176 割れる足音
階段は、思ったより長かった。
岩を削った段が、踊り場で一度折れて、また下に続いていた。岩肌に灯りはなかった。ユミルの手元の光の薄い板が、かすかに足元を照らしていた。それ以外は暗かった。
下りていくほど、空気が変わっていった。最初は装置の気配だけだったのが、徐々に別のものが混ざり始めた。湿気の奥に、薄い、冷えた金属の匂い。それから、もっと奥に、何かが燃えた跡のような乾いた匂い。
ファーファが、踊り場の手前で足を止めた。
「**……ニャ**」
「どうした」
リンが小声で訊いた。
「**……主、匂いが、変だニャ**」
「歩哨の匂いか」
「**……違うニャ。歩哨の匂いも、するけど、その奥に、別のがあるニャ。古い匂いと、新しい匂いと、両方ニャ**」
ユミルの手元で、光の薄い板が新しく開いた。指先が、文字列の上を滑った。
「**……exec、scan、下層の構造**」
しばらく静かだった。ユミルの目は板を追い、唇は動かなかった。
それから、低く言った。
「**……リン様、構造が、複雑です。下層は、二つの層に、分かれています。中層からの階段が、下りた先で、二差路に、なっています**」
「二差路」
「**……はい。一方は、装置の作業区。もう一方は、最重要施設の入口、と思われます**」
「ティルスと、フードの男、それぞれ、どっちに、いる」
ユミルは、すぐには答えなかった。
板の上で、指が止まっていた。
「**……リン様**」
「ああ」
「**……気配が、二つ、共に、強く、なっています**」
「両方、ある、ってことか」
「**……どちらが、ティルス様か、どちらが、あの方か、判別が、できません**」
リンはユミルの顔を見た。ユミルの視線は、板の文字列に、まだ落ちていた。眉の間に、かすかな皺。
「お前の感応で、分からないのか」
「**……はい。気配の質、両方とも、本物、です。ですが、ティルス様の特徴と、あの方の特徴、両方が、両方の場所から、同時に、検出されています**」
「偽装、か」
「**……可能性、極めて、高いです。あの方の能力、認識操作系。私の感応にも、同じ偽装が、かかっている、可能性、あります**」
ガルムが低く言った。
「リン様、罠ということでしょうか」
「ああ」
リンは矢筒を撫でた。
罠だ、と分かっている。両方から本物の気配が来る、というのは明らかに罠の構造。どちらかに踏み込めば、もう一方を見落とす。
ファーファの耳が、ぴくりと動いた。
「**……主、ファーファ、聞こえる、ニャ**」
「何が」
「**……足音、ニャ**」
「両方の方向から、か」
「**……ニャ**」
リンは目を閉じた。
引き返せば、相手は装置を破壊する。証拠は消える。一度逃せば、二度目はもっと深く隠れる。踏み込むしかない。
問題は、どう踏み込むかだった。
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ユミルが、低く言った。
「**……リン様、提案、があります**」
「言え」
「**……二手に、分かれます**」
リンはユミルを見た。
「お前、罠だと分かってて、分かれろ、って言ってるのか」
「**……はい**」
「理由は」
ユミルは、板の文字列から、初めて目を上げた。視線が、リンに向いていた。
「**……あの方の偽装、両方の方向に、同じ密度で、かかっています。私たちが、固まって動けば、片方を確実に、見落とします。装置の制御を、押さえなければ、本拠地の制圧は、達成できません**」
「両方押さえるためには、分かれるしかない、か」
「**……はい**」
「お前、装置の方に、行く、ってことか」
「**……はい。装置の解析、私が最も、得意です。リン様の方は、ティルス様の能力と、あの方の能力、両方の対応が、必要です。私一人で、装置側、対応します**」
「お前一人、ヤバいだろ」
ユミルの口が、わずかに、動いた。
「**……リン様**」
「ああ」
「**……私、本気を、出さない、約束は、しています。ですが、本気を、出さなくても、装置一つ、止められます**」
「……」
「**……ファイアウォール、リファクタリング、それから、必要なら、リン様にお伝えしてある、いくつかの中位の処理。それで、足ります**」
リンは、ユミルの目を見た。視線は揺れていなかった。
リンは、知っている。ユミルは、必要のない言葉は言わない。本気を出さなくても足ります、と言うなら、それは計算済みだ。
だが、それでも。
「**……リン様**」
ユミルが、もう一度言った。
「**……時間が、ありません**」
「分かった」
リンは矢筒を撫でた。
「分かれる」
ユミルが頷いた。
それから、低く言った。
「**……リン様、念のため、お伝えします**」
「言え」
「**……あの方の能力、認識操作系、これは確度高いです。視覚、聴覚、感応、すべてに、影響します。リン様が見ている景色が、本物とは限りません**」
「対策、あるか」
「**……完全な対策は、ありません。ですが、複数の感覚を、同時に、確認することで、誤認の確率を、下げられます。リン様の目だけで、判断しないでください。ガルム様の目、ファーファの鼻、ニャルニル様の感応、複数を、合わせて、判断してください**」
「分かった」
「**……それから、もう一つ**」
ユミルが、視線を、ガルムに移した。
「**……ガルム様**」
「ユミル様」
「**……リン様の証人として、同行を、お願いします。あの方の認識操作、リン様お一人では、判別が、難しい場合があります。ガルム様の、第三者の目が、必要です**」
ガルムが、剣の柄を握り直した。
「承知いたしました。リン様の傍を、離れません」
「ありがたい」
リンが、低く言った。
ガルムは頷いた。
それから、ファーファに視線が向いた。
「お前は、どっちに行く」
ファーファは、すぐには答えなかった。耳が、わずかに動いた。両方の方向に、向き直しを繰り返していた。
「**……主、ファーファ、迷うニャ**」
「迷う、か」
「**……どっちにも、武人の匂いがするニャ。けど、装置の方の匂い、薄いニャ。多分、中身は、装置の方が、装置の人ニャ。武人の方が、武人の人、ニャ**」
「武人の方が、ティルスか」
「**……ニャ**」
「装置の方が、フードの男、か」
「**……ニャ**」
リンとユミルは、目を見合わせた。
ユミルの板の上で、文字列が更新された。
「**……ファーファの嗅覚、認識操作の影響、受けにくいです。本物の判別、ファーファの方が、確度高い、可能性、あります**」
「武人の方が、ティルス。装置の方が、フードの男。それで、いいか」
「**……はい。ファーファの嗅覚、信頼できます**」
リンは矢筒に手を当てた。
「俺と、ガルムが、装置の方……フードの男の方に、行く。ティルス側、ユミルが、行く」
そう言いかけて、リンは止まった。
ユミルが、武人と、戦う。
ティルスは武人だ。剣の達人で、停止能力を持っている。ユミルは前衛ではない。ユミルが武人と相対するのは、相性として最悪だった。
「ユミル」
「**……リン様**」
「ティルスは、お前の相手じゃない」
「**……はい**」
「お前が装置の方に行くなら、ティルスは、誰が、押さえる」
ユミルが、ファーファに、視線を向けた。
ファーファの耳が、ぴくりと動いた。
「**……ファーファ、ニャ?**」
「**……はい。ファーファ、お願いできますか**」
ファーファは、しばらく答えなかった。
それから、低く笑った。
「**……ニャ。武人、ファーファ、嫌いじゃないニャ**」
「**……ファーファ、ティルス様の能力、停止判定が、最大の脅威です。一度受けた攻撃は、覚えられる、可能性、あります。動きを、変えてください**」
「**……ニャ。ファーファ、爪、牙、尻尾、全部、使うニャ。ナイフ、最後まで、温存するニャ**」
「**……お願いします**」
リンは、ファーファを見た。
ファーファの目は、いつもの貪欲な光を湛えていた。武人と、相対できる。それが、ファーファにとっては、楽しみ、だった。
リンは、低く言った。
「無茶は、するな」
「**……ニャ。主、ファーファのこと、心配するの、嬉しいニャ**」
「……」
「**……でも、ファーファ、本気で、楽しむニャ**」
リンは目を閉じて、もう一度、開いた。
「分かった」
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階段の下まで降りた。
降りた先は、岩を削り出した広い踊り場だった。床に古代の文様。壁に、装置の配管らしき金属の管が走っていた。
踊り場の奥が、二差路に分かれていた。
左に向かう通路。右に向かう通路。
両方の通路から、わずかに別々の気配が流れてきていた。空気の質が、左と右で違っていた。左は装置の熱、右は乾いた金属の冷気。
ファーファが、低く鼻を上げた。
「**……主、左が、装置、右が、武人、ニャ**」
「確実か」
「**……ニャ。匂いの密度、違うニャ**」
ユミルが、頷いた。
「**……exec、scan、両通路**」
板の上で、文字列が動いた。
「**……ファーファの判定、私の感応とも、矛盾しません。ですが、依然として、両方から、両方の特徴が、検出されています。あの方の偽装、依然有効、です**」
「ファーファの嗅覚を、信じる」
「**……はい**」
リンは、矢筒を、もう一度撫でた。
それから、ユミルに目を向けた。
「ユミル」
「**……リン様**」
「無事で、戻れ」
ユミルの口が、わずかに動いた。
「**……はい**」
「絶対だ」
「**……はい、リン様**」
ユミルの声は、いつもより、わずかに低かった。
リンは、ファーファに目を向けた。
「お前も」
「**……ニャ。主、心配、ない、ニャ。ファーファ、強い、ニャ**」
「ナイフ、温存しろ」
「**……ニャ**」
ガルムが、剣を抜いた。
「リン様、私はお側を離れません」
「ああ」
クラケンが、ファーファの肩でわずかに動いた。
「**……ぴゅ**」
「**……ニャ。クラケン、ファーファと、一緒、ニャ**」
ファーファが、右の通路に、目を向けた。武人の匂いの方。
「**……ファーファ、行くニャ**」
リンは頷いた。
ファーファが、右の通路に踏み込んだ。
ユミルは、左の通路の入口で、一度だけ、リンを振り返った。
光の薄い板の灯りが、ユミルの目元を、わずかに照らしていた。
それから、ユミルは左の通路に踏み込んだ。
二人の足音が、それぞれ反対の方向の奥に消えていった。
リンは、しばらく両方の通路を、交互に見ていた。
それから、自分の足元に、目を落とした。
===== リンルート =====
リンとガルムは、左の通路には進まなかった。
ファーファが武人の匂いを追って右の通路へ、ユミルが装置の方角の左の通路へ。リンとガルムは、その中間——踊り場の奥にあった、もう一つの細い通路に踏み込んだ。
ユミルが、最後に、低く言ったのだった。
「**……リン様。最重要施設の、本来の入口は、おそらく、踊り場の、奥に、別にあります。装置の作業区も、武人の通路も、表面的な、配置です。あの方は、最重要施設の本来の入口に、おられる、可能性が、高いです**」
「お前、装置の方に行くんじゃ」
「**……装置の方、表面の配置です。私は装置の本体の方を、押さえます。リン様は、あの方の本来の位置を、押さえてください**」
「ファーファは」
「**……ティルス様は、確実に、武人の通路にいます。ファーファに、お願いします**」
ユミルの判断は、速かった。
リンは、それに従った。
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細い通路は、さらに暗かった。
岩肌に、古代の文様が断片的に彫られていた。読み取れない文字列。歩くにつれて、文様が変わっていった。最初は植物の意匠、次に幾何学、その奥に、何か、別の体系の文字。
リンは、矢を番えた。番えはせず、弦の隣に添えた。
ガルムが、剣を構えていた。剣身を低く構え、リンの斜め後ろに位置取った。
通路の奥から、わずかに、空気の流れがあった。広い空間が、その先にあると、分かった。
それから、わずかに光が漏れてきた。蝋燭のような、低い橙色の光。
足音は、聞こえなかった。
リンは慎重に進んだ。
通路が開けた。
円形の、広い空間。岩を削り出した、天井の高い、洞窟のような構造。中央に、低い段差。段差の上に、古代の装置の名残らしき、岩の柱。
その柱に寄りかかって、男が立っていた。
紺色のフード。深く、目元まで被っていた。背はそれほど高くない。線の細い体。腰に何も佩いていなかった。
男の肩には、黒い雄鶏が、一羽、止まっていた。
雄鶏の目が、リンを、見ていた。男よりも先に、リンを、捉えていた。
男の唇が、動いた。
「お早いね」
低い、落ち着いた声。
「自分たちから、別れるとは、勇気あるね」
リンは、矢を番えた。
「正しい、かも」
男の唇が、わずかに動いた。フードの下で、笑った、のかもしれなかった。
「危険、だけどねぇ」
肩の雄鶏が、低く、嘴を、開いた。
「**……ダンナ、相手は、覚悟、決めて、来ている**」
男の声では、なかった。雄鶏の、声だった。落ち着いた、低い、達観した、声。
リンの指が、弦に、止まった。
「**……話して……」**
「**……喋れる、雄鶏なのでね**」
雄鶏が、答えた。
「**……レーヴァテインだ。ダンナの、相棒、を、しておる**」
リンは、答えなかった。
矢を、番えたまま、男と、雄鶏を、見ていた。
「もう、遊びは、終わりだよ」
リンが低く言った。
男の唇が、また動いた。
「そういう、つもりじゃ、ないけど」
少し、間があった。
「いいや」
男の声は、最後まで低い、ままだった。
肩の雄鶏が、わずかに、首を、傾けた。
「**……ダンナ、本気を、出すか**」
「**……どうかなあ**」
「**……読みが、足りぬ。出した方が、よい**」
「**……うるさいな**」
雄鶏と、男の、軽口の、やり取り。リンの目の前で、淡々と、続いた。
リンの指が、弦にかかっていた。
息が、細くなった。
距離、十間。
風、なし。
===== ファーファルート =====
その時、右の通路の奥で、金属の打ち合う、低い響きが起きた。
ファーファが、武人と、出会った。
—了—




