが燃えた跡のような乾いた匂い。


ファーファが、踊り場の手前で足を止めた。


「**……ニャ**」


「どうした」


リンが小声で訊いた。


「**……主、匂いが、変だニャ**」


「歩哨の匂いか」


「**……違うニャ。歩哨の匂いも、するけど、その奥に、別のがあるニャ。古い匂いと、新しい匂いと、両方ニャ**」


ユミルの手元で、光の薄い板が新しく開いた。指先が、文字列の上を滑った。


「**……exec、scan、下層の構造**」


しばらく静かだった。ユミルの目は板を追い、唇は動かなかった。


それから、低く言った。


「**……リン様、構造が、複雑です。下層は、二つの層に、分かれています。中層からの階段が、下りた先で、二差路に、なっています**」


「二差路」


「**……はい。一方は、装置の作業区。もう一方は、最重要施設の入口、と思われます**」


「ティルスと、フードの男、それぞれ、どっちに、いる」


ユミルは、すぐには答えなかった。


板の上で、指が止まっていた。


「**……リン様**」


「ああ」


「**……気配が、二つ、共に、強く、なっています**」


「両方、ある、ってことか」


「**……どちらが、ティルス様か、どちらが、あの方か、判別が、できません**」


リンはユミルの顔を見た。ユミルの視線は、板の文字列に、まだ落ちていた。眉の間に、かすかな皺。


「お前の感応で、分からないのか」


「**……はい。気配の質、両方とも、本物、です。ですが、ティルス様の特徴と、あの方の特徴、両方が、両方の場所から、同時に、検出されています**」


「偽装、か」


「**……可能性、極めて、高いです。あの方の能力、認識操作系。私の感応にも、同じ偽装が、かかっている、可能性、あります**」


ガルムが低く言った。


「リン様、罠ということでしょうか」


「ああ」


リンは矢筒を撫でた。


罠だ、と分かっている。両方から本物の気配が来る、というのは明らかに罠の構造。どちらかに踏み込めば、もう一方を見落とす。


ファーファの耳が、ぴくりと動いた。


「**……主、ファーファ、聞こえる、ニャ**」


「何が」


「**……足音、ニャ**」


「両方の方向から、か」


「**……ニャ**」


リンは目を閉じた。


引き返せば、相手は装置を破壊する。証拠は消える。一度逃せば、二度目はもっと深く隠れる。踏み込むしかない。


問題は、どう踏み込むかだった。


---


ユミルが、低く言った。


「**……リン様、提案、があります**」


「言え」


「**……二手に、分かれます**」


リンはユミルを見た。


「お前、罠だと分かってて、分かれろ、って言ってるのか」


「**……はい**」


「理由は」


ユミルは、板の文字列から、初めて目を上げた。視線が、リンに向いていた。


「**……あの方の偽装、両方の方向に、同じ密度で、かかっています。私たちが、固まって動けば、片方を確実に、見落とします。装置の制御を、押さえなければ、本拠地の制圧は、達成できません**」


「両方押さえるためには、分かれるしかない、か」


「**……はい**」


「お前、装置の方に、行く、ってことか」


「**……はい。装置の解析、私が最も、得意です。リン様の方は、ティルス様の能力と、あの方の能力、両方の対応が、必要です。私一人で、装置側、対応します**」


「お前一人、ヤバいだろ」


ユミルの口が、わずかに、動いた。


「**……リン様**」


「ああ」


「**……私、本気を、出さない、約束は、しています。ですが、本気を、出さなくても、装置一つ、止められます**」


「……」


「**……ファイアウォール、リファクタリング、それから、必要なら、リン様にお伝えしてある、いくつかの中位の処理。それで、足ります**」


リンは、ユミルの目を見た。視線は揺れていなかった。


リンは、知っている。ユミルは、必要のない言葉は言わない。本気を出さなくても足ります、と言うなら、それは計算済みだ。


だが、それでも。


「**……リン様**」


ユミルが、もう一度言った。


「**……時間が、ありません**」


「分かった」


リンは矢筒を撫でた。


「分かれる」


ユミルが頷いた。


それから、低く言った。


「**……リン様、念のため、お伝えします**」


「言え」


「**……あの方の能力、認識操作系、これは確度高いです。視覚、聴覚、感応、すべてに、影響します。リン様が見ている景色が、本物とは限りません**」


「対策、あるか」


「**……完全な対策は、ありません。ですが、複数の感覚を、同時に、確認することで、誤認の確率を、下げられます。リン様の目だけで、判断しないでください。ガルム様の目、ファーファの鼻、ニャルニル様の感応、複数を、合わせて、判断してください**」


「分かった」


「**……それから、もう一つ**」


ユミルが、視線を、ガルムに移した。


「**……ガルム様**」


「ユミル様」


「**……リン様の証人として、同行を、お願いします。あの方の認識操作、リン様お一人では、判別が、難しい場合があります。ガルム様の、第三者の目が、必要です**」


ガルムが、剣の柄を握り直した。


「承知いたしました。リン様の傍を、離れません」


「ありがたい」


リンが、低く言った。


ガルムは頷いた。


それから、ファーファに視線が向いた。


「お前は、どっちに行く」


ファーファは、すぐには答えなかった。耳が、わずかに動いた。両方の方向に、向き直しを繰り返していた。


「**……主、ファーファ、迷うニャ**」


「迷う、か」


「**……どっちにも、武人の匂いがするニャ。けど、装置の方の匂い、薄いニャ。多分、中身は、装置の方が、装置の人ニャ。武人の方が、武人の人、ニャ**」


「武人の方が、ティルスか」


「**……ニャ**」


「装置の方が、フードの男、か」


「**……ニャ**」


リンとユミルは、目を見合わせた。


ユミルの板の上で、文字列が更新された。


「**……ファーファの嗅覚、認識操作の影響、受けにくいです。本物の判別、ファーファの方が、確度高い、可能性、あります**」


「武人の方が、ティルス。装置の方が、フードの男。それで、いいか」


「**……はい。ファーファの嗅覚、信頼できます**」


リンは矢筒に手を当てた。


「俺と、ガルムが、装置の方……フードの男の方に、行く。ティルス側、ユミルが、行く」


そう言いかけて、リンは止まった。


ユミルが、武人と、戦う。


ティルスは武人だ。剣の達人で、停止能力を持っている。ユミルは前衛ではない。ユミルが武人と相対するのは、相性として最悪だった。


「ユミル」


「**……リン様**」


「ティルスは、お前の相手じゃない」


「**……はい**」


「お前が装置の方に行くなら、ティルスは、誰が、押さえる」


ユミルが、ファーファに、視線を向けた。


ファーファの耳が、ぴくりと動いた。


「**……ファーファ、ニャ?**」


「**……はい。ファーファ、お願いできますか**」


ファーファは、しばらく答えなかった。


それから、低く笑った。


「**……ニャ。武人、ファーファ、嫌いじゃないニャ**」


「**……ファーファ、ティルス様の能力、停止判定が、最大の脅威です。一度受けた攻撃は、覚えられる、可能性、あります。動きを、変えてください**」


「**……ニャ。ファーファ、爪、牙、尻尾、全部、使うニャ。ナイフ、最後まで、温存するニャ**」


「**……お願いします**」


リンは、ファーファを見た。


ファーファの目は、いつもの貪欲な光を湛えていた。武人と、相対できる。それが、ファーファにとっては、楽しみ、だった。


リンは、低く言った。


「無茶は、するな」


「**……ニャ。主、ファーファのこと、心配するの、嬉しいニャ**」


「……」


「**……でも、ファーファ、本気で、楽しむニャ**」


リンは目を閉じて、もう一度、開いた。


「分かった」


---


階段の下まで降りた。


降りた先は、岩を削り出した広い踊り場だった。床に古代の文様。壁に、装置の配管らしき金属の管が走っていた。


踊り場の奥が、二差路に分かれていた。


左に向かう通路。右に向かう通路。


両方の通路から、わずかに別々の気配が流れてきていた。空気の質が、左と右で違っていた。左は装置の熱、右は乾いた金属の冷気。


ファーファが、低く鼻を上げた。


「**……主、左が、装置、右が、武人、ニャ**」


「確実か」


「**……ニャ。匂いの密度、違うニャ**」


ユミルが、頷いた。


「**……exec、scan、両通路**」


板の上で、文字列が動いた。


「**……ファーファの判定、私の感応とも、矛盾しません。ですが、依然として、両方から、両方の特徴が、検出されています。あの方の偽装、依然有効、です**」


「ファーファの嗅覚を、信じる」


「**……はい**」


リンは、矢筒を、もう一度撫でた。


それから、ユミルに目を向けた。


「ユミル」


「**……リン様**」


「無事で、戻れ」


ユミルの口が、わずかに動いた。


「**……はい**」


「絶対だ」


「**……はい、リン様**」


ユミルの声は、いつもより、わずかに低かった。


リンは、ファーファに目を向けた。


「お前も」


「**……ニャ。主、心配、ない、ニャ。ファーファ、強い、ニャ**」


「ナイフ、温存しろ」


「**……ニャ**」


ガルムが、剣を抜いた。


「リン様、私はお側を離れません」


「ああ」


クラケンが、ファーファの肩でわずかに動いた。


「**……ぴゅ**」


「**……ニャ。クラケン、ファーファと、一緒、ニャ**」


ファーファが、右の通路に、目を向けた。武人の匂いの方。


「**……ファーファ、行くニャ**」


リンは頷いた。


ファーファが、右の通路に踏み込んだ。


ユミルは、左の通路の入口で、一度だけ、リンを振り返った。


光の薄い板の灯りが、ユミルの目元を、わずかに照らしていた。


それから、ユミルは左の通路に踏み込んだ。


二人の足音が、それぞれ反対の方向の奥に消えていった。


リンは、しばらく両方の通路を、交互に見ていた。


それから、自分の足元に、目を落とした。


===== リンルート =====


リンとガルムは、左の通路には進まなかった。


ファーファが武人の匂いを追って右の通路へ、ユミルが装置の方角の左の通路へ。リンとガルムは、その中間——踊り場の奥にあった、もう一つの細い通路に踏み込んだ。


ユミルが、最後に、低く言ったのだった。


「**……リン様。最重要施設の、本来の入口は、おそらく、踊り場の、奥に、別にあります。装置の作業区も、武人の通路も、表面的な、配置です。あの方は、最重要施設の本来の入口に、おられる、可能性が、高いです**」


「お前、装置の方に行くんじゃ」


「**……装置の方、表面の配置です。私は装置の本体の方を、押さえます。リン様は、あの方の本来の位置を、押さえてください**」


「ファーファは」


「**……ティルス様は、確実に、武人の通路にいます。ファーファに、お願いします**」


ユミルの判断は、速かった。


リンは、それに従った。


---


細い通路は、さらに暗かった。


岩肌に、古代の文様が断片的に彫られていた。読み取れない文字列。歩くにつれて、文様が変わっていった。最初は植物の意匠、次に幾何学、その奥に、何か、別の体系の文字。


リンは、矢を番えた。番えはせず、弦の隣に添えた。


ガルムが、剣を構えていた。剣身を低く構え、リンの斜め後ろに位置取った。


通路の奥から、わずかに、空気の流れがあった。広い空間が、その先にあると、分かった。


それから、わずかに光が漏れてきた。蝋燭のような、低い橙色の光。


足音は、聞こえなかった。


リンは慎重に進んだ。


通路が開けた。


円形の、広い空間。岩を削り出した、天井の高い、洞窟のような構造。中央に、低い段差。段差の上に、古代の装置の名残らしき、岩の柱。


その柱に寄りかかって、男が立っていた。


紺色のフード。深く、目元まで被っていた。背はそれほど高くない。線の細い体。腰に何も佩いていなかった。


男の肩には、黒い雄鶏が、一羽、止まっていた。


雄鶏の目が、リンを、見ていた。男よりも先に、リンを、捉えていた。


男の唇が、動いた。


「お早いね」


低い、落ち着いた声。


「自分たちから、別れるとは、勇気あるね」


リンは、矢を番えた。


「正しい、かも」


男の唇が、わずかに動いた。フードの下で、笑った、のかもしれなかった。


「危険、だけどねぇ」


肩の雄鶏が、低く、嘴を、開いた。


「**……ダンナ、相手は、覚悟、決めて、来ている**」


男の声では、なかった。雄鶏の、声だった。落ち着いた、低い、達観した、声。


リンの指が、弦に、止まった。


「**……話して……」**


「**……喋れる、雄鶏なのでね**」


雄鶏が、答えた。


「**……レーヴァテインだ。ダンナの、相棒、を、しておる**」


リンは、答えなかった。


矢を、番えたまま、男と、雄鶏を、見ていた。


「もう、遊びは、終わりだよ」


リンが低く言った。


男の唇が、また動いた。


「そういう、つもりじゃ、ないけど」


少し、間があった。


「いいや」


男の声は、最後まで低い、ままだった。


肩の雄鶏が、わずかに、首を、傾けた。


「**……ダンナ、本気を、出すか**」


「**……どうかなあ**」


「**……読みが、足りぬ。出した方が、よい**」


「**……うるさいな**」


雄鶏と、男の、軽口の、やり取り。リンの目の前で、淡々と、続いた。


リンの指が、弦にかかっていた。


息が、細くなった。


距離、十間。


風、なし。


===== ファーファルート =====


その時、右の通路の奥で、金属の打ち合う、低い響きが起きた。


ファーファが、武人と、出会った。


—了—


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ