161 夜の裏路地
窓から、乾いた風が入ってきた。
ヴァナールは盆地に近い造りで、朝の空気は涼しい。リンは弓の弦を確かめながら、卓の上に矢を並べていた。鏃の角度、羽根の整い、糸の巻きの締まり。一本ずつ指で撫でる。昨日の話し合いの後で、矢を点検するのが習慣になっていた。
ファーファは寝台の上で寝返りを打って、ジャーキーを口にくわえたまま薄目を開けた。
「**……主、起きるの、早い、ニャ**」
「お前が遅い」
「**……ニャ**」
ファーファは目を閉じた。寝直す気らしい。リンは矢を一本、束に戻した。
ユミルは部屋の隅で、昨日の帳簿の写しを並べて静かに整理していた。三角形の中に点一つ。同じ記号が、複数の頁に散らばっている。
「**……リン様、納品先の絞り込み、進めています**」
「分かった、急がなくていい」
ユミルは頷いた。
戸の外で、軽い足音が止まった。
「起きてるか」
トビーの声だった。リンは戸を開けた。トビーが朝の光を背負って立っていた。
「入れ」
「邪魔するぜ」
トビーは部屋に入ってきた。卓の前の椅子に座って、軽く息を吐いた。顔色は昨日より良い。
「飯は」
「食ってきた。お前らの分は買わなかった、悪いな」
「気にすんな」
トビーは膝の上で手を組んだ。一拍置いて、声を低くした。
「ティルスが、昨日の夜、誰かと会ってた」
リンは矢の束を脇に寄せた。
「どこで」
「ギルド舎の裏。路地の奥に小さい中庭がある。あそこで、フードの男と話してた」
「お前が見たのか」
「顔は見えなかった。距離があった。でも、フードの男の方は、こないだの目撃情報と同じ背格好だ」
ユミルが卓に近づいた。
「**……トビーさん、目撃の時刻は、いつ頃ですか**」
「夜半過ぎ、二刻ほどか」
「**……記録、しておきます**」
ユミルは小さな板に書き留めた。リンは矢を一本、ゆっくり指で撫でた。
「ティルスが動き出したな」
「昨日のお前の二度目の面会、効いたんだろう。商業ギルドとの繋がり、向こうにとっては想定外だ」
「で、何を話してた」
トビーは首を振った。
「そこまでは聞こえなかった。けど、ティルスの方が、頭一つ低い姿勢だった。短い指示を受けてる、そんな風だった」
リンは矢を束に戻した。
「**……つまり、ティルスが上から命令を受けた、という可能性ですね**」
「そうだ」
「**……指示の内容は、まだ分かりません**」
ユミルが板を閉じた。リンは寝台の方を見た。ファーファは目を閉じたままだったが、耳が動いている。聞いている。
「ファーファ」
「**……聞いてる、ニャ**」
「今夜、出るかもしれん」
「**……ファーファ、行く、ニャ**」
「ジャーキーは持ってけ」
「**……当然、ニャ**」
ファーファは目を閉じたまま、もう一本ジャーキーを手探りで掴んだ。トビーが小さく笑った。
「お前ら、相変わらずだな」
「で、お前はどうする」
「俺は昼間、ギルド舎で普通に仕事だ。夕方、もう一度状況を見てくる。今夜、お前らが裏路地に入るなら、案内できる」
「頼む」
「ああ」
トビーは立ち上がった。戸の前で振り返った。
「気を付けろよ。お前らは、今、相当目立ってる」
「分かってる」
トビーは出て行った。戸が閉じる音が、静かに響いた。
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昼前、リンはスカジー邸に向かった。ヘンリーが応接間で迎えた。茶が出された。
「昨日のローズ様との面談、こちらにも報告が来ております。ご無事で何よりです」
「ローズに伝えてくれ。今夜、動きがあるかもしれん」
ヘンリーの目が一瞬、鋭くなった。商人の顔だった。
「どのような動きで」
「冒険者ギルド長の方から、こっちに来る可能性がある」
「承知しました。商会の警備を厚くします。ローズ様にもすぐお伝えします」
「お前らも気を付けろ。商業ギルドが標的になるのも、十分あり得る」
「ありがとうございます。リン様も、どうかお気を付けて」
リンは頷いた。長くは話さなかった。表通りを歩く時間が短いほど良い。茶を半分残して、帰った。
宿に戻る道で、リンは三度、振り返った。誰もいない。だが、空気が薄く緊張していた。視線がある。どこから、までは絞れない。屋根か、二階の窓か、雑踏の中か。
「**……リン様**」
ユミルの声が、矢筒の隣で静かに鳴った。
「**……視線、感じます。三方向、距離は二十間から五十間ほどです**」
「分かってる」
「**……今のところ、動きはありません。見ているだけです**」
リンは歩調を変えなかった。
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午後、宿の卓で、リンは矢を補充した。羽根を整え、鏃を砥ぎ、糸を巻き直した。三十本の束を、二つに分けた。十五本を腰の矢筒、十五本を背の矢筒。
ファーファは寝台で起き上がって、ジャーキーを齧っていた。
「**……主、夜、戦うの、ニャ?**」
「分からん。出くわすかどうか、だ」
「**……ファーファ、近接、担当、ニャ**」
「無茶はするな」
「**……ニャ**」
クラケンがファーファの肩でぴくりと動いた。
「**……ぴゅ**」
ファーファが頷いた。
「**……主、クラケン、水、出せる、って、ニャ**」
「ありがたい」
「**……ぴゅ**」
ニャルニルが、戦槌の柄からゆっくりと声を出した。
「**……観測の準備、できました**」
ユミルは卓の上に光の小さな板を浮かべて、街の地図を細かく引き直していた。ギルド舎の裏路地、その周辺の屋根、退路、隠れ場所。
「**……リン様、退路を三本、確保しました。第一は商人通り経由、第二は東側の塀沿い、第三は屋根伝いです**」
「分かった」
夕暮れが近づくと、街の音が一段沈んだ。バザールの店じまいが始まる。リンは弓を手に取って、軽く弦を弾いた。低く乾いた音がした。
戸が叩かれた。
「俺だ」
トビーが入ってきた。表情は固い。
「ティルスが、夕方、ギルド舎を出た。中庭の方じゃない、表からだ。普通の見回りだと、職員には言ってあるそうだ」
「で、戻った時刻は」
「まだ戻ってない」
リンは弓を背負った。
「行くか」
「**……ファーファ、行く、ニャ**」
「**……巫女、お供します**」
「**……観測、入ります**」
「**……ぴゅ**」
トビーが頷いた。
「裏口から出よう。表は見られてる」
「分かった」
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夜のヴァナールは、昼間とは別の街のようだった。バザールの大通りには夜店が並んで、油の匂いと笑い声が広がっている。だが一本路地に入ると、音が遠のく。石畳の隙間に、昼間の埃が固まって残っている。
トビーが先導した。リンは三歩後ろ、ファーファは更に後ろ、ユミルとニャルニルとクラケンは姿を隠して気配を絞っている。トビーは慣れた歩調で、表通りを避けながら、ギルド舎の裏側へ回り込んだ。
ギルド舎は、街の中心からやや東、石造りの三階建てだった。表には松明が二本、燃えている。裏側は暗い。塀沿いに細い路地が走り、その奥に小さな中庭がある、とトビーが言っていた。
「ここから先、声は出すな」
トビーが小声で言った。リンは頷いた。
塀沿いを進んだ。塀の途中に切れ込みがあって、小さな中庭が覗ける。トビーが先に身を低くして覗いた。
「いる」
トビーは囁いた。リンも身を低くして覗き込んだ。
中庭は石畳で、中央に小さな井戸があった。井戸の縁に、二人の人影。一人は背の高い人間、ティルスだった。武人の姿勢、肩幅、背筋の伸び。間違いない。もう一人は、紺色のフードを目深に被った男。背丈はティルスより少し低い。肩幅は広い。
リンは矢筒に手を触れたが、抜かなかった。距離はある。三十間ほど。会話の声は届かない。だが、姿勢の関係はよく見えた。
ティルスの背筋が、わずかに低い。フードの男に対して、頭一つ分、引いている。指示を受けている姿勢だった。
ユミルが、リンの矢筒の隣で、小さく囁いた。
「**……リン様、フードの男から、認識操作のノイズが出ています。前回と同じものです**」
「あいつか」
「**……間違い、ないと思います**」
ニャルニルが続けた。
「**……二人の距離、近いです。会話は続いています**」
「**……音声は、ここまで届きません**」
リンは指で塀の縁を撫でた。動かない。動けば気付かれる。
フードの男が、ふと、こちらの方に顔を向けた。
リンは息を止めた。塀の切れ込みは細く、中庭側からは見えにくいはずだった。
だが、フードの男は、確かにこちらを見た。
正確には、こちらの方角を見た。視線の角度が、リンの目とぴたりと合った。
その口元が、わずかに動いた。
ティルスは気付いていない。男の方だけが、声を出さずに、唇を動かした。
「……次は、お前」
そう、読めた。
ニャルニルが、低く言った。
「**……唇の形、確認しました。トビーさんの読みと、一致します**」
トビーが横で、一拍遅れて呟いた。
「マジか」
フードの男はそれで終わりだった。視線を戻して、ティルスに何か短く言って、踵を返した。中庭の奥の戸口から、消えていった。
ティルスはしばらくその場に立っていた。それから、長く息を吐いて、ギルド舎の方へ戻っていった。
リンは塀から離れた。
「戻るぞ」
「ああ」
トビーが頷いた。
退路は、来た時とは別の路地を選んだ。ユミルが指示した三本のうちの二本目。トビーがそちらに精通していた。塀沿いを進んで、表通りには出ず、屋根の影を伝って宿に向かう。
「あいつ、お前を見たな」
トビーが歩きながら、低く言った。
「だな」
「塀の切れ込み、覗いてる側からは見える。けど、中庭側からは、ほぼ見えない。ましてあの距離で、目が合うのはおかしい」
「認識操作の本体、だ。視線の方も、何か別の感知をしているのかもな」
ユミルが、矢筒の隣で頷いた。
「**……同じ、考えです。視覚以外の感知系統を、持っている可能性があります**」
リンは頷いた。だが、すぐには声を出さなかった。
空気が変わった。
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宿までは、まだ三本の路地を抜ける必要があった。最後の路地は、商人通りに出る手前の細い抜け道。トビーが先に角を曲がった瞬間、ニャルニルの声が走った。
「**……リン様、上、屋根、矢が来ます**」
リンは反射的に、下に身を沈めた。
矢が、リンが今まで頭のあった位置を切り裂いて、向かいの壁に突き刺さった。木と鉄の硬い音。
「ファーファ、トビーを」
「……ニャ」
ファーファが瞬時にトビーの前に出て、低い姿勢で身構えた。獣人姿、両腕で防御の体勢。
二本目の矢が、屋根の別の方角から飛んできた。
ユミルが間に合った。
「**……exec、redirect**」
光の薄い壁が、矢の軌道を斜めに逸らした。矢は壁にぶつかって落ちた。
「**……二人います**」
ニャルニルが続けた。
「**……東の屋根に一人、距離十五間。北の屋根に一人、距離二十間です**」
リンは弓を抜いた。
東の屋根の影に、人の輪郭が動いた。フードではない。普通の革鎧、外套。冒険者風の装い。
リンは矢をつがえた。声は出さなかった。一本目。
弓の手元の指を狙った。矢は屋根の縁に当たって、影が手を引いた。
「**……命中、しました。武装解除です**」
ユミルが言った。
「ファーファ、東、生け捕り」
「……ニャ」
ファーファが地を蹴った。獣人の脚力で塀に飛び乗り、塀から壁、壁から屋根へと、軽く三段で駆け上がった。月明かりの下、黒いフードの裾がひらりと翻る。
東の屋根の上、武装解除された影が腰の短剣に手を伸ばした。だが、ファーファの方が早かった。屋根を滑るように接近して、襟首を掴み、地面ごと押さえつけた。
「……動くな、ニャ」
短く、低い声だった。古竜の威圧が、一瞬だけ漏れた。影は身体を硬直させた。短剣はファーファの足元に転がった。
リンは北の屋根に矢を放った。二本目。距離二十間、月明かり薄い。だが、外套の動きは見えた。
矢は外套の袖を縫った。影は身を低くした。
「逃がすぞ」
リンは三本目を抜きながら、北の屋根の方に駆けた。だが、影は既に屋根伝いに、向こう側へ消えた。手練れだ。引き際を心得ている。
「**……北側、追えません**」
ユミルが冷静に言った。
「**……二人の発射、ほぼ同時でした。連携の訓練を、受けています**」
ニャルニルが続けた。
リンは弓を下ろして、息を整えた。屋根の上から、ファーファが影を引きずって戻ってくる。塀から地面へ、片手で軽く飛び降りた。掴んだ襟首を放さない。
トビーが角の影から出てきた。顔が青い。
「今のは」
「冒険者風、だな。革鎧、外套、弓二人組」
トビーは唾を飲んだ。それから、ファーファの足元の男に目を落とした。
「こいつ、見覚えがある」
「誰だ」
「冒険者ギルドの、特殊任務班の隊長級だ。普段は密輸の取り締まりとか、街の外の盗賊討伐に動かしてる。ティルスが直接指示を出せる、数少ない一隊だ」
「ティルスが今夜、動かしたか」
「表向きは別の任務名目で出してるはずだ。お前らを直接狙う名目じゃない」
「他国のスパイの摘発、とかか」
「あり得る。お前ら、海洋国家経由で来てるからな。冒険者ギルドの内部資料に、そう書かれてても、おかしくない」
「便利な口実だ」
「ティルス本人は、関与を否定できる構造だ。隊長級が独自判断で動いた、そう言える。けど、こいつを生かして連れ帰れるなら、話は別だ」
リンは矢筒に矢を戻した。
「ニャルニル、矢の出元、確証は」
「**……はい。発射のタイミングが、ほぼ一致していました。共同の狙撃です。間違いありません**」
「**……ティルスの指示が、強く疑われます**」
ユミルが続けた。
リンは頷いた。確証だ。揺さぶりは効いた。ティルスは動いた。次は、こちらが対応する番だ。
ファーファが、襟首を掴んだ影を、地面に押さえつけた。影は呻いて、もう動かない。ユミルの光の鎖が、宙に細く伸びて、影を縛った。
「**……拘束、完了です。意識はありますが、抵抗はもうしません**」
リンは影の顔を覗き込んだ。革鎧、外套、冒険者風。顔は知らない男だった。年は三十前後、傷の多い手。手練れの戦闘職、というのは、トビーの読みと一致する。
「お前、誰の指示だ」
男は答えなかった。
「冒険者ギルドの所属か」
男は目を逸らした。
「ファーファ、運ぶ」
「……ニャ」
トビーは深く息を吐いた。
「俺、こいつをギルド舎に連れて行くのは無理だ。お前らの宿に運べ。明日、商業ギルドのローズ様に引き渡そう」
「分かった」
「俺は、もう少し街で動く。北側に逃げた一人、追えるところまで追ってみる」
「無理はするな」
「分かってる」
トビーは路地の角に立って、リンを見た。
「リン」
「ん」
「お前、俺を、最初に庇おうとしたな」
リンは答えなかった。トビーは小さく笑って、首を振った。
「いいや、忘れてくれ。明日、また」
トビーは反対側の路地へ消えた。
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宿に戻って、リンは戸を閉めた。
ファーファが捕虜を部屋の隅に下ろした。男は両手両足を、ユミルの光の鎖で縛られている。意識はあるが、口は塞がれていた。
「**……尋問は、明日の方が良いと思います。今夜は休んだ方が、こちらの判断も鈍りません**」
ユミルが静かに言った。リンは頷いた。
「ローズに引き渡すまでの預かりだ。逃がすな」
「**……はい。鎖の強度、上げておきます**」
光の鎖が一段、太く締まった。男は呻いたが、それだけだった。
リンは弓を壁に立てかけて、卓の前に座った。矢筒を卓に置いて、矢を一本ずつ並べた。三本使った。二本は持ち帰った、命中したものは現場に置いてきた。証拠になる。明日、トビー経由で回収するか、放置するか。
ユミルが卓の隣に立った。
「**……リン様、状況を整理します**」
「ああ」
「**……ティルスと、フードの男の面会が確認できました。指示系統は、フードの男が上です。ティルスはその後、ギルド舎に戻り、そこから今夜の二人を派遣した、と思われます。一人は捕獲、一人は逃走、です**」
「動きが早い」
「**……はい**」
「**……フードの男の『次は、お前』ですが、本気度は、かなり高いと思います**」
リンは矢の鏃を撫でた。
「あの男は、俺たちが見てるのを、知ってて、こっちを見た」
「**……同じ、考えです**」
「あれは、宣戦布告、だな」
「**……はい**」
ファーファが寝台で、ジャーキーを齧った。
「**……主、明日、忙しいニャ?**」
「忙しくなる」
「**……ニャ**」
ファーファは目を閉じた。古竜の余裕だった。ティルスの暗殺者の話など、ジャーキー一本分の関心事にもなっていない。
リンは矢を束に戻した。窓の外、ヴァナールの夜は静かだった。だが、もう昨日までの静けさではない。
ティルスが動いた。フードの男が姿を見せた。冒険者ギルドの手練れが、矢を放った。
明日からは、別の段階だ。
リンは弓に手を伸ばして、弦を一度、軽く弾いた。低く乾いた音が、部屋に短く落ちた。
—了—




