158 矢職人の朝は早い
朝、トビーは起きた。
椅子の上で、リンの上着を被ったまま寝ていた。
目を開けて、しばらく天井を見ていた。
それから起き上がった。身体を伸ばした。
「**……あれ**」
声を出した。
「**……軽い**」
椅子から立ち上がった。
足がしっかりと床を踏んでいた。
部屋にはリンしかいなかった。
リンは机の脇で矢の手入れをしていた。
机の上に、矢が五本並んでいた。
そのうちの一本をリンは手に取っていた。
矢羽根の付け根を確かめる。糸が、ゆるんでいた。地下で撃った時に、衝撃でわずかに解けたらしい。
リンは細い糸を巻き直した。指先で糸を矢柄に引きながら、巻く。三周。最後に結び目を小さく作る。
それから矢羽根の形を整えた。指で羽根の先を軽く撫でて、毛並みを揃える。
最後に鏃を見た。刃先にわずかな欠けがあった。携帯用の小さな砥石を出して、刃先を撫でた。シャ、シャ、と軽い音がした。
それを五本、繰り返す。
「起きたか」
「ああ」
トビーはリンを見た。
「他の奴ら、どこだ」
「ユミルは買い出しだ。ファーファはついて行った」
「ああ」
トビーは頷いた。
椅子に座った。両手を机の上に置いた。
「リン」
「ああ」
「身体、こんな軽いの、五年ぶりだ」
「ああ」
「五年前は、闇にゅーる、知らなかった」
「ああ」
「あの頃に戻った感じだ」
リンは鏃を砥石で撫でながら頷いた。
「だな」
「**……ありがとう**」
トビーが頭を下げた。
「俺じゃねえよ」
「ユミル、だな」
「ああ」
「あいつ、すごいな」
「ああ」
リンは頷いた。
「あいつは、すごい」
「だが、お前らに出会わなかったら、俺、死んでた」
リンは砥石を止めた。
矢を机に置いた。
トビーを見た。
「死ぬか」
「ああ」
トビーは頷いた。
「五度目、止められなかったら、終わりだった」
「ふん」
リンはまた矢を手に取った。
別の一本だった。鏃の欠けが、深い。砥石を当て直した。シャ、シャ、と音が戻った。
「死ぬな」
「ああ」
トビーは頷いた。
しばらく沈黙が流れた。
それからトビーが口を開いた。
「リン」
「ああ」
「まだ、欲しい」
リンは砥石を止めなかった。シャ、シャ、と刃を撫で続けた。
「だろうな」
「身体は治ったけど、頭が欲しいと言ってる」
「ユミルが言ってた通りだ」
「ああ」
トビーは自分の手を見た。
「変な感じだ。身体は治ってる。だが、頭が、欲しがってる」
「ああ」
「これ、しばらく続くか」
「ああ、続く」
リンは砥石を置いた。
新しい矢羽根を、別の矢柄に巻きつけ始めた。糸を指に掛けて、引きながら巻く。
「だが、身体が求めてるんじゃない」
「**ああ……」**
「だから、戻れる」
トビーは頷いた。
「ああ」
「ジャーキーで繋げ」
「ああ」
「ジャーキーは、いくらでもある」
リンは矢を置いた。
立ち上がって、戸棚から紙の包みを出した。机の上に置いた。
開くと、ジャーキーが十本、束ねて入っていた。
「ファーファが買ってきた」
「ああ?」
「お前のためにだ」
トビーはジャーキーを見た。それから、リンを見た。
「**……あいつ**」
声が震えていた。
「あいつ、優しいな」
「ああ」
リンは笑った。
「だが、本人は、優しいって自覚はねえ」
「ああ」
トビーはジャーキーの束を手に取った。
胸のポケットにしまった。心臓に近い場所。
「十日分」
「ああ」
「十日、頑張れる」
「ああ」
「十日経ったら、また、もらいに来る」
「来い」
リンは頷いた。
トビーは目を伏せた。
それから、リンを見上げた。
「リン」
「ああ」
「俺、お前らの裏方として動く」
「ああ」
「ティルス様の動向、報告する」
「ああ」
「フードの男の動向、報告する」
「ああ」
「だが**……」**
トビーは言葉を切った。
「ティルス様、俺に命令する。リン一行を観察して報告しろ、と」
「ああ」
「俺はティルス様に、嘘の報告をする」
「ああ」
「真の情報は、お前らに流す」
「ああ」
「でも、それ、いつまで保つか分からない」
リンは頷いた。
「ばれたら、お前、終わりだ」
「ああ」
「ばれそうだったら、すぐ言え」
「ああ」
「逃がす」
トビーは目を閉じた。
「**……ありがとう**」
「礼はいい」
リンは机に戻った。
椅子に座って、また矢を手に取った。糸を指に掛けて、巻きつけた。
「お前、自分のためにも働いてる。俺は利用してるだけだ」
「ふん」
トビーは笑った。
「お前、本当、優しくねえ振りするな」
「優しくねえからな」
「嘘つきだな」
「ふん」
リンは糸の結び目を引き締めた。
トビーが立ち上がった。
「行く」
「ああ」
「夜、また来る」
「ああ」
「ギルド舎の裏路地、見てくる」
「無理すんな」
「ああ」
トビーはフードを被った。
裏口に向かう途中で、立ち止まった。
「リン」
「ああ」
「ユミル、信じていいのか」
リンは糸を引く手を止めた。
「ああ?」
「いや、俺、解析で頭の中、覗かれた感じがした」
「ああ」
「あいつ、何者だ」
リンは糸をまた引いた。三周巻いて、結び目を作る。
「俺の相棒だ」
「相棒**……**」
トビーは頷いた。
「ああ、それでいいか」
「いい」
「分かった」
トビーは笑った。
裏口から出ていった。
部屋にリン一人が残った。
新しい矢羽根を、また、別の矢柄に合わせる。糸を巻く。三周。結ぶ。
それを繰り返した。
しばらくして、扉がまた開いた。
ユミルとファーファが戻ってきた。
ファーファは人化したまま。両手に紙袋を抱えている。
「**……リン様、戻りました**」
「ああ」
「**……主、ジャーキー、買ってきた、ニャ**」
ファーファが紙袋を机に置いた。
中からジャーキーの束がいくつも出てきた。
リンは笑った。
「お前、買いすぎだろ」
「**……トビー、十日分、必要、ニャ**」
「ふん」
「**……あと、ファーファも、食べる、ニャ**」
「お前用かよ」
「**……両方、ニャ**」
リンは笑った。
ユミルが机の脇に立った。
「**……トビー様、起きました、か**」
「ああ、もう出かけた」
「**……ご気分、いかがでしたか**」
「軽い、らしい」
「だが、まだ、欲しい、らしい」
「**……予測、通り、です。時間、必要、です**」
「ああ」
リンは矢羽根の付け根を、指で撫でて、整えた。
しばらく沈黙が流れた。
ユミルが机の脇で立ったまま、何か考えていた。
「ユミル」
「**……はい**」
「お前」
「**……はい**」
「合格、好きか」
ユミルが目を上げた。
少し頬が赤くなった。
「**……はい**」
「ふん」
リンは笑った。
ファーファが机の上でジャーキーを噛んでいた。
「**……主、何の、話、ニャ?**」
「お前は、知らんでいい」
「**……ニャ**」
ファーファはジャーキーに戻った。
午前の光が、机の上をゆっくり流れていった。
-了-




