172 信義の証
ヴァナールの空が白み始めた頃、リンは商業ギルド舎の前で馬車に乗り込んだ。
馬車は二台。一台目にサフラスとローズ、リン、ユミル、ファーファ、ニャルニル、クラケン。二台目にヴィレムの妻ミレーヌ、織り屋の女将クレタ、ヘンリーが乗った。ガルムと商業ギルド警備隊員五名が護衛として、馬車の前後を固めた。
馬車は街の中心通りを上って、領主館へ向かった。ヴァナールの領主館は、街の西側、岩盤に食い込む古い石造りの城塞だった。最も高い場所、岩に半ば埋まった構造。
朝の街は、煙がまだ薄く残っていた。昨夜の火災の名残。住人が通りを掃いていた。冒険者ギルドの隊員の姿は、ほぼなかった。指揮官を失った組織が、街から姿を消していた。
ユミルが低く言った。
「**……街の空気、昨日と、変わりました。冒険者ギルドの巡回、ほぼ、止まっています**」
「ティルスの組織、瓦解しかけてるか」
「**……指揮官の不在と、捕虜の存在。隊員の士気が、落ちています。動ける者は、街を離れた可能性も、あります**」
「フードの男が、回収したか」
「**……可能性、あります**」
サフラスが頷いた。
「街の通常の秩序は、商業ギルド警備隊で、当面、維持できます。問題は、領主様のご決断です」
リンは矢筒を撫でた。
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領主館の正門で馬車を降りた。
門番が商業ギルドの通行証を確認して、深く頭を下げた。サフラスとは古い顔見知りらしかった。
「サフラス様、ご足労、感謝いたします。領主様、すでにお目覚めにございます。応接の間にて、お待ちでございます」
「卯の刻のお約束、感謝いたす」
サフラスが丁寧に頭を下げた。商業ギルド長としての礼の作法。
中に入ると、領主館の内部は、外の岩の城塞とは対照的に温かみのある木造の作りだった。床も、壁の梁も、磨き込まれた古い木。山羊獣人の領主が長く愛してきた住まい、という質感。
応接の間まで案内された。
戸が開いた。
中央の卓の奥、低い椅子に老領主が座っていた。
山羊獣人。歳は七十前後、白い毛並み。長く湾曲した角は、磨き込まれて光沢があった。職人らしい、太い指。穏やかな目。だが、目の奥に武人の名残のような、芯の強さがあった。
「サフラス、ご足労、感謝する」
声は、低く丁寧だった。流暢な発話。マーカーなし。
サフラスが深く頭を下げた。
「グレン様、朝早くからのお時間を、誠に、感謝いたします」
「リン殿も、お久しゅうござる」
グレンがリンに目を向けた。穏やかな、しかし鋭い視線。
「ご無沙汰しております」
リンも軽く頭を下げた。表敬訪問の折以来、二度目の対面だった。
グレンの目が、卓の前のミレーヌとクレタに留まった。それから、サフラスに戻った。
「ご同行のお二方、初めてお目にかかる。ご紹介を願えるか」
「はい。お一方は、街の鉱山跡で、強制的に、装置の製造に関わらされていた技師、ヴィレム・コーレン様の奥方、ミレーヌさん。お子様お二方の母君です」
ミレーヌが深く頭を下げた。三十代後半、職人の妻らしい質朴な身なり。だが、目には覚悟があった。
「もう一方は、西三番街の織り屋を営まれる、クレタさん。先月、ご主人を、闇にゅーる中毒で、亡くされました」
クレタも深く頭を下げた。四十前後、強い視線の女性。
グレンの目に、わずかに影がよぎった。
「お二方、ようこそ。お話を、伺わせていただく」
グレンが卓を手で示した。サフラスが座り、ローズが続き、リンが座った。ミレーヌとクレタは、サフラスの後ろに控えめに座った。ヘンリーは書類を持ったまま、立っていた。ガルムは応接の戸の外で、警備隊員と共に警備に立った。
ユミルが、ごく低く言った。
「**……exec、firewall、応接の間、入口、展開**」
光の薄い壁が、応接の戸の方に設置された。誰にも見えない壁。フードの男の認識操作が入り込めない、ユミルの結界。
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サフラスが卓に書類の束を、順に置いた。
「グレン様、本日のお話は、ヴァナール冒険者ギルド長、ティルス・ヴァルクス殿の、長年に渡る不正の、ご報告でございます」
グレンの白い眉が、わずかに動いた。
「ティルスの、不正」
「はい」
サフラスが卓の上の最初の束に、手を添えた。
「過去五年の、ヴァナールの貿易記録です。ティルス殿が冒険者ギルド長に就任された前後で、海洋国家との貿易量が、急激に減少しております。減少の理由として、ティルス殿は『海賊の出没』『海洋国家の内政不安』を挙げてこられました。ですが、商業ギルドが独自に調査した結果、いずれも、事実ではありませんでした」
「事実ではない、と」
「海洋国家との直接の通信記録、商人ネットワークからの情報、すべて、貿易は通常通り可能な状態でした。ティルス殿が、貿易を意図的に阻害してこられたものと、判断いたします」
グレンの太い指が、卓の上でわずかに組まれた。
「証拠は」
「こちらに、五年分の記録の比較表。それから、海洋国家側からの正式な書状の写し。商業ギルドの代表が、海洋国家の貿易代表に、確認を取った往復書簡です」
サフラスが書類を卓の上にずらした。グレンが太い指で、ゆっくり書類を引き寄せた。山羊獣人の指は職人の指で、書類を扱う動作も丁寧だった。
しばらく、グレンは書類を読んでいた。応接の間に、紙の擦れる音だけが続いた。
やがて、グレンが顔を上げた。
「サフラス、これは、貴公が、いつから把握しておった」
「四年ほど前から、徴候を、確認しておりました。確証を得たのは、二年前にございます」
「なぜ、儂に、報告せなんだ」
サフラスが深く頭を下げた。
「申し訳ございません。ティルス殿の信任が、領主様より深く、商業ギルドの一存で動いた場合、ヴァナールの混乱を招くと判断いたしました。確実な証拠が揃うまで、お時間を、いただきました」
グレンは、しばらく沈黙した。それから、太い指で額を撫でた。
「儂の、見る目の、なさだ」
「グレン様」
「儂が、ティルスを信任しておったがゆえに、貴公らが、動けなかった。これは、儂の責任だ」
サフラスが深く頭を下げた。
「グレン様の御徳の深さに、ティルス殿が付け入った、ということでございます。グレン様のご責任では、ございません」
グレンは、首を、ゆっくり振った。
「貴公の言葉は、ありがたい。だが、領主の任は、責任から、逃れられん。続けてくれ」
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サフラスが二つ目の書類の束に、手を添えた。
「次に、闇にゅーるの製造現場の存在についてです。北の山中、廃坑となった鉱山跡に、闇にゅーるの製造装置と、貯蔵装置が設置されておりました」
サフラスが鉱山跡の構造図を、グレンの前に広げた。
「装置の構造、貯蔵量、配水経路、すべて、商業ギルドの調査隊が、現地で確認いたしました。貯蔵されていた闇にゅーるは、ヴァナール全体に、五年分は流せる量でございました」
「五年分」
「はい」
グレンの目に、わずかに衝撃が走った。
「これが、誰の指示で、運営されておった」
「ティルス殿の直属の冒険者ギルド隊員が、現地で警護に就いておりました。鉱山跡の警備の権限は、冒険者ギルドにございます。ですが、巡回記録は、過去二年、形式的な写しのみで、実態の確認はされておりませんでした」
「ティルスの、責任」
「はい」
グレンが深く息を吐いた。
サフラスが続けた。
「現地の技師の方が、強制的に、装置の運営に関わらされておりました。お一方が、コーレン様。本日、ご同席のミレーヌさんのご主人にございます」
グレンがミレーヌに目を向けた。
ミレーヌが椅子から立ち上がって、深く頭を下げた。
「グレン様、初めてお目にかかります。コーレン家の妻、ミレーヌと申します」
「ミレーヌ殿、ご足労かたじけない」
「私の主人は、三年前から、技師として、別の研究所に、雇われたと聞いておりました。鉱山跡で、強制的に、薬の製造に関わらされていたとは、つい先日まで、知らずにおりました」
ミレーヌの声が、わずかに震えた。
「主人は、最初は、薬の研究と聞いて、雇われたそうです。途中で、これが、薬ではないと気付いたそうです。ですが、降りようとすれば、私と、娘たちを、人質にする、と」
グレンの白い毛並みが、わずかに逆立った。山羊獣人の、怒りの表れだった。
「人質、と」
「はい。私たちの家には、冒険者ギルドの隊員が、見張りに、就いておりました。私たちは、自由に外出することも、できませんでした。表向きは、護衛、ということになっておりましたが」
「護衛の名目で、軟禁、か」
「はい」
ミレーヌが深く頭を下げた。
「主人は、ヴァナールの住人を傷つけることに、深く、心を痛めておりました。ですが、家族のために、降りられませんでした。本日、グレン様の前で、主人に代わり、街の住人の方々に、深く、お詫び申し上げます」
ミレーヌの肩が、わずかに震えた。涙ではなかった。怒りと、申し訳なさと、安堵の混じった震えだった。
グレンは、しばらく目を閉じた。
「ミレーヌ殿、ご家族のご苦労、お察しする。ご主人の意志、儂は、承った。お詫びは、必要ない。ご主人は、被害者だ」
「ありがとうございます」
ミレーヌが深く頭を下げて、椅子に戻った。
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サフラスが三つ目の書類に、手を添えた。
「次に、闇にゅーるの被害について、ご報告いたします。本日、ご同席のクレタさんから、お話を伺います」
クレタが椅子から立ち上がった。サフラスとは違う、より素朴な、しかし強い声でグレンに頭を下げた。
「グレン様、初めて、お目にかかります。西三番街の織り屋、クレタと申します」
「クレタ殿、ようこそ」
「先月、私の主人が、亡くなりました。闇にゅーる中毒、でございました。三十代の、健康な男でしたが、ある日、急に、発作を起こしまして。冒険者ギルドの隊員が、すぐに来ました。中毒の治療と称して、ギルド舎に、運ばれていきました。三日後、遺体で、戻ってきました」
クレタの声に震えはなかった。乾いた、強い声だった。怒りをずっと内に持ち続けた者の、声だった。
「冒険者ギルドの説明では、治療の甲斐なく、亡くなった、と。ですが、運ばれていった時点で、主人は、まだ、話せる状態でした。ギルド舎で、何があったのか。私は、説明を、受けておりません」
「ギルド舎で、ご主人に、何が」
「分かりません。冒険者ギルドの説明は、表向きの治療記録だけ。診た医師の名前も、教えていただけませんでした。私が問い合わせると、『捜査の混乱を招く』と、追い返されました」
グレンの目が、深く暗くなった。
「他にも、こうした事例が、あったか」
「街中で、十数件、同様の事例が、あると聞いております。すべて、冒険者ギルド舎に運ばれて、戻ってきた時には、遺体でした」
クレタはグレンを、まっすぐに見た。
「グレン様、ヴァナールの領主として、お聞きいただきたい。ティルス・ヴァルクスが、冒険者ギルド長として、街の住人の命を、軽んじてきたこと。これが、ティルス殿の、十年来の、実態でございます」
クレタの言葉は、簡潔で強かった。
応接の間に、しばらく沈黙が降りた。
グレンの太い指が、卓の上で固く組まれた。山羊獣人の白い毛並みが、わずかに震えた。怒りと、悔恨の混じった震え。
「クレタ殿。ご主人の死を、儂は、深くお悔やみ申し上げる。儂が、ティルスを信任しておったがゆえに、貴公のご主人は、命を、奪われた。これは、儂の責任だ」
「グレン様」
クレタの目に、わずかに涙が浮かんだ。最初の涙だった。
「ティルスは、必ず、罪に問う。ヴァナールの領主として、誓う」
「ありがとうございます」
クレタが深く頭を下げて、椅子に戻った。
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サフラスが四つ目の書類に、手を添えた。
「最後に、昨夜の事件について、ご報告いたします。ティルス殿、ご本人による、商業ギルド舎への襲撃事件でございます」
「ティルスが、商業ギルド舎を、襲ったと」
「はい」
サフラスが書類をグレンの前に置いた。
「ティルス殿は、街の三箇所での放火を、自身の隊員に命じ、その混乱に乗じて、商業ギルド舎を占拠しようとされました。私と、ローズと、ヘンリー殿の身柄を、確保することを、目的としていたものと、判断いたします」
「お主らの身柄を、確保して、何を」
「商業ギルドの権威を、失墜させ、本日のような直訴を、不可能にすることが、目的だったと、思われます」
グレンが深く息を吐いた。
「リン殿のお陰で、商業ギルド舎は、守られた、ということだな」
「はい。リン様、ご一行が、襲撃を、撃退してくださいました。ですが、ティルス殿、ご本人は、フードの男──正体不明の人物と共に、街から、逃走されました」
「逃走、と」
「はい。現在、ティルス殿の所在は、不明でございます」
グレンがリンに目を向けた。
「リン殿、お話、感謝する。フードの男、というのは」
「正体は、まだ、分からない」
リンは短く答えた。
「商業ギルド舎の前庭で、ティルスを生け捕りにしようとした。だが、フードの男が現れて、認識操作のような技でティルスを回収していった。俺たちは追えなかった」
「認識操作」
ユミルが低く言った。
「**……視覚と聴覚に、わずかな歪みを生じさせる技です。対象の輪郭を、追えなくします。広範囲ではなく、ごく短時間の効果ですが、退避には、十分でございます**」
グレンの目がユミルに、向いた。
「ユミル殿、お久しゅうござる」
「**……グレン様、ご無沙汰しております**」
ユミルが軽く頭を下げる気配を見せた。
「ユミル殿のご解説、ありがたい。フードの男、というのは、ヴァナールの住人ではないのだな」
「**……はい。出自、不明です。ティルス様より、上位の指示系統と、思われます**」
「上位の」
「**……はい。ティルス様の、十年来の不正の、背後にある、別の存在でございます。詳細は、現在、調査中です**」
グレンが、深く頷いた。
「これは、ヴァナール一つの、問題では、なくなる、ということか」
「**……可能性が、あります**」
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グレンは、しばらく目を閉じた。
応接の間に、沈黙が戻ってきた。窓の外、ヴァナールの街が朝の光に、徐々に色を取り戻していた。
やがて、グレンが目を開けた。太い指で、卓の上の書類を軽く撫でた。
「サフラス、リン殿、お二方、ご足労、誠に、感謝する」
「グレン様」
「ティルス・ヴァルクスを、ヴァナール冒険者ギルド長の任から、解任する。本日付けで」
サフラスが深く頭を下げた。
「ご決断、感謝いたします」
「冒険者ギルドの権限は、当面、商業ギルドが代行する。サフラス、貴公に、一任する」
「承知いたしました」
「ティルスの捕縛令を、本日中に、街中に、布告する。商業ギルドの記録、捕虜の証言、被害者の証言、すべて、領主館で受理する」
「ありがとうございます」
「ティルスの背後の、フードの男なる人物。これも、捜索の対象とする。情報を、ヴァナール全体で、集める」
「**……グレン様、ありがとうございます**」
ユミルが深く頭を下げる気配を見せた。
グレンがリンに目を向けた。
「リン殿、貴公のご助力、ヴァナールとして、深く、感謝する。儂の、見る目の、なさを、お赦しいただきたい」
「俺は、外から来た。中から見えないものが、見えただけだ」
「謙虚な、お言葉だ」
「事実だ」
グレンは、わずかに笑った。山羊獣人の、穏やかな笑み。
「リン殿、しばらく、ヴァナールに、お留まりいただけるか。ティルスの捕縛と、フードの男の捜索、いずれも、お力を、お借りしたい」
「ああ」
「感謝する」
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応接の間を出る時、ミレーヌが、クレタが、それぞれリンに深く頭を下げた。
「リン様、本当に、ありがとうございました」
「いや」
「主人も、本日のことを、知れば、深く、感謝すると思います」
ミレーヌが、目に涙を浮かべた。クレタがその肩に、軽く手を添えた。年は違うが、同じ被害者として二人は互いを支えていた。
リンは、軽く頷いた。
「ご主人を、迎えに行ってくれ」
「はい」
ヘンリーがミレーヌを、商業ギルド舎の地下、ヴィレムの部屋へ案内するために、別の馬車を用意した。クレタは商業ギルド舎で、もう少し聞き取りを受けるため、ローズと共に別の馬車に乗った。
サフラスが最後に、リンの隣に立った。
「リン様、本日の、お見事なお働き、感謝いたします」
「お前らが書類を、整えた」
「商業ギルドの、仕事です」
サフラスが、また同じ言葉を口にした。
「これからの、街の収拾、ティルスの捕縛、フードの男の捜索。いずれも、商業ギルドの仕事です。リン様には、必要な場面で、お力を、お借りしたい」
「分かった」
サフラスが深く頭を下げた。
リンは馬車に乗り込んだ。
ファーファが布袋から握り飯を取り出して、即座に齧り始めた。
「**……主、おわり、ニャ?**」
「まだだ。ティルスは、街にいない。フードの男も、いない。本当の決着は、まだ先だ」
「**……ニャ。ファーファ、まだ、戦う、ニャ**」
「お前、楽しみすぎだぞ」
「**……ニャ**」
ユミルが低く言った。
「**……リン様、領主様のご決断、想定以上に、迅速でした。グレン様のご気概が、明確に、表れた場でございました**」
「ああ」
「**……ティルス様の捕縛は、これで、ヴァナール全体での、追手対象になります。フードの男の捜索も、本格化します。次の動きまで、しばらく、時間が、できました**」
「身体を休めて、次に備える、か」
「**……はい**」
馬車が領主館を出て、街の中心通りを下り始めた。朝の光が、ヴァナールの石畳を温かく照らしていた。
ヴァナール編の、第二の決着。だが、本当の決着は、まだ先だった。
—了—




