015 ただいま、行ってきます。
夕方、エッジウッドに戻った。
村の門を抜けた瞬間、通り過ぎる村人たちがリントたちを見て、立ち止まった。
「あら、リント様」
「お帰りで?」
「早かったのねえ」
軽い挨拶の向こうに、ユミルを見る視線があった。
ユミルは会釈した。控えめに。
それでも村人のうち、何人かが一瞬、頭を下げそうになった。
「y」
「はい」
「頭、下げすぎるな」
「……はい」
「前も言った」
「はい、学習、しました」
「……じゃあ、なんで、今、下げたんだ」
「……癖、です」
「直せ」
「はい」
ユミルは少しだけ肩をすくめた。
リントは笑いそうになって、飲み込んだ。
※
家に着いた。
扉を開ける前に、母の声が中から聞こえた。
「あら、足音!」
扉が内側から勢いよく開いた。
「リント!」
「母さん」
「おかえりなさい! 早かったわね! お怪我は? ユミル様、お疲れでしょう!」
矢継ぎ早だった。
リントは一歩下がった。
「母さん、落ち着いて」
「落ち着いてます!」
「落ち着いてないよ」
ユミルが横で真面目な顔で頷いた。
「お母様、呼吸が、浅いです」
「え」
「深呼吸、なさってください」
「あら」
母は言われたとおり、深呼吸した。
一回、二回、三回。
「……落ち着きました」
「はい」
「ありがとう、ユミル様」
「いえ」
リントは天を仰いだ。
ユミルのこういうところは、たぶん母には通じる。自分が言っても絶対に通じない。
※
父は居間で書類を広げていた。
リントが入ると、顔を上げた。
「ただいま」
「……おかえり」
父が筆を置いた。
「書類は、届いたか」
「届いた。父さん、あっちでも、父さんの書類は『いつも完璧』って言われてたよ」
父は一拍、間を置いた。
それから少しだけ目を伏せた。
「……そうか」
「うん」
「ありがとう、行ってくれて」
「いや」
父はそれ以上、言わなかった。
ただ、もう一度、筆を手に取った。
手の動きが、さっきより、少しだけ、ぎこちなかった。
※
夕食の席。
兄のルークも裏庭から戻ってきていた。
兄はリントの顔を見て、短く頷いた。
「早かったな」
「うん」
「怪我は」
「してない」
「よかった」
それだけ言った。
でも兄の肩は、少しだけ、前より広くなっているような気がした。
食事はいつもの母の料理だった。
パン、煮込み、焼いた野菜、スープ。
ユミルはパンを三口目で微笑んだ。
母がその微笑みを見て、少しだけ嬉しそうだった。
※
食事が一段落した頃、リントは切り出した。
「父さん、母さん、兄さん」
三人が顔を上げた。
「話が、ある」
「……はい」
母が先に姿勢を正した。
「王都に、行くことになった」
母の箸が止まった。
父は箸を置いた。
兄は静かにスープの碗を置いた。
「ラウンドローズで、冒険者登録した。王都から来た先輩冒険者が、道中、一緒に行ってくれる。依頼も、ちゃんとしたやつがある」
「……」
「行ってくる」
誰もすぐには答えなかった。
ユミルがリントの隣で、黙って頭を下げた。
※
最初に口を開いたのは兄だった。
「いつ、出る」
「明日、もう一度、ラウンドローズに戻る。そこから、三人で、出発」
「三人?」
「ユミルと、先輩冒険者と、俺」
「……そうか」
兄は頷いた。
それから父を見た。
父はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「……気をつけて、行きなさい」
「はい」
「無理は、するな」
「はい」
父はそれだけ言った。
でもその「気をつけて、行きなさい」は、前より、少しだけ、長く聞こえた。
※
母はしばらく言葉を探していた。
探して、見つからなくて、代わりに箸を、ぎゅっと握っていた。
「……リント」
「はい」
「……ちゃんと、食べるのよ」
「うん」
「……寒くなったら、厚着するのよ」
「うん」
「……怪我したら、すぐ、治すのよ」
「うん」
「……」
母はそれ以上、続けられなかった。
代わりに袖で目元を押さえた。
「母さん、泣くなよ」
「泣いてません」
「泣いてるじゃん」
「泣いて、ません」
リントはもう、何も言えなかった。
ユミルが母の横に立った。
「お母様」
「はい」
「必ず、お連れします」
「……はい」
「お約束、します」
「……ユミル様」
「はい」
「ユミル様も、お怪我、しないでね」
「はい」
ユミルは深く頭を下げた。
母がユミルをそっと抱きしめた。
ユミルは抱きしめられるままになっていた。
百年、誰にも抱きしめられなかった、らしかった。
※
兄が裏庭で待っていた。
夕食の後、リントが出ると、兄は薪を割っていた。
リントは兄の横に立った。
「兄さん」
「ん」
「家は、頼む」
「分かってる」
「……」
「リント」
「はい」
「あんまり、気負うなよ」
「うん」
「……お前は、昔から、気負うから」
「……」
「楽しんで、来い」
兄は斧を止めずに言った。
「楽しむの?」
「楽しんで、来い。それで、いい」
リントは少しの間、黙っていた。
それから頷いた。
「……うん」
「おう」
兄はそれ以上、何も言わなかった。
薪をまた一本、割った。
音が裏庭に響いた。
※
その夜、リントはユミルと縁側に座った。
空は秋の終わりの、透明な夜空だった。
星がいつもより多く見えた。
「y」
「はい」
「兄貴が、楽しんで来い、って」
「……はい」
「こっちが、重くて、言えなかった」
「はい」
「お前、兄貴のこと、どう思う」
「……ルーク様、ですか」
「うん」
ユミルは少し考えた。
「……お強く、なられました」
「そうか」
「第一章の、あの時と、別人です」
「第一章?」
「……あ、すみません、癖で」
「何の癖だよ」
「……観察記録、の、癖です」
「……」
リントは深追いしなかった。
ユミルにはまだ、リントが知らない観察記録がある。
きっと、たぶん、ずっと、ある。
それがユミルの、百年だった。
※
翌朝。
玄関先で、また家族が見送った。
母はまた袖で目元を押さえていた。
父は静かに頷いた。
兄はリントの肩を、一度だけ叩いた。
「行ってこい」
「行ってきます」
「ユミル様」
「はい」
「弟、またお願いします」
「お任せください」
ユミルは深く頭を下げた。
二人は門へと歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、泣きそうだったから。
※
――第十四章、了。
――第二部、完結。




