151 密談
スカジー邸から戻った夜、リンは寝つけなかった。
ヘンリーの言葉が頭に残っていた。
魚の供給不足、闇にゅーる、ティルスの慎重さ。三つが繋がっている、はずだった。だが、ティルスの動機が見えない。
「**……主**」
ユミルが暗い廊下から、リンの部屋を覗いていた。
「お前、まだ、起きてんのか」
「**……整理、してました**」
「入れ」
ユミルは部屋に入って、机の前の椅子に座った。
「**……ティルス、特定、進みません**」
「だな」
「**……解析、ノイズ、確認。人間以外、可能性。ですが、確証、ありません**」
「ヘンリーから、聞いた話、どう思う」
「**……ティルス、貿易、阻害、傾向、確定的、です**」
「だな」
「**……ですが、なぜ、阻害、するか、不明**」
「分からねえか」
「**……はい**」
ユミルは机の上に紙を広げた。
街の地図にいくつか、印が打ってあった。
バザール。冒険者ギルド。領主館。スカジー邸。宿。
「**……ティルス、行動、確認したい、です。明日、観察、します**」
「俺、トビーと、約束ある」
「**……はい。トビー様、案内、続いています**」
「お前は、ティルスの方を、追え」
「**……はい**」
ユミルは紙を畳んで、立ち上がった。
「**……お休み、なさい**」
「ああ」
ユミルは部屋を出ていった。
リンはしばらく、天井を見ていた。
それから寝た。
※
翌日の朝、トビーが宿の前で待っていた。
ファーファが出てきて、トビーに頷いた。
「**……ニャ**」
「**……よお、ファーファ**」
トビーは笑っていた。
だが、目が少しだけ虚ろだった。
リンはそれに気づいた。
「お前、寝てねえのか」
「**……ああ?寝てるぜ**」
「目、変だぞ」
「**……気のせいだ**」
トビーは笑って、ファーファの肩を軽く叩いた。
「**……今日、商人街、案内するぜ**」
「**……ニャ**」
ファーファは頷いた。
リンはトビーを見ていた。
ユミルは宿の前で別行動を取った。「**……ティルス様、観察、行きます**」と短く告げて、冒険者ギルドの方へ消えていった。
クラケンはファーファの肩。今日もそうだった。
二人と一匹で、トビーについて行った。
※
商人街は賑やかだった。
トビーがいろんな店を案内してくれた。香料の店、布の店、武器の店、宝石の店。トビーは店主の名前をほとんど知っていた。店主たちと、軽口を叩いた。
ある店の前で、トビーが急に立ち止まった。
身体が震え始めた。
ファーファが振り向いた。
「**……お前、どうした、ニャ**」
「**……いや、なんでもない**」
トビーはぐっと、息を吸った。
身体の震えが止まらない。
トビーはポケットに手を入れた。
何かを握りしめた。
「**……ちょっと、待って**」
短く言った。
そのまま、路地の影に入っていった。
ファーファが後を追った。
リンも続いた。
路地の影で、トビーは両手で何かを握っていた。
小さな瓶。
中身は淡い、緑がかった液体だった。
トビーは瓶を開けて、一滴、舌に垂らした。
身体の震えがゆっくり止まった。
呼吸が整った。
それから、目が虚ろになった。一拍。
それから、戻った。
トビーは瓶をポケットにしまった。
「**……ふう**」
短く息を吐いた。
「**……すまん。ちょっと、調子、悪くて**」
ファーファはトビーの前に立っていた。
ジャーキーを口にくわえていた。
それを外した。
ファーファの瞳孔がわずかに開いた。
ジャーキーの匂いではない、別の匂いを嗅いだ。
「**……お前、これ、何、ニャ**」
低く聞いた。
トビーは目を伏せた。
「**……にゅーるだ**」
短く言った。
「**……闇にゅーるだ**」
「**……闇にゅーる**」
「**……これがあると、落ち着くんだ**」
ファーファが瓶に近づこうとした。
ファーファの瞳孔がもっと開いた。
身体がわずかに揺れた。
ファーファの肩でクラケンが、急に動いた。
触手を一本、伸ばした。
ファーファの顔に、水をぱしゃっとかけた。
「**……ぴゅ**」
ファーファが目を見開いた。
瞳孔がゆっくり戻った。
「**……ニャ?**」
ファーファが自分の顔を、手で拭った。
水が頬を伝って、落ちた。
「**……ぴゅ**」
クラケンがもう一度、触手でファーファの肩を軽く叩いた。
「**……主、クラケン、ファーファ、危ない、って、ニャ**」
ファーファが、クラケンの代わりに、リンに伝えた。
それから、自分のことを、口にした。
「**……良い匂い、した、ニャ**」
「だな」
「**……でも、効かない、ニャ**」
「だな」
「**……クラケン、助けた、ニャ**」
「だな」
リンはファーファの肩のクラケンを、軽く撫でた。
「お前、ありがとな」
「**……ぴゅ**」
クラケンが嬉しそうに、触手をくねらせた。
ファーファがトビーに向き直った。
「**……お前、これ、ヤバい、ニャ**」
低く言った。
トビーは目を伏せた。
それから、両手で自分の膝を、ぐっと握った。
「**……分かってる**」
絞り出すような声だった。
「**……俺、止めようと、してる**」
トビーは、ポケットの中の瓶に、もう一度手を入れた。
握って、出した。
リンに、差し出した。
「**……これ、預ける**」
「お前」
「**……自分で、持ってると、また、舐める**」
トビーは、手のひらの瓶を、震える指で、リンに押し付けた。
「**……分析、してくれ。何が、入ってるか**」
リンは瓶を受け取った。冷たい。
「**……お前、止めるのか**」
「**……止める。今度こそ**」
トビーが頷いた。
「**……これで、五度目だ**」
「五度目」
「**……何度も、止めようとした。だが、戻る**」
トビーが、口の端で、苦く笑った。
「**……今回、違う。お前らに、頼む。これが、最後だ**」
リンは瓶を、ベルトの袋にしまった。
「**……分かった**」
短く応じた。
ファーファはしばらく、トビーを見ていた。
それから、腰の袋からジャーキーを五本、取り出した。
トビーに押し付けた。
「**……これ、食え、ニャ**」
「**……お前**」
「**……五本、ニャ。今日、明日、明後日、明々後日、その次、ニャ**」
「**……マジか**」
「**……ニャ**」
ファーファは頷いた。
トビーはジャーキーを両手で受け取った。
しばらく、何も言わなかった。
「**……お前**」
トビーが声を絞った。
「**……お前、変な奴だな**」
「**……ニャ**」
「**……でも、ありがとな**」
「**……ニャ**」
ファーファはそれきり、何も言わなかった。
ジャーキーを口にくわえ直した。
トビーはジャーキーを、布で丁寧に包んだ。胸のポケットにしまった。腰ではない、心臓に近い場所だった。
それから、顔を上げた。
リンを、まっすぐ見た。
笑っていなかった。
「**……あのさ、リン**」
「ああ」
「**……俺、お前らに、嘘、ついてた**」
リンは黙って、続きを待った。
「**……俺、ただの、路地のやつ、じゃねえ**」
「だろうな」
リンが応じた。
「**……目つきが、ただの路地のやつじゃ、なかった。観察、しすぎだ**」
トビーが、目を見開いた。
「**……気付いてた、のか**」
「ああ」
「**……いつから**」
「最初からだ」
「**……マジかよ**」
トビーが、苦笑した。
それから、姿勢を、正した。
ハキハキした若者の声に、戻った。
「**……改めて、自己紹介する。冒険者ギルド、補佐、トビー・グレイ**」
「補佐」
「**……ティルス様の、補佐だ。ダウンタウン育ち、叩き上げで、ここまで、来た**」
「叩き上げか」
「**……ああ**」
「ティルスに、命じられて、俺らに近づいたな」
「**……その通りだ**」
トビーが、頭を下げた。
「**……お前らの、動向を、観察しろ、と。報告しろ、と**」
「報告したか」
「**……まだだ**」
「なんでだ」
トビーは、しばらく黙った。
それから、低く言った。
「**……ティルス様、怪しい**」
「お前、上司を、疑ってんのか」
「**……確証は、ねえ。だが、おかしい**」
「事件捜査、進まねえか」
「**……進まねえ。ティルス様が、絶妙に、捜査を、止める**」
「だな」
「**……俺、ティルス様の下で、五年だ。あの方の、優秀さ、知ってる。あの方が、本気で、捜査したら、もう、解決してる**」
「だが、解決してねえ」
「**……はい**」
トビーが、頷いた。
「**……俺、お前らを、探してた**」
「探してた」
「**……解決できる、本物の、手練れを。誰でもいい。ティルス様じゃ、ねえ、誰か**」
「俺らに、賭けるのか」
「**……ああ**」
「証拠は、ねえぞ」
「**……証拠は、これから、見つける**」
トビーが、立ち上がった。
「**……俺、お前らを、信じる。ティルス様には、命令通りに、報告するふりをする。だが、本当の情報は、お前らに、流す**」
「裏切り、だな」
「**……はい**」
トビーは、目を、伏せなかった。
「**……街、守りたい。それだけだ**」
リンは、しばらく、トビーを見ていた。
それから、頷いた。
「分かった」
短く応じた。
「お前を、信じる」
「**……ありがとう、ございます**」
トビーが、深く頭を下げた。
ハキハキした若者の、補佐の頭の下げ方だった。
それから、声を、低くした。
「**……それで、報告だ**」
「ああ」
「**……ティルス様と、フードの男が、密談してる**」
「フードの男」
「**……顔、見えねえ。深いフードだ。背、ティルス様より、ちょっと低い。男だ。声、低い**」
「いつ」
「**……何度か、見た。最近**」
「どこで」
「**……ギルド舎の、裏路地。夜中、だ**」
「お前、なんで、知ってる」
「**……補佐、だからな。ティルス様の動向、追える立場だ**」
トビーが、苦く笑った。
「**……ただ、密談の内容は、聞き取れねえ。声、小さい**」
「分かった」
「**……お前ら、それ、知ってて、動いてくれ**」
「ああ」
リンは頷いた。
「お前、ありがとな。重要な情報だ」
「**……マジか**」
「マジだ」
トビーは目を見開いた。
それから、笑った。
ハキハキした若者の、笑顔だった。
「**……お前ら、ヤバいな。本物の、手練れだ**」
「だな」
リンは応じた。
ファーファがリンの裾を引いた。
「**……主、これ、共有、ニャ**」
「だな」
「**……早く、ユミルに、伝える、ニャ**」
「ああ」
ファーファはトビーに頷いた。
「**……お前、しばらく、闇にゅーる、控える、ニャ**」
「**……控える**」
「**……ジャーキー、五本、ある、ニャ**」
「**……それで、頑張る**」
「**……ニャ**」
ファーファは頷いた。
トビーが苦笑した。
「**……お前、馬鹿だな**」
「**……ニャ**」
「**……でも、頼りにしてる**」
トビーはジャーキーを胸に押し当てたまま、ファーファの肩を軽く叩いた。
それから、踵を返して、路地の奥に消えていった。
ハキハキした足取りに、戻っていた。
※
トビーが消えた後、ファーファが、リンの裾を引いた。
「**……主**」
「ああ」
「**……瓶**」
「ああ?」
「**……ファーファ、試す、ニャ**」
「お前」
リンが、半分笑った。
「お前、何、言ってんだ」
「**……敵、知る、ニャ**」
「敵を、知る」
「**……効くか、効かないか、知る、ニャ**」
ファーファは、当然のように頷いた。
ファーファの肩で、クラケンが触手を伸ばした。
阻止しようとした。
だが、ファーファの方が、早かった。
リンのベルトの袋から、勝手に瓶を取り出した。
蓋を開けた。
舌に、一滴、垂らした。
「**……ぴゅ?**」
クラケンが、慌てた。触手を、ファーファの口に伸ばした。
ファーファが、口を閉じた。噛み締めた。
しばらく、味わっていた。
ユミルが、いつの間にか、横に来ていた。
「**……ファーファ様、解析、します**」
ユミルが、ファーファを見た。
しばらく、観察した。
「**……影響、無し、観測**」
無表情で言った。
「**……耐性、極めて、高い**」
ファーファが、目を開けた。
頷いた。
「**……にゅーる、うまい、ニャ**」
短く言った。
「**……でも**」
ファーファは、口の中の余韻を、味わった。
それから、結論を出した。
「**……ジャーキー、勝つ、ニャ**」
リンは、しばらく、ファーファを見ていた。
それから、口を開いた。
「お前」
「**……ニャ?**」
「お前、それ、ジャーキー中毒、じゃねえか」
「**……ニャ?**」
ファーファは、首を傾げた。
「**……中毒?**」
「ああ」
「**……ファーファ、毎日、ジャーキー、食ってるだけ、ニャ**」
「それを、中毒、って言うんだ」
「**……ニャ?**」
ファーファは、本当に、首を傾げていた。
ユミルが、横で頷いた。
「**……ファーファ様、ジャーキー、毎日、摂取、確認**」
「だな」
「**……止めると、機嫌、悪化、推測**」
「だな」
「**……依存、傾向、有り**」
「だな」
ファーファが、ユミルを見上げた。
「**……ユミル、お前、敵、ニャ?**」
「**……はい**」
ユミルは、無表情で頷いた。
「**……事実、報告、です**」
ファーファは、ジャーキーを、口にくわえ直した。守るように。
「**……ファーファ、止めない、ニャ**」
「だな」
リンは、肩をすくめた。
クラケンが、ファーファの肩で、触手をくねらせた。
「**……ぴゅ**」
「**……主、クラケン、ファーファ、ジャーキー、好きすぎ、って、ニャ**」
「だな」
リンは、瓶を、ベルトの袋に、しまい直した。
ファーファのおかげで、一つ、分かった。
ファーファには、効かない。
これは、戦力上、重要な情報だった。
※
リンは、宿の方角に、向き直った。
ユミルとファーファとクラケンが、後を、歩いた。
ティルスと、フードの男。
「フードの男、誰だ」
リンがぽつり、と呟いた。
ファーファは首を傾げた。
「**……主、誰だろう、ニャ**」
「分からねえ」
「**……ニャ**」
「だが、調べる」
「**……ニャ**」
リンは足を速めた。
ファーファが、ジャーキーを口にくわえたまま、後をついてきた。
中毒の若者から預かった瓶が、ベルトの袋で、わずかに揺れていた。
【了】




