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174 揺さぶりの一手


商業ギルド舎の応接で、リンは矢筒を点検していた。


腰の十五本、背の十五本。羽根の状態、鏃の研ぎ、矢柄の真っ直ぐさ。一本ずつ、指で確かめた。明日の朝、西の森林地帯の奥への出立を控えて、装備の最終確認だった。


ファーファは卓の下で、ジャーキーを齧りながら丸くなっていた。戦いの前の昼下がりは、ほぼ寝ている。それがファーファの流儀だった。


ユミルが低く言った。


「**……リン様、サフラス様から、伝言が、参りました**」


「ん」


「**……領主館に、再びお越しいただきたい、とのことです**」


「何かあったか」


「**……コーレン様の、追加の聞き取りで、明日の出立先について、新しい情報が、出たようです**」


「行く」


リンは矢筒を背負って立ち上がった。ファーファが卓の下から、面倒そうに頭を上げた。


「**……主、また、出かけるの、ニャ**」


「来い」


「**……ニャ**」


ファーファはジャーキーをくわえたまま、起き上がった。リンの後ろに続いた。クラケンが肩で揺れた。ニャルニルが背に、しっかり据わった。


---


領主館へ向かう道は、街の喧騒が徐々に和らぎつつある時間だった。


商業ギルド舎の前の聞き取りの列はまだ続いていたが、住人の表情には朝の混乱が薄れていた。秩序が商業ギルドと領主の手で、戻りつつある気配。


ガルムが護衛として、リンの隣に並んだ。商業ギルド警備隊員四名が馬車の前後についた。


馬車は午前と同じ道筋を、領主館へ上っていった。


途中、ユミルが低く言った。


「**……リン様、街の空気、午前とは、違います**」


「ん」


「**……認識操作の余波、わずかに、検出しております**」


リンは馬車の窓から、外を見た。空気の色はいつもと同じ。住人の動きもいつもと同じ。だが、ユミルの感応は何かを捉えていた。


「フードの男か」


「**……断定はできません。ですが、街の中に、あの方の気配が、戻りつつあります**」


「タイミングがな」


「**……はい。領主様への直訴の翌日、布告の当日。あの方が、街に戻る、十分な、理由があります**」


ガルムが剣の柄に、軽く手を添えた。


「リン様、領主館の警備、強化を、お願いいたしましょう」


「頼む」


ガルムは警備隊員に、伝令を出した。馬車が領主館の門を潜るころには、領主館の警備隊がいつもより倍の人数で、配置に就いていた。


---


応接の間にリンが入った時、卓の前にはサフラスとローズ、ヘンリー、それからグレンが座っていた。


グレンがリンに目を向けた。


「リン殿、ご足労、感謝する」


「いや」


「コーレン殿の追加供述で、明日の出立先の確証が、得られた。ご報告を、と思ってな」


サフラスが卓に、地図を広げた。午前と同じ、ティルスの執務室から押収された地図。だが、印の付いた場所のうち、西の森林地帯の奥、最も太い印の位置に新しい書き込みが加えられていた。


「コーレン様の証言と、押収された指示書の文字、商業ギルドの過去の納品記録、三方向から照合いたしました。西の森林地帯の奥、ヘラ山の南斜面、深い森の中に、製造拠点の本拠地があります」


「ヘラ山」


「ヴァナールから半日ほどの、深い山中でございます。古い地図には、山の名前すら記されておりません。住人の出入りは、ほぼございません」


ユミルが低く言った。


「**……ヘラ山の南斜面、確認しました。古代の遺跡の気配が、地図上から、わずかに、感じ取れます**」


「遺跡か」


「**……可能性、高いです。ヴァナール周辺の、第三の遺跡、と思われます**」


リンは地図を撫でた。鉱山跡が第二の遺跡、ヘラ山の南斜面が第三の遺跡。


「装備は」


サフラスが頷いた。


「明朝、出立の準備を整えてございます。馬車二台、商業ギルド警備隊十名、医師団二名、装備一式」


「ガルムは」


ガルムが横で頷いた。


「同行いたします。ヘラ山の地形、若い頃に一度、近くを通ったことがございます。詳細な地図はございませんが、土地勘はある程度ございます」


「頼む」


---


その時、応接の戸が軽く三度叩かれた。


領主館の侍従が戸の外から、低い声で言った。


「グレン様、お客様でございます」


グレンが、わずかに白い眉を寄せた。


「客、と」


「商業ギルド長サフラス様への、面会の申し入れでございます」


「誰だ」


「ティルス・ヴァルクス様、と」


応接の間に、一瞬沈黙が降りた。


サフラスが卓の前で、目を、わずかに見開いた。ローズが立ち上がりかけて、止まった。ヘンリーが書類を握り直した。


ユミルが低く言った。


「**……exec、firewall、応接の入口、最大強度、展開**」


光の薄い壁が、応接の戸の方に即座に展開された。誰にも見えない、ユミルの結界。


リンは矢を抜いた。番えはせず、弦の隣に添えた。


ファーファが低い姿勢に移った。耳が戸の方に、向いた。


ガルムが剣の柄に、しっかり手をかけた。


グレンの太い指が、卓の上でわずかに震えた。怒りと、武人の覚悟が混ざった震えだった。


「通せ」


「グレン様」


サフラスがグレンに、目を向けた。


「ご決断の前に、領主様の、ご安全を、お確かめいただきたく」


「儂は武人でもある。剣を抜いた相手を、目の前で引かせはせん」


グレンが自分の腰の、儀式用の短剣に手を添えた。山羊獣人の老領主の、武人としての構え。


「通せ」


侍従が深く頭を下げて、戸を開けた。


---


応接の間に、二人が入ってきた。


一人はティルス。長身、革鎧、左手に白い包帯。指三本──切り落とされた指の、傷の痕。剣は鞘に納めたまま、腰に下げていた。


もう一人は、紺色のフードを目深に被った男。両手は見える位置に下げていた。


二人は応接の中央で、足を止めた。


ティルスが、軽く頭を下げた。


「グレン様、突然のご無礼を、お赦しいただきたい」


声は、いつもの事務的な公務の声。ただし、わずかに低く重かった。


グレンの目がティルスを、まっすぐに見た。


「ティルス。お主、捕縛令が出ておる身だ」


「承知しております」


「なぜ、領主館へ、参った」


「最後の、ご挨拶のため、でございます」


ティルスは深く頭を下げた。


「グレン様の、十年来のご信任に、お応えできなかったこと、深く、お詫び申し上げます」


グレンはしばらく、ティルスを見ていた。それから、低く言った。


「お主の言葉は、もう、儂には、届かぬ」


「承知しております」


「なぜ、参った」


ティルスが、わずかに目を上げた。


「街の住人の方々、被害者の方々への、お詫びのせめてもの形を、お示ししたく」


「形、と」


「私がフードの男と共に、ヴァナールから永遠に退去いたします。これより、街には戻りません。製造拠点の運営も終わらせます」


サフラスが、低く声を上げた。


「ティルス殿、製造拠点を終わらせる、と」


「はい」


「具体的には」


「ヘラ山の本拠地に、これより戻ります。装置を、すべて停止させます。残された闇にゅーるの結晶も、すべて破棄いたします」


サフラスの目が、わずかに細くなった。


「それを、ご自身の手で」


「はい」


「商業ギルドの、調査隊が、明朝、ヘラ山に、向かう予定でございます。同行を、お願いできるか」


ティルスは、わずかに目を伏せた。


「同行は、お断り申し上げる」


「なぜ」


「私とフードの男の本拠地は、外部の方の立ち入りを許さぬ場所でございます。私たちが装置を停止し、結晶を破棄した後、本拠地は封鎖いたします。商業ギルドの調査隊、領主様の警備隊、いずれも立ち入りは、ご無用に願いたく」


リンはティルスを、見ていた。


事務的な武人の発声。だが、目の奥に、わずかに揺らぎがあった。


ユミルが、ごく低く言った。リンにだけ聞こえる声で。


「**……リン様、ティルス様の言葉、信用できません。本拠地の封鎖、というのは、表向きの口実です**」


「だな」


「**……あの方の、認識操作の中、ティルス様、行動の自由が、極めて、限られています。本拠地の運営は、これからも、続く可能性、高いです**」


「揺さぶってみるか」


「**……はい。ヴィレム様のご家族と、被害者の方々を、お呼びいただくよう、グレン様に、お願いするのが、有効です**」


リンは頷いた。


---


リンがグレンに、向き直った。


「グレン様」


「リン殿」


「ティルスの提案、聞く前に、確認させてくれ。被害者の家族を、この場に、呼べないか」


グレンの白い眉が、わずかに動いた。


「リン殿、それは」


「ティルスは、街の住人への謝罪、と言った。なら、当事者の前で、語るべきだ」


応接の間に、わずかな緊張が走った。ティルスの肩が、わずかに強張った。フードの男は動かなかった。


グレンは、しばらく考えた。それから、頷いた。


「リン殿のご提案、適切だ」


グレンが侍従を呼んだ。


「商業ギルド舎の地下に、コーレン家の方々がおられるはずだ。ご足労を、お願いしてくれ。それから、織り屋の女将、クレタ殿も」


「承知いたしました」


侍従が応接を出た。


ティルスは、剣の柄に手を添えなかった。だが、左手の包帯が、わずかに震えた。緊張の表れ。


ユミルが、ごく低く言った。


「**……リン様、ティルス様、揺らぎ始めました。光の板に、警告が、出ています**」


リンは頷いた。光の板の文字は、リンには見えない。だが、ユミルの感応は信用できた。


四半刻ほど、応接の間に沈黙が降りた。


---


侍従が戻ってきた。


戸が開いて、ヴィレムとミレーヌ、フィア、ロレナが入ってきた。続いて、クレタ。クレタは、織り屋から急ぎ駆けつけた様子。


ヴィレムがティルスの姿を見て、足を止めた。一瞬、目に強い反応が走った。怒り、恐怖と覚悟。だが、ヴィレムは深く息を吐いて、自分を整えた。


ミレーヌが夫の隣に立った。フィアが母親の手を握った。ロレナが母親の足元にしがみついた。


クレタが最後に入ってきた。ティルスの姿を見て、わずかに目を見開いた。それから、強い視線でティルスを見据えた。


応接の間が、新しい緊張で満たされた。


リンが、低く言った。


「ティルス、こちらが、お前の言う『街の住人』だ」


ティルスは、しばらく動かなかった。


ユミルが、ごく低く言った。


「**……リン様、判定の処理が、見えます**」


```

ERROR: 公正性、検証

TARGET: ヴィレム・コーレン、家族

HISTORY: 人質、軟禁、三年間

DECISION: 公正の主観、揺らぎ、検出


ERROR: 公正性、検証

TARGET: クレタ、織り屋の女将

HISTORY: 配偶者の死、ギルド舎での処置不明

DECISION: 公正の主観、揺らぎ、検出

```


ユミルが続けた。


「**……ティルス様の処理空間に、is_just、と、表示されています。古い言葉で、公正性、を意味する印です。これが、揺らいでいます**」


リンは矢を撫でた。揺らがせる、というユミルの言葉が、現実に起きていた。


「ティルス」


リンが声をかけた。


「お前の、街の住人への謝罪、ここで、聞きたい」


ティルスは、しばらく応接の床を見ていた。それから、ゆっくり目を上げた。


ヴィレムを見た。ミレーヌを見た。フィアとロレナを見た。


そして、クレタを見た。


ティルスの、武人としての事務的な目に、わずかに揺れが走った。


「コーレン殿」


「……はい」


「貴公の、家族を、人質に取ったこと、深く、お詫び申し上げる」


ヴィレムは答えなかった。


「ミレーヌ殿、フィア殿、ロレナ殿、長き軟禁の日々、深く、お詫び申し上げる」


ミレーヌが、深く息を吐いた。許す、とは言わなかった。ただ、頷きもしなかった。


「クレタ殿」


クレタはティルスを、まっすぐに見据えた。


「貴公のご主人を、ギルド舎で、命を、奪ったこと、深く、お詫び申し上げる」


「ご主人を、奪ったこと」


クレタが、低く繰り返した。


「ご主人を、奪った、とは。あなた様が、私の主人を、殺された、ということでございますか」


ティルスは、しばらく沈黙した。


「私の直接の手によるものでは、ございません。ですが、私の十年来の運営の中で、行われたこと。私の責任でございます」


「主人は、どのように、命を、奪われたのでしょうか」


「……」


「お答えください、ティルス殿」


クレタの声に、震えはなかった。乾いた、強い声。


「お答えくだされば、私はお答えをもって、主人の墓に参ります」


ティルスは、しばらく答えなかった。


ユミルが、ごく低く言った。


「**……リン様、is_just、警告が、強くなっています。ティルス様の処理が、不安定です**」


ティルスが、ようやく答えた。


「ご主人は、闇にゅーるの中毒症状の最終段階で運ばれてこられました。冒険者ギルド舎の医師の指示で、鎮静剤を投与いたしました。ご主人は、その夜お亡くなりになりました。私は、ご主人の死の状況を後から、報告で知りました」


「鎮静剤、と」


「はい」


「主人は、まだお話しできる状態でした。なぜ、鎮静剤を」


ティルスは、また沈黙した。


それから、ようやく答えた。


「製造拠点の情報を、外部に漏らさせないため、でございます」


応接の間に、衝撃の沈黙が降りた。


クレタの目が、わずかに見開かれた。それから、ゆっくり閉じられた。長い、長い沈黙。


開いた時、クレタの目に涙はなかった。ただ、深い深い何かが、あった。怒りでも悲しみでも絶望でもない、何か。


「お答え、ありがとうございます、ティルス殿」


クレタが、低く言った。


「これで、私は主人の墓に、参ることができます」


クレタは、深く頭を下げた。それから、応接の中央に進み出た。


ティルスが、わずかに目を見開いた。


クレタはティルスの目の前に、立った。


「ティルス殿、私は織り屋の女将でございます。剣も矢も、持ちません。ですが、一つだけお伝えしたいことが、ございます」


「はい」


「あなた様の十年来の不正、私の主人を含む十数件の犠牲。これらを、ヴァナールの十二の家族の十二の墓が、永久に覚えております」


クレタの声は低く、しかし応接の間の隅まで、届いた。


「あなた様がヘラ山に戻られて、装置を停止されても、十二の墓は消えません。あなた様のお詫びの言葉は、墓の前で何の意味も、ございません」


「……」


「あなた様は生きて、罪を償ってください。逃げないでください。逃げれば、十二の墓は永遠に、あなた様を追い続けます」


クレタは、深く頭を下げた。それから後退して、ヴィレムの隣に戻った。


ティルスは、しばらく動かなかった。


ユミルが、ごく低く言った。


「**……is_just、検証、失敗、と、表示されています**」


```

ERROR: is_just == false

REASON: 主観、崩壊

SUSPEND: 全停止判定、保留

INTERVENE: 不可

SENTENCE: 拒否

```


「**……ティルス様の能力、現在、機能停止しています**」


リンは頷いた。


---


ティルスの左手の包帯が、震えた。剣の柄に伸びかけた手が、止まった。武人としての十年来の構えが、わずかに崩れた。


ティルスの目に、初めて迷いが走った。


リンが矢筒に、手を添えた。番えれば、間に合う距離。ファーファが低い姿勢で、踏み込みの準備をした。ガルムが剣を抜きかけた。


その瞬間。


フードの男が、わずかに片手を上げた。


応接の間の空気が、揺らいだ。視界が、ぼやけた。リンは矢を抜こうとした。だが、矢が矢筒の中で、わずかに滲んだ。


「**……認識操作です**」


ユミルが、低く叫んだ。


「**……exec、firewall、追加展開**」


ユミルの結界が、強化された。視界が、徐々に戻った。


しかし、応接の中央には、もう誰もいなかった。


ティルスとフードの男の姿が、消えていた。応接の戸は、開いていた。侍従が戸の外で、頭を抱えて座り込んでいた。


ガルムが剣を抜いて、戸の外に駆け出した。商業ギルド警備隊員の声が、領主館の廊下から聞こえた。


「ガルム隊長、お二方が、廊下を、走り抜けてゆかれました」


「追え」


「は」


ガルムは領主館の廊下を、駆けていった。


リンは矢を構えたまま、応接の中央を見ていた。


「逃げたか」


ユミルが頷いた。


「**……はい。フードの男の認識操作、わずかに、ファイアウォールを、すり抜けました。範囲が、限定的だったため、完全には、防げませんでした**」


「あの方、強くなってる、か」


「**……対策を、講じてきています。私のファイアウォールの、特性を、解析した上での、認識操作でした**」


「次は、もっと、難しくなるか」


「**……はい**」


---


応接の間の沈黙が、戻ってきた。


ヴィレムが家族を、強く抱き寄せた。フィアが父親の腕の中で、わずかに震えていた。ロレナが母親の足元で、寝息を立てていた。八歳と六歳の娘。応接の間の緊張が、限界だった。


クレタがヴィレムの肩に、手を添えた。


「コーレンさん、お子様を、お休ませください」


「ありがとう、ございます」


ヴィレムが、深く頭を下げた。


グレンが太い指で、額を撫でた。


「ティルスを、また、逃したか」


「フードの男が、強い」


「だな」


グレンは、深く息を吐いた。それから、リンに目を向けた。


「リン殿、明朝のヘラ山への出立、引き続き、お願い申し上げる」


「ああ」


「ティルスと、フードの男の、本拠地の、最終的な決着を、お願いいたしたい」


「分かった」


サフラスが続けた。


「ティルス殿の言葉、装置を停止する、というのは、信用できません。本拠地で、最後の決戦を、整える可能性、高いです」


「だな」


ユミルが低く言った。


「**……それから、ティルス様の能力、揺らぎが、入りました。ヘラ山での対峙の際、被害者の方々の影が、再び、効く可能性、あります**」


「使うか」


「**……ヴィレム様のご家族、クレタ様、無理なお願いはできません。ですが、ご証言の写しと、お声の録られた魔道具、これらは、活用できます**」


「商業ギルドに、それがあるか」


サフラスが頷いた。


「録音の魔道具、商業ギルドの貿易交渉用の物が、ございます。本日の、クレタ様のお声は、すでに録られております。明朝の出立に、お持ちいたします」


「便利だな」


「商業ギルドの、仕事です」


サフラスが、また同じ言葉を口にした。


---


応接の間を出る時、リンはヴィレムの肩に、軽く手を置いた。


「お前、強かった」


「いいえ。ただ、家族の前で、立ち続けただけでございます」


「お前は、強い」


ヴィレムが、わずかに目を伏せた。


クレタがリンに、深く頭を下げた。


「リン様、私の言葉、お役に立てば、幸いでございます」


「ありがとう」


クレタは、わずかに笑った。穏やかな、しかし芯のある笑み。それから、ヴィレム家族に軽く頷いて、応接を出た。


---


馬車で、商業ギルド舎に戻る道で、ユミルが低く言った。


「**……リン様、本日のクレタ様のお言葉、ティルス様の処理空間に、深い亀裂を、入れました**」


「is_jus、崩れたか」


「**……完全には、ありません。一時的な、揺らぎです。ですが、能力が、機能停止する瞬間が、確かに、ありました。ヘラ山での対峙で、再現できれば、ティルス様を、押さえる手が、増えます**」


「クレタの声を、再生できる魔道具、有り難いな」


「**……はい。商業ギルドの、組織力です**」


ファーファがジャーキーを齧りながら、リンの隣でぽつりと言った。


「**……主、あの女の人、強いの、ニャ**」


「だな」


「**……剣も矢も、持ってないのに、ティルス、揺らがせた、ニャ**」


「言葉が、武器になる時もある」


「**……ファーファ、よく分からない、ニャ**」


「分からなくていい」


ファーファは不思議そうに、ジャーキーをもう一本齧った。人間の言葉の力は、まだ馴染まないらしかった。


---


宿に戻ったのは、酉の刻だった。


宿の女将が夕食の準備を、整えてくれていた。ファーファが即座に、握り飯を四つ布袋に詰めた。


「ファーファ、お前」


「**……明日、長い、ニャ。準備、いる、ニャ**」


「分かった」


リンは寝台に、矢筒を立てかけた。明朝の出立まで、半刻ほど。短い夜になる。


ユミルが低く言った。


「**……リン様、ヘラ山への、想定問答、整理しておきました。第三遺跡の、装置の構造、ティルス様の能力対策、フードの男の認識操作対策。すべて、明朝、ご報告いたします**」


「お前、寝ろ」


「**……はい。リン様も、お休みください**」


「ああ」


リンは寝台に、身を横たえた。


ファーファはすでに寝台の隅で、丸くなっていた。ファーファは必要な時にだけ、起きる。今夜は、必要な時ではなかった。


ニャルニルが戦槌の柄から、低く言った。


「**……リン様、お休みなさい**」


「ああ」


クラケンがファーファの肩で、軽く動いた。


「**……ぴゅ**」


リンは、目を閉じた。


明朝、馬車。商業ギルド警備隊。医師団。ヘラ山。第三の遺跡。ティルスの本拠地。フードの男。


ヴァナールの本当の決着が、明日待っていた。


—了—


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