153 仄暗い井戸の底
朝、まだ暗いうちに、宿を出た。
バザールは、人気がなかった。露店の骨組みだけが、並んでいる。布も、商品も、まだ出ていない。
石畳の上を、四人が歩いた。リン、ユミル、ファーファ、ニャルニルは背に。クラケンは、ファーファの肩。
ファーファは、人化していた。十二歳の少年姿。黒いフード。腰の後ろから、黒い尻尾。背に、戦槌を担いでいる。
バザールの北西の角に、古い井戸があった。
地図には、その井戸の脇に印がついていた。
リンが、井戸を覗き込んだ。
底は、見えない。深い。
「**……入口、確認。井戸、稼働、しています。底に、水脈。脇に、横穴**」
ニャルニルが、背中で言った。
ユミルが、井戸の縁に手を置いた。
「**……exec.scan、対象、井戸、深度、最深**」
一拍、沈黙。
「**……深度、二十、五メートル。横穴、十八メートル地点**」
「敵は」
「**……複数、検出、しました**」
リンは、頷いた。
「想定通りだ」
ファーファが、井戸を覗き込んだ。
「**……ファーファ、降りる、ニャ?**」
「お前から、行け」
「**……ファーファ、了解、ニャ**」
ファーファは、戦槌を背から下ろした。鎚頭を、井戸の縁に、軽く置く。
「**……ニャルニル、お先、ニャ**」
「**……了解**」
ニャルニルが、自分から井戸の縁を越えて、落ちた。
落ちる音は、しなかった。
下から、ニャルニルの声が、上がってきた。
「**……着地、しました。横穴、安全。敵性、五十メートル先**」
ファーファが、戦槌を背に担ぎ直した。
それから、井戸の縁を蹴って、下に飛び降りた。
軽い音だけが、井戸の中を、上がってきた。
「**……ファーファ、着いた、ニャ**」
リンは、井戸の縁に、ロープを結んだ。
「ユミル、先に降りろ」
「**……はい**」
ユミルは、ロープを掴んで、慎重に降りていった。
リンは、最後だった。
ロープを掴んで、井戸の壁を、蹴り蹴り、降りた。
底は、湿っていた。水の匂いがした。
横に、穴があった。人が屈んで通れる、ぐらいの大きさ。
ファーファが、待っていた。
「**……主、こっち、ニャ**」
「ああ」
四人は、横穴に入った。
※
横穴は、最初の数歩は狭かった。
それから、急に広くなった。
天井が高い。石が積まれている。古い。ニャルニルの言う通り、千年以上前のものだった。
足音が、響いた。
リンが、立ち止まった。
「ユミル、ライト」
「**……はい**」
ユミルが、指先に小さな光を灯した。淡い、白っぽい光。広がりすぎない、必要最小限の明るさ。
光が、通路の先を照らした。
通路は、まっすぐ続いていた。両側の壁に、何かの紋様が彫られている。古代の文字、かもしれなかった。
通路の先で、足音がした。複数の。不揃いだった。
リンは、矢筒に手を伸ばした。
矢が、十二本。今回、補充してきた。
「**……四体、です。武装、剣、棒、ナイフ**」
ユミルが、低く言った。
「**……生体反応、人間。ですが、わずかに、揺れます**」
リンは、目を細めた。
——魔石強化、か。
通路の先に、影が見えた。
四人。背格好は、まちまち。猫獣人、犬獣人、鳥獣人、それから、人間。
服装は、揃っていなかった。だが、目だけが、揃っていた。
虚ろで、焦点が合っていなかった。
「**……闇にゅーる、中毒、です。加えて、別の、強化**」
ユミルが、続けた。
リンは、弓を構えた。
「**……exec.firewall、対象、通路、後方**」
ユミルが、四人の後ろに、光のカーテンを立てた。退路を、塞いだ。
それから、自分たちの正面に、光の板を立ち上げた。前にも一枚。
光のカーテンと光の板に、四人が挟まれた格好になった。
「**……exec.subdue、出力、低**」
ユミルが、もう一つ、詠唱した。
低い光が、四人の足元から立ち上がった。
光が、絡みつく前に、四人が動いた。
異常に速かった。光の鎖を、躱した。
「リン!」
ユミルが、声を上げた。
リンは、左手で矢筒から二本、抜いた。
弓に、二本同時につがえた。
引き絞った。
二本の矢羽根が、頬の横で、揃って震えた。
距離、二十歩。
指が、止まった。
息が、細くなった。
指が、離れた。
——空気を切り裂く音が、響いた。
二本の矢が、二つの放物線で、別々の標的に向かった。
一本目が、先頭の猫獣人の手首をかすめた。剣が、落ちた。
二本目が、二番目の犬獣人の棒の柄を弾いた。棒が、宙を飛んだ。
二人が、一拍、止まった。
「**……exec.subdue、再展開**」
ユミルが、即座に、再詠唱した。
低い光が、また立ち上がった。
止まった二人の足元に、光の鎖が絡みついた。手足を縛り、地面に引き倒した。
残りの二人——鳥獣人と、人間——が、なお走った。
ファーファが、戦槌を背から下ろした。
「**……ファーファ、行く、ニャ**」
「殺すな」
「**……了解、ニャ**」
ファーファは、戦槌を、低く構えた。
地面を蹴って、低く走った。
鳥獣人の前に、一瞬で着いた。
戦槌の柄を、横に振った。鎚頭ではなく、柄の側。鳥獣人の脚を、払った。
鳥獣人が、転んだ。
ファーファは、続けて、人間の前に回った。
人間が、ナイフを振りかぶった。
ファーファは、左手でナイフの手首を掴んだ。
軽く、捻った。
ナイフが、落ちた。
「**……exec.subdue、出力、中**」
ユミルが、追加で詠唱した。
光の鎖が、残りの二人の手足を縛った。
四人とも、地面に転がっていた。
通路に、静寂が戻った。
リンは、矢を二本、矢筒に戻した。残り十本。
転がった四人を、一人ずつ見た。
虚ろな目で、こちらを見上げている。心拍が、明らかに速い。発汗、瞳孔の拡大。闇にゅーるの中毒症状。
そして、それだけじゃない。
ユミルが、しゃがんだ。一人の背中に、手を当てた。
「**……皮膚下、固いもの、確認**」
「魔石、か」
「**……はい。肩甲骨の、奥**」
リンは、しゃがんで、一人の背中の服を、少し引き上げた。
肩甲骨のあたりに、小さな腫れがあった。皮膚の下。
押すと、固いものが、当たった。
「悪趣味だな」
「**……同意、します**」
ユミルが、低く言った。
「ここでは、取り出せねえな」
「**……はい**」
リンは、立ち上がった。
「縛って、ここに置いておけ。帰りに回収する」
ユミルが、四人の縛りを、強化した。光の鎖が、より細く、より硬く、巻き直された。
ファーファが、戦槌を背に担ぎ直した。
「**……主、奥、行く、ニャ?**」
「ああ」
「**……ファーファ、楽しみ、ニャ**」
「楽しみじゃねえって」
四人は、通路の奥に、進んだ。
※
通路は、奥で枝分かれしていた。
地図には、二本の道が書かれていた。
ニャルニルが、背中から、観測した。
「**……第三の、道、左手、奥。装置の、痕跡、強い**」
「やっぱりな」
リンは、頷いた。
——隠された道。
「そっちだな」
四人は、隠された道に、入った。
数歩進むと、また、敵性反応が、上がってきた。
今度は、違う種類の。足音が、揃っていた。
不揃いだった、さっきの中毒者たちとは、違う。
——訓練された、何か。
ユミルが、低く言った。
「**……眷属、可能性、高い、です**」
リンは、矢を一本、弦につがえた。
息を、細くした。
「行くか」
「**……はい**」
通路の奥で、何かが、動いた。
通路の先の闇から、影が、近づいてきた。




