142 久々の陸地
運河の奥の港に着いたのは、出航から十二日目だった。
港、と呼ぶには、小さい場所だった。
桟橋が三つ。倉庫が二つ。宿が一軒。それで全部だった。両岸に山が迫り、空が狭い。船を降りると、風が変わった。海の風ではなく、山の風だった。
「**……到着、しました**」
サイラスが言った。
「ここから先は、陸路です」
リンは桟橋に降りた。地面を踏むのが、十二日ぶりだった。少し、ふらついた。
「お前、陸、慣れてんな」
横で、ファーファが軽やかに桟橋を歩いていた。猫姿のファーファは、船酔いをしない。ニャルニルを背負ったまま、桟橋の端まで走って、戻ってきた。
「**……主、地面、固い、ニャ**」
「だな」
「**……海、揺れる、ニャ。地面、揺れない、ニャ**」
「分かってるよ」
リンは舷側を背にして、屈伸した。
クラケンの桶を、船員が降ろしてくれた。桶の中で、クラケンが触手を一本立てている。
「**……ぴゅ?**」
「**……主、クラケン、久しぶりの、陸、警戒、してる、って、ニャ**」
「だな。船、長かったもんな」
「**……ぴゅ**」
クラケンは、桶の縁から触手を出して、桟橋を撫でた。木の感触を、確かめている。
ユミルが、桶を抱え上げようとして、サイラスが先に手を出した。
「私が、お運びいたします」
「**……ありがとう、ございます**」
ユミルが軽く頭を下げた。
「**……サイラス様、ここまで、お世話になりました**」
「いえ。これからも、必要があれば」
サイラスは桶を運んで、宿の前まで持っていった。
宿の前で、馬車が一台、待っていた。
馬車の御者は、四十くらいの男だった。日に焼けた顔。短く刈った髪。細い目。
「お待ちしておりました」
御者が頭を下げた。
「サイラス様の手配、確かに承っております」
「**……ご手配、ありがとうございます**」
サイラスが応じた。
「リン様、こちらが陸路の御者です。山道に慣れた方です。ヴァナールの近くまで、お送りいたします」
「よろしく頼む」
リンが言うと、御者はもう一度頭を下げた。
「リン様の御一行、確かに承りました」
「**……同行者、確認**」
ユミルが横で言った。
「**……御者様、お一人、ですか**」
「ええ」
「**……護衛、無し、ですか**」
「途中の村まで、護衛は、不要です。山賊は出ませんので」
「**……了解**」
ユミルは頷いた。納得したわけではない、と分かる頷き方だった。
リンには分かった。彼女は、ただ事実を確認しただけだった。判断は、後でする。
※
サイラスは、宿の前で立ち止まった。
「**……ここまでです**」
リンを見た。
「私は、軍船で本国へ戻ります。報告、それから、別件の任務がございます」
「そうか」
「リン様、ヴァナールでのご活躍、本国は注視しております」
「注視、か」
「ですが、リン様のやり方を、変えていただく必要は、ございません」
「だな」
リンは少し笑った。
「お前、一緒に来てくれて、助かった」
「**……いえ**」
「漁師の話、人攫いの話、依頼書、海賊。お前が居なかったら、面倒だった」
「**……職務、です**」
「だが、礼を言う」
リンは右手を出した。
サイラスは、少し驚いた顔をした。
それから、リンの手を握った。
短い握手だった。
「**……またお会いしましょう**」
サイラスが言った。
「ああ」
「リン様」
「なんだ」
「**……ヴァナール、信義の国、です。お気をつけて**」
「気をつける」
「お送りいたしました」
サイラスは、軽く頭を下げて、桟橋の方へ戻っていった。
軍船の方へ。
途中で、一度だけ振り返った。
リンも、そっちを見ていた。
サイラスは、もう一度頭を下げた。リンは右手を上げた。
それで終わりだった。
※
馬車は、午後に出発した。
四人と、三所帯。それに、御者。
馬車の中は狭い。リンとユミルが向かい合って座り、ファーファはニャルニルを背負ったまま、リンの足元で丸くなった。クラケンの桶は、座席の間に置いた。揺れないように、紐で縛った。
馬が歩き出すと、馬車が揺れた。
道は石畳ではない。土の道だった。轍がついていて、馬車が通るたびに、軋む。
「**……揺れます**」
ユミルが、両手で座席の縁を握った。
「だな」
「**……船、揺れない、です**」
「船は揺れただろ」
「**……船、規則的、です。馬車、不規則、です**」
「だな」
ユミルは、馬車の揺れに合わせて、身体が前後している。リンの方に倒れそうになって、反対側に戻る。それを繰り返している。
「**……不快、です**」
「お前、酔うのか」
「**……酔いません。ですが、不快、です**」
「酔うなら、言え」
「**……はい**」
ユミルは小さく頷いた。
しばらくして、ユミルがぽつりと言った。
「**……仲間、少なくなりました**」
リンは、ユミルを見た。
「だな」
「**……港町、エルナ様、トーマス様、ボブ様。残られました**」
「ああ」
「**……サイラス様、本国、戻られました**」
「ああ」
「**……今、四人、です**」
「四人だな」
「**……寂しい、ですか**」
「お前は、寂しいか」
「**……分かりません。ですが、人数、減ったのは、事実です**」
ユミルは、馬車の小さな窓から外を見た。山道の景色が、ゆっくり流れていく。
リンは少し考えた。
「また合流する」
「**……はい**」
「ヴァナール片付けたら、また港町に戻る。そこから次だ」
「**……はい**」
「お前、また、エルナの宿で、エビ、剥いて、食う」
「**……はい**」
ユミルは、それで頷いた。少しだけ、表情が緩んだ気がした。
馬車の足元で、ファーファが寝息を立てていた。
桶の中で、クラケンが揺れに合わせて、触手をくねらせている。
ニャルニルは、ファーファの背に固定されたまま、何も言わない。
馬車は、山の中へ入っていった。
【了】




