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163 区画の朝、封鎖の声


朝が、騒がしかった。


宿の表通りから、人の声が立ち上がっていた。普段の朝の声ではない。叫び声が混じっていた。


リンは弓を背負って、戸を開けた。階下の宿主が、青い顔で階段を上がってくるところだった。


「リン様、表が」


「何だ」


「西の三番街、住人が、おかしくなっております。何十人と」


「闇にゅーる、か」


「分かりません。ですが、皆、同じような状態だ、と」


リンは階段を駆け下りた。ファーファが寝台を蹴って、獣人姿のまま続いた。ユミルとニャルニルとクラケンは、姿を絞ったまま矢筒の隣にいた。


宿の表に出ると、通りの先、北西の方角から、人の流れが見えた。何人かが歩道に倒れている。それを支えようとする人と、悲鳴を上げる人がいた。混雑した人の群れの隙間から、地面に膝をついて自分の腕を掻きむしる男の姿が、一瞬見えた。


「**……西、三番街、確認に、行きます**」


ユミルの声が低く立った。


「行く」


リンは走った。ファーファが斜め後ろを並走した。


---


三番街は、街の西側、職人通りの一区画だった。鍛冶屋、革職人、桶屋、織り屋。普段は槌の音と機織りの音で賑わう通りが、今朝は人の悲鳴と、誰かを呼ぶ声で埋まっていた。


通りの中ほど、人の輪ができていた。中央で、男が地面に倒れていた。革職人らしき身なり、中年。腕と顔に、引っ掻いた跡。瞳孔が開いていた。


リンは輪に近づいた。職人の妻と思しき女が、男の頭を抱えて泣いていた。周りの住人が、何が起きているのか分からない顔で立ち尽くしていた。


「**……リン様**」


ユミルが矢筒の隣で静かに言った。


「**……闇にゅーるの、症状です。中度から重度の発作です**」


「何人いる」


「**……この通りだけで、目視で十二人。周辺の路地も含めると、もっと多いです**」


リンは周囲を見渡した。確かに、倒れている人、座り込んでいる人、放心して通りを歩く人、いくつもの異常が同時に起きていた。


近くで、若い母親が子供を抱えて泣いていた。子供は意識を失っていた。母親の腕の付け根、襟の下、肌に発疹が見えた。


「**……母親、軽症。子供、中症。母親が、混乱しています**」


ユミルがそう言った。それから、低く続けた。


「**……リン様、申し上げにくいのですが、ここで全員を、私が処置することは、できません**」


「分かってる」


「**……規模が、想定を超えています。重症の方を優先します。それでも、漏れます**」


「指示してくれ」


「**……はい。ファーファに、運搬を頼みます。重症の方を、近くの広い場所に集めます**」


ユミルは即座に、近くにいた住人に声をかけた。穏やかな、しかし通る声だった。


「**……皆様、聞いてください。倒れている方は、運びます。広い場所に集めます。指示に、従ってください**」


通りの空気が、わずかに変わった。混乱の中で、指示を出す声があると、人は動く。住人が、運搬を手伝い始めた。


ファーファが獣人姿のまま、最初の男を軽々と抱え上げた。古竜の力で、人間一人は荷物のようなものだった。だが、ファーファは丁寧に扱った。


「**……ニャ。優しく、運ぶ、ニャ**」


ファーファが、自分にそう言い聞かせるように呟いた。リンは少しだけ、表情を緩めた。


通りの東側、織り屋の前に、軽い空き地があった。住人がそこを開けた。倒れている人を、順に運んだ。十二人。それから、軽症の人を、その隣に座らせた。母親と子供も、そこへ運ばれた。


---

ガルムが、駆けつけた。


商業ギルドの警備隊長は、護衛役として朝に宿に向かう予定だった。途中で異変を察知して、こちらに来たらしい。剣を腰に下げたまま、息を整えた。


「リン様、ご無事ですか」


「俺は無事だ。だが」


「分かっております。ローズ様にも、すでに伝令を飛ばしました。商業ギルドから、医師と人手が来ます」


「助かる」


ガルムは空き地を見渡した。倒れている十二人、軽症が二十人ほど。年齢はばらばら、男女もばらばら。共通点は、住んでいる地区だけだった。


「西の三番街、特に集中しております。なぜ、ここなのか」


ユミルが、低く言った。


「**……地区ごとに、闇にゅーるの流通経路が、違うのかもしれません。三番街に、特定の納品先が、あった可能性です**」


「……職人の地区です。一日働き詰めの職人が、買いに行きやすい場所」


「**……はい。それから、この地区には、子供の被害も、出ています。家庭に持ち帰った可能性があります**」


ガルムは唇を結んだ。剣士の冷静さで、状況を読み取っていた。


「リン様、商業ギルド舎へ、戻られた方が」


「いや、ここで処置を見届ける」


「お気持ちは分かりますが、ここはこちらが」


ガルムが、視線を東の方向に向けた。リンも目をやった。


通りの東、表通りの方から、武装した一団が来るのが見えた。革鎧、外套、剣。冒険者ギルドの腕章をつけた者が、十人ほど。先頭に、肩幅の広い男。距離があっても、姿勢で分かった。ティルスだった。


ガルムが、低く言った。


「冒険者ギルドが、来ました」


---


ティルスは早足で空き地に近づいてきた。十人の隊員を従えていた。手に書類のようなものを持っていた。リンの前まで来ると、足を止めた。


「リン殿、ここでは何を」


「住人を、運んでる」


「ご親切に、感謝する。だが、ここは冒険者ギルドの管轄だ。捜査の混乱を防ぐため、三番街の出入りを、これより制限する」


「制限」


「街の安全のため、やむを得ない処置だ。被害者の方々は、冒険者ギルド舎へ移送する。そこで、医師の処置を受けてもらう」


ティルスは書類を、ガルムに向けて差し出した。


「商業ギルド警備隊長殿、こちらをご確認いただきたい」


ガルムは書類を受け取った。読んでいる間、ティルスは微動だにしなかった。


ユミルが、低く言った。


「**……リン様、書類は、街の一時封鎖の権限行使、です。冒険者ギルド長の権限で、可能です**」


「……被害者の保護、名目」


「**……はい。書類上は、合法です**」


ガルムが書類を閉じた。


「ティルス殿、書類は確認した。だが、被害者の移送先は、冒険者ギルド舎ではなく、商業ギルド舎へ、変更させていただきたい。商業ギルドが、医師と人手を、すでに手配済みだ」


「商業ギルドに、医療の責任は負えん。これは、武力行使を伴う、街の安全管理の問題だ」


「医療の責任は、医師団が負う。商業ギルドは、医師団の費用と場所を提供する」


「冒険者ギルドの方が、設備が整っている」


「ティルス殿、率直に申し上げます。最近、冒険者ギルド舎に運ばれた被害者の、その後の状態が、把握できておりません。商業ギルドとしては、被害者の安全を確認できる場所に、運ぶ必要がございます」


ティルスの目が、わずかに細くなった。


「ガルム殿、それは、冒険者ギルドへの不信の表明か」


「不信ではない。確認、です」


二人の間に、緊張が走った。住人がそれを察して、空き地の周辺から、わずかに距離を取った。


リンは口を挟まなかった。ガルムが商業ギルドの権限で押し返している。リンが入る場面ではなかった。


ティルスがリンの方に視線を向けた。


「リン殿、貴公はどう思われる。被害者の処置は、迅速さが第一だ。この場で議論するより、まず移送を」


「俺は、商業ギルドに任せる」


「……そうか」


ティルスは短く頷いた。それから、もう一度ガルムに目を戻した。


「分かった。被害者の移送は、商業ギルド側に任せる。だが、三番街の封鎖は、こちらの管轄だ。これは譲れん」


「封鎖の範囲は」


「西の三番街、東西二筋、南北三筋。出入りは、冒険者ギルドの認可制とする」


「期間」


「捜査が完了するまで」


ガルムは深く頷いた。


「承知した。ただし、商業ギルドの医師団と人手の出入りは、自由に認めていただきたい。医療行為に支障が出る」


「それは認める」


ティルスは書類を巻き戻した。隊員に短く指示を出した。隊員が三番街の四方の通りに散って、封鎖の準備に入った。


ティルスはリンの前に、もう一度立った。


「リン殿、被害が広がる中での貴公のご助力、感謝する。だが、街の安全管理は、こちらの仕事だ。今後、独自に動かれる際には、事前に冒険者ギルド舎に一報を願いたい」


「考えとく」


「ご理解、感謝する」


ティルスは踵を返して、隊員と共に通りの東に消えていった。


ガルムが、長く息を吐いた。


「リン様、申し訳ございません。封鎖までは、止められませんでした」


「お前のせいじゃない。書類が合法なら、こっちは動けない」


「ですが、被害者は商業ギルドで保護できます。これは、大きいです」


「だな」


ユミルが、矢筒の隣で頷いた。


「**……ガルム様、ありがとうございます。被害者の方々が、ティルス様の手に渡らずに、済みました**」


「商業ギルドの仕事です」


ガルムは、サフラスと同じ言葉を口にした。商業ギルドの人間の、定型句のようなものらしかった。


---


商業ギルドの医師団が到着した。十人ほどの医師と、二十人ほどの助手、馬車五台。組織だった動きだった。倒れている人、軽症の人、母親と子供。順に診て、馬車に乗せ、商業ギルド舎へ運んだ。


ユミルは、医師団の到着を待つ間に、重症者の三人に光の処置を行った。意識が戻る程度まで。完全な解毒ではなかったが、馬車での移送に耐える状態にはなった。


「**……これで、命の危険は、回避できました。残りは医師団の方々に、引き継ぎます**」


「助かった」


「**……いえ。ですが、根本の解決には、なっていません。製造を止めなければ、被害は続きます**」


「だな」


リンは三番街の通りを見渡した。封鎖の準備が進んでいた。冒険者ギルドの隊員が、四方の角に立って、出入りを制限し始めていた。住人の中には、文句を言う者もいたが、書類を見せられて、黙った。


ガルムが、低く言った。


「リン様、ティルス殿は、巧妙です。被害が出てから動く、というのは、捜査機関として正しい行動です。表向きは、街を守る正義の長、です」


「だが、そのタイミングが」


「あまりに、計ったようです」


「だな」


ユミルが頷いた。


「**……被害が、特定地区に集中していること。発作が、ほぼ同時刻に始まったこと。ティルス様の到着が、被害発見から半刻ほどであること。準備されていた可能性が、高いと思います**」


「闇にゅーるの濃度を、特定地区で、上げたか」


「**……製造側で、何かを変えた可能性です。あるいは、特定の納品先に、特別な物を、流した可能性**」


「鉱山跡で、何かが起きてる」


「**……はい**」


リンは矢筒を撫でた。明日の鉱山跡調査が、ますます重要になった。


---


商業ギルド舎に戻ったのは、昼を過ぎてからだった。サフラスとローズが、応接室で待っていた。


「リン様、ガルム、本当にお疲れ様でした」


ローズが頭を下げた。


「被害者の方々は、地下の医療室で、医師団が処置に当たっております。重症の方も、命の危険は回避できそうです。ユミル様の処置が、間に合いました」


ユミルが小さく頷いた。


「**……間に合って、良かったです**」


サフラスが、卓に書類を広げた。


「リン様、被害者の聞き取りから、闇にゅーるの入手経路が、いくつか浮かび上がってまいりました」


「経路」


「三番街の住人、十数人から、共通の話が出ております。最近、街の外れの市で、安く闇にゅーるが流れていた、と。普段の半額ほどの値段だったそうです」


「半額」


「**……値段を下げて、消費を促した可能性です。製造側が、何らかの実験をした可能性、です**」


ユミルが頷いた。サフラスも頷いた。


「商業ギルドとして、その市の調査も進めます。出店者の身元、商品の入荷経路。明日中には、絞れるかと存じます」


「鉱山跡の方は」


「予定通り、明日の朝、出立できます。ガルム、人員、装備、医師、すべて手配済みです」


ガルムが頷いた。


「明朝、夜明けと共に。リン様の宿前まで、馬車で迎えに上がります」


「分かった」


ローズが、最後にもう一つ書類を取り出した。


「もう一つ、お知らせがございます。捕虜の身元、判明いたしました」


リンは目を上げた。


「冒険者ギルドの特殊任務班、隊長級の一人。名前は、ヨゼフ・ハーゲン。ティルス殿の直属で、過去十年、この街で活動しております。武具の発注記録、移動許可証、税の記録、すべて一致いたしました」


「証拠は、固まったか」


「冒険者ギルド長の指示なしに、隊長級が単独で街中で武力行使を行うことは、ギルド規約上、不可能です。捕虜の存在、武装の状態、襲撃の場所、いずれをとっても、ティルス殿の指示が、強く疑われます」


「だが、ティルスは関与を否定する」


「現時点では、否定するでしょう。ですが、書類上の証拠が積み上がれば、領主館への直訴が、可能になります」


サフラスが頷いた。


「鉱山跡の調査結果が、最後の決め手になるかもしれません。製造現場が押さえられれば、ティルス殿の言い逃れは、極めて困難になります」


「明日の調査、慎重に行く」


「ご無事を、お祈りしております」


リンは頷いた。


---


宿に戻る道で、空はすでに夕暮れに近かった。封鎖された三番街を遠目に見ながら、ガルムが護衛として並んで歩いた。


「リン様、明日の調査、私もご一緒します。鉱山跡の地形は、覚えております。坑道の入口は、北の山中、街道から半刻ほど入った場所にございます」


「お前、若い頃、鉱山に出入りしてたのか」


「父が鍛冶屋でした。鉱石の買い付けで、何度か行きました。坑道の図面も、頭に入っております」


「頼もしいな」


「お役に立てれば、幸いです」


ファーファが、ガルムの斜め後ろから、低く言った。


「**……剣士、明日、戦うの、ニャ?**」


「戦闘になるかもしれません」


「**……ファーファ、近接、担当、ニャ**」


「ありがたい」


ガルムは少し笑った。古竜の獣人姿が、ジャーキーをくわえながら戦闘の話をしているのを、不思議そうに見ていた。


「ファーファ様、強い、と伺っております」


「**……ニャ。ファーファ、強い、ニャ**」


「頼もしいです」


ニャルニルが続けた。


「**……ガルム様、剣の重心、自然です。長く使われていますね**」


「ええ。父の形見です。三十年、使っております」


「**……良い剣です**」


ガルムは少しだけ、剣の柄を撫でた。それ以上は何も言わなかったが、その仕草に、剣への深い愛着が見えた。


リンは弓を背負い直した。明日の朝、鉱山跡。北の山中。煙の出処。


「行くか」


「はい」


宿の前に着いた時、空は赤く焼けていた。ヴァナールの夜が、また来る。今日は、被害者の悲鳴で始まった。明日は、鉱山跡の煙の中で、終わる。


リンは戸を開けた。


—了—


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