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171 書類の山


ティルスが消えた前庭で、ガルムが剣を鞘に納めた。


商業ギルドの警備隊員が、逃げ遅れた冒険者ギルドの隊員を順次捕縛していった。革鎧を剥がす音、縄で縛る音、低く呻く声。ヴァナールの夜の風景としては、極めて異質だった。


リンは地面に転がった矢を拾った。


剣の腹で払われた一本。三本目。腰の十五本のうち、一本だけが欠けた。次の戦いまでに補充できる。


ファーファが蹴られた腹を撫でながら、リンの隣に来た。獣人姿のまま、わずかに足を引きずっていた。


「**……主、ファーファ、痛いの、ニャ**」


「見せろ」


「**……ニャ**」


ファーファが軽く脇腹をリンに見せた。革のブーツの底の跡が毛皮の上に、薄く残っていた。古竜の体だ、骨は折れていない。だが表皮には、青黒い痣がにじみ始めていた。


ユミルが低く言った。


「**……ファーファの脇腹、軟組織の打撲。骨格には、影響、ありません。重い処置は、不要です。冷やすだけで、十分、回復します**」


「お前、簡単に蹴られたな」


「**……主、止まったの、悪いの、ニャ。次は、止まらない、ニャ**」


「次があるか分からないが、覚えとけ」


「**……ニャ**」


ファーファは不機嫌そうにジャーキーを齧り直した。


クラケンがファーファの肩で軽く触手を動かした。


「**……ぴゅ**」


ユミルが訳した。


「**……クラケンが、ファーファの脇腹に、冷たい水を、当てる、と申しております**」


「頼む」


クラケンがファーファの脇腹に、冷たい水の薄い膜を生成した。獣人が、わずかに目を細めた。


「**……ニャ……気持ちいい、ニャ**」


「冷えてきたら、外せ」


「**……ニャ**」


---


サフラスがローズとヘンリーと共に、地下から再び上がってきた。前庭の状況を見て、サフラスの目に深い皺が寄った。


「リン様、ティルス殿、逃しました、と」


「ああ。フードの男に、回収された」


「想定の範囲内ではあります。ですが、捕縛できれば、領主館への直訴が、より速やかに進んだのも、事実です」


「すまん」


「お謝りには、及びません。リン様の判断、適切でした」


サフラスは深く頭を下げた。それから顔を上げた目に、商人の覚悟が滲んでいた。


「では、本題に、入りましょう。明朝、領主グレン様への直訴。書類を、一晩で整えます」


「俺の出番は」


「同席していただきたい。商業ギルドの提訴と、リン様の証言が揃えば、領主様も決断されます」


「分かった」


ヘンリーが横から続けた。


「サフラス様、ティルス殿の不在、これは、こちらに、有利です」


「と申すと」


「ティルス殿、本人がいなければ反論ができません。書類と証拠を、一方的に領主様にご覧いただけます」


サフラスが頷いた。


「正論ですな。ですが、ティルス殿がフードの男と共に、戻ってこないとも限りません。明朝の直訴の場に、何らかの形で再び現れる可能性も、あります」


ユミルが低く言った。


「**……可能性は、否定できません。あの方は、認識操作で、領主館にも、入り込めます**」


「対策は」


「**……サフラス様、領主館の警備を、強化していただきたいです。それから、私のファイアウォールを、領主館の応接の入口に、展開できれば、認識操作の侵入は、防げます**」


サフラスが、目を、わずかに見開いた。


「ファイアウォール、と仰いましたか」


「**……はい。古い言葉です。防御の壁、という意味です。神聖魔法です**」


「商業ギルドの警備隊と、ユミル様の防御。これは、心強い」


「**……範囲が、限られます。応接の入口だけ、です。広域の展開は、消耗が大きく、長時間は、保ちません**」


「十分です。最も重要な場所を、お守りいただければ」


ユミルが頷いた。


---


商業ギルド舎の応接が、書類の整理場と化していた。


サフラスが、過去五年分の貿易記録の写しを卓に広げた。ローズが、商業ギルドの台帳と冒険者ギルドの巡回記録の照合表を分担した。ヘンリーがスカジー商会の私的な記録を、別の卓で整理し始めた。


捕虜のヨゼフ・ハーゲンの供述書、捕縛の経緯、武装の状態、商業ギルドの照合結果。


鉱山跡の調査記録、装置の押収記録、ヴィレム・コーレンの証言の写し、地下水路の構造図。


集団発作の被害者の医師団の診断書、被害の地理的分布、闇にゅーるの流通経路の市場記録。


そして、装置の核──銀色の小箱の存在の証明。


書類の山が、卓に積み上がっていった。


リンは、手伝うことがほとんどなかった。書類の整備は商業ギルドの本職の仕事だった。リンは応接の隅の椅子に座って、矢筒を撫でていた。


ファーファはジャーキーを齧りながら、卓の下で丸くなって寝ていた。


ユミルは、書類の山の写しを光の薄い板で走査していた。商業ギルドの整理が終わった書類から、順次ユミルの解析が走っていた。整合性の確認、矛盾点の指摘、それをサフラスとローズに、即座に返していた。


「**……サフラス様、こちらの記録、日付が、二日ほど、前後しています。ティルス様の巡回記録と、ご照合をお願いします**」


「拝見します」


サフラスが書類を取って、確認した。


「……ご指摘の通りですな。日付の改ざんが、入っております。これは、こちらで、修正版を、作成いたします」


「**……お願いします**」


ローズが別の書類を、ユミルの板に向けた。


「ユミル様、こちらは」


「**……これは、整合しています。問題、ありません**」


「ありがとうございます」


ユミルの板の処理速度は、人間の事務作業の数十倍だった。サフラスとローズは、ユミルの解析を信頼して自分たちの判断で書類を整理していた。それが、夜の作業の効率を大きく上げていた。


---


夜が、深くなっていた。


ヘンリーが別の応接室から戻ってきた。手に、新しい書類の束を抱えていた。


「サフラス様、リン様、コーレン様のご家族、無事に、保護できました」


「ヴィレムの家族か」


「ええ。職人地区の南、奥の家。ティルス殿の隊員が見張りに就いておりましたが、商業ギルド警備隊がすでに制圧済み。ご家族は無事です」


「妻と、娘が二人」


「左様です。妻のミレーヌさん、娘のフィアさん、ロレナさん。三人とも、商業ギルド舎の地下、安全室にお運びいたしました」


リンは小さく頷いた。


「ヴィレム本人は」


「鉱山跡で、装置の最終確認の後、商業ギルド舎にお運びいたしました。妻子との再会は、明朝、領主館への直訴後を予定しております」


「分かった」


ユミルが低く言った。


「**……コーレン様のご家族、領主館への直訴の場に、ご同席いただくこと、検討いただきたいです**」


サフラスが頷いた。


「人質にされていたご家族の存在、極めて有力な証拠になります。領主様の心証も、大きく動くでしょう」


「**……ですが、お子様も、含まれます。場の負担を、最小限に、抑える必要があります**」


ヘンリーが続けた。


「ご家族には、ご事情をお伝えして同行のご意向を伺います。ご無理をお願いするものではありません」


「**……ありがたいご配慮です**」


ユミルが深く頷いた。


---


被害者の証言の集約も、進んでいた。


ローズが別の卓で、被害者の家族との聞き取りのまとめを整えていた。集団発作の被害者の家族、街中の闇にゅーる中毒者の家族、合わせて十二件の証言が揃っていた。


「リン様、こちらにも、お一人、ご同席をご検討いただきたい方が、おられます」


「誰だ」


「西三番街の、織り屋の女将さんです。ご主人を、闇にゅーる中毒で亡くされております。冒険者ギルドの捜査が、形式だけだったこと、強く訴えておられます」


「歳は」


「四十前後、お一人で織り屋を営まれて、お子様もいらっしゃいます。ご気丈な方ですが、ティルス殿への怒りは深いです」


「来てくれるか」


「ご本人は、強くご希望されております。ティルス殿の不正を、領主様に直接お伝えしたい、と」


「分かった」


ユミルが頷いた。


「**……ティルス様の能力、公正の主観の上に、成立しています。被害者の方を、目の前にした時、ティルス様の主観が、揺らぐ可能性、あります**」


「揺らげば、能力が、崩れる」


「**……はい。決定打にはなりませんが、揺さぶりとしては、有効です**」


サフラスが深く頷いた。


「では、ご家族のお一方と織り屋の女将さんのお二方、明朝の直訴にご同席をお願いいたしましょう。お子様の同席は、状況に応じて判断いたします」


---


夜半過ぎ。


書類の山が、ようやく整理を終えた。サフラスが最終の確認のために、書類を一束ずつ卓に並べた。


「リン様、こちらが、明朝、領主様にお見せする、書類一式です」


リンは立ち上がって、卓の前に立った。


書類は、八つの束に分かれていた。


過去五年の貿易記録と、ティルス就任前後の比較。

捕虜ヨゼフの供述書と、商業ギルドの身元照合。

鉱山跡の調査記録、装置の構造図、押収物一覧。

ヴィレム・コーレンの技師としての証言、家族の人質状況。

集団発作の被害者の診断書、地理的分布、流通経路。

装置の核の存在証明、ユミルの解析報告。

昨夜の襲撃事件、本日の商業ギルド舎襲撃の経緯。

ティルス殿の逃走の事実、フードの男との関係。


「これだけ、揃ったか」


「ええ。商業ギルドの五年来の積み重ねが、一晩で形になりました。リン様のお力なしには、ここまではまとめられませんでした」


「お前らが整えた」


「商業ギルドの、仕事です」


サフラスが、また同じ言葉を口にした。穏やかな目の奥に、商人としての確信があった。


ローズが続けた。


「明朝、卯の刻、領主館へ参上いたします。商業ギルド長サフラス、副長ローズ、リン様、ご家族のミレーヌさん、織り屋のクレタさん、合計五名で面会を申し込みます」


「俺の役割は」


「同席いただいて、必要な場面で証言をお願いいたします。鉱山跡の調査の経緯、ティルス殿との対峙の事実、フードの男の存在。これらは、リン様にしかお話できません」


「分かった」


サフラスが最後に、深く頭を下げた。


「リン様、本日のご活躍に、改めて感謝いたします。お休みください。明日の朝、領主館でお会いいたします」


「ああ」

---


応接を離れて、宿への帰路に着く時、ガルムが護衛として並んで歩いた。


夜の通りは静かだった。冒険者ギルド舎の方角は、明かりが半分ほど消えていた。指揮官のいない組織が、夜の中で揺らいでいる気配だった。


ガルムが低く言った。


「リン様」


「ん」


「私の腕では、ティルス殿を止め切れませんでした。武人として不甲斐なく、申し訳ない」


「お前のせいじゃない」


「ですが」


「お前が踏み込んでくれなかったら、俺たちはずっと固まったままだ。お前が剣戟を続けてくれた。それで、ティルスは退避を選んだ」


ガルムは、しばらく沈黙した。それから、低く言った。


「明日の領主館の場、私もご同席をお願いしたい」


「お前が来るのか」


「ええ。ティルス殿が再び現れる可能性がある以上、剣士の同行は必要です。サフラス様にもお願いいたします」


「頼む」


「もう一つ、ご報告が」


「ん」


「商業ギルド警備隊、私の家族にも護衛をつけました。妻と息子が、おります。万一、フードの男が私の家族を人質に取ろうとした場合への備えです」


「お前、家族がいたのか」


「ええ」


ガルムは、少し柔らかく笑った。


「妻はテレザ、息子はベンと申します。息子は、まだ十歳です。剣の稽古を始めたばかりで」


「ベン、か」


「ええ」


「無事を、祈る」


「ありがとうございます」


ガルムは、もう一度頭を下げた。剣の柄に、わずかに手を添えた。


リンはそれ以上、何も言わなかった。


商業ギルドの仕事には、商業ギルドの人間のそれぞれの家がある。自分は、よそ者として通り過ぎる立場だ。だが、通り過ぎる間にできることは、する。それが、ヴァナール編の自分の役目だった。


---


宿に戻った。


宿の女将が夜遅くにも関わらず、起きていた。湯と軽食を、用意してくれていた。ファーファが卓の上の握り飯を、即座に二つ布袋に入れた。


「ファーファ、お前」


「**……明日、必要、ニャ**」


「分かった」


ユミルが低く言った。


「**……リン様、明朝の準備、整理いたしました。証言の流れ、想定問答、ファイアウォールの展開位置、すべて、確認済みです**」


「お前、寝ろ」


「**……はい。リン様も、お休みください**」


「ああ」


リンは寝台に身を横たえた。


ファーファはすでに寝台の隅で、丸くなっていた。古竜は、必要な時にだけ起きる。普段は寝ている。今夜は、必要な時ではなかった。


ユミルは、光の小さな板を消した。


ニャルニルが戦槌の柄から低く言った。


「**……リン様、お休みなさい**」


「ああ」


クラケンがぴくりと動いた。


「**……ぴゅ**」


それが、夜の挨拶だった。


リンは、目を閉じた。


明朝、卯の刻。領主館。山羊獣人の老領主。書類の山。被害者と人質の家族。ヴァナールの本当の決着への、第一歩。


夜は、まだ長かった。


—了—


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