143 獣人ファーファ
馬車が止まったのは、出発から三日目の昼だった。
道が、急に細くなった。
両側から岩が迫り、馬車の幅ぎりぎりになる場所があった。さらに先には、岩の段差があった。人なら越えられる。馬車は、無理だ。
御者が降りて、来た。
「これより先は、徒歩でお願いいたします」
「分かった」
リンも降りた。
地面は石だらけだった。歩くと、靴の底が滑る。空気が、薄い気がした。標高が上がっている。
「**……酸素濃度、低下**」
ニャルニルが、ファーファの背の上で言った。
「**……影響、軽微。ただし、長時間歩行、消耗、注意**」
「分かった」
リンは荷物を降ろし始めた。
四人分の荷物。寝袋、食料、水袋、剣、弓、矢筒。それだけだ。桶は、対岸の港の宿に置いてきた。クラケンは、自分で水を出せる。陸路に、桶は要らない。
クラケンは、ファーファの肩に居た。馬車の中でも、ずっとそうだった。八本の触手で、ファーファの首と肩に絡みついている。
ファーファが、ニャルニルを地面に降ろした。クラケンに、声をかけた。
「**……クラケン、肩、降りる、ニャ?**」
「**……ぴゅ**」
「**……主、クラケン、肩、続ける、って、ニャ**」
「そうか」
リンは、クラケンの触手を、軽く撫でた。クラケンが触手を一本伸ばして、リンの指に絡めた。
「お前、乾燥、辛くなったら、言え」
「**……ぴゅ**」
「水、出せるんだろ」
「**……ぴゅ**」
「自分で、水袋から、被ればいいぞ」
「**……ぴゅ**」
クラケンは、了解、というように、触手をくねらせた。
ファーファが横で見ていた。何か考えている顔だった。
「**……主**」
「なんだ」
「**……ニャルとクラケン、重い、ニャ**」
「お前が運んでるだろ」
「**……主、ニャ**」
「ああ?」
「**……人化、する、ニャ**」
リンは、ファーファを見た。
「人化」
「**……ニャ**」
「お前、人になれるのか」
「**……ニャ**」
ファーファは、当然のように頷いた。
リンはユミルを見た。
「お前、知ってたか」
「**……ファーファ様、獣人姿、可能、です**」
「お前、なんで言わなかった」
「**……必要、ありませんでした、まで**」
ユミルは平然と言った。
「**……港町、街中、人多い、です。獣人姿、目立ちます。猫姿、無難、でした**」
「だが、ヴァナールは獣人の国だな」
「**……はい**」
「お前、街では、獣人姿の方がいいって、考えてたのか」
「**……はい**」
「言えよ」
「**……はい**」
ユミルは、また頷いた。反省したのかどうか、分からない。
ファーファが、ニャルニルを地面に降ろした。自分の肩のクラケンを、両手で受け取って、ニャルニルの近くに置いた。
「**……いま、する、ニャ**」
ファーファは目を閉じた。
光が、ファーファの周りに広がった。淡い、青っぽい光だった。光が黒猫の輪郭を包んで、形を変え始めた。猫の身体が、ゆっくり伸びて、立ち上がった。
光が消えた。
そこに、少年が立っていた。
十二歳くらい。
背は、リンの胸ぐらい。
精悍な顔立ち。浅黒い肌。短い、無造作な黒髪。髪の艶は、毛皮のときの艶を残している。
黒いフードを被っている。フードの下から、猫耳が二つ、覗いている。腰の後ろから、黒い尻尾が一本、出ている。
目は、鋭い。猫の目だった。
口の端には、ジャーキーをくわえていた。
「**……どう、ニャ**」
少年姿のファーファが、リンを見た。
声は、思ったより低い。だが、口調は、ファーファのままだった。
リンは、しばらく言葉が出なかった。
「お前」
「**……ニャ**」
「お前、こんな顔、してたのか」
「**……ニャ**」
「服も、出るのか」
ファーファは、自分の服を見た。黒い、簡素な服だった。
「**……毛皮、変える、服も、出る、ニャ。よく、分からない、ニャ**」
「分かんねえのかよ」
「**……ニャ**」
ファーファは、しゃがんで、ニャルニルを抱えた。両手で持ち上げて、肩に担いだ。
楽そうに、担いだ。
「**……ニャル、軽い、ニャ**」
「人型なら、楽か」
「**……ニャ**」
ファーファは、地面のクラケンを見下ろした。
「**……クラケン、肩、乗る、ニャ**」
「**……ぴゅ**」
クラケンは、ファーファの脚を伝って、ゆっくり登っていった。八本の触手を使って、ファーファの胸まで来て、左肩にしがみついた。触手のいくつかは、ファーファの首の後ろを通って、ニャルニルの柄に絡みついた。
ニャルニルの柄から肩まで、触手の橋ができた。
「**……ぴゅ**」
「**……クラケン、固定、了解、ニャ**」
ファーファが立ち上がった。
ニャルニルを背、クラケンを肩。
ジャーキーを口にくわえたまま。
「**……主、これで、行く、ニャ**」
少年姿のファーファが、リンを見上げた。
リンは、しばらく言葉が出なかった。
それから、ユミルを見た。
「お前、これ、知ってて、黙ってたんだな」
「**……はい**」
「ずるいぞ」
「**……はい**」
ユミルは頷いた。
「**……ですが、見せ場、です**」
「ああ?」
「**……ファーファ様の、見せ場、です**」
ユミルが、初めて、薄く笑った気がした。
ファーファは、リンを見上げたまま、ジャーキーを齧った。
「**……主、行く、ニャ**」
「行くぞ」
リンは荷物を背負った。
ユミルが、自分の小さな荷物を持った。
御者が、馬車から距離を取って、何度かまばたきをしていた。
「**……御者の方、驚かせました**」
ユミルが御者に頭を下げた。
「**……従者の、能力、です**」
御者は、口を半開きにしていた。それから、何度か頷いた。
「**……ええ。承知、いたしました**」
声が、震えていた。
「お前、ここで待っててくれ」
リンが御者に言った。
「ヴァナールの帰り、ここで合流する。それまで、街道沿いの村で、待ってもらえるか」
「**……はい。承知、いたしました**」
御者は、何度も頷いた。
リンたちは、岩の段差を越えていった。
クラケンを肩に乗せた、少年姿のファーファ。ジャーキーをくわえたまま、ニャルニルを背負って、軽い足取りで先頭を歩く。
その後ろを、ユミルとリンが続いた。
道は、まだ、登っていた。
【了】




