141 ウォーターサーバー
運河に入ったのは、出航から五日目の朝だった。
両岸が、急に近くなった。
海から運河に入る境目で、水の色が変わった。青から、緑がかった色に。塩の匂いが薄くなり、代わりに、川の匂いがする。土と、苔と、植物の匂い。
「**……境界、観測**」
ニャルニルが言った。
「**……塩分、減少。淡水、移行**」
リンは舷側から手を伸ばして、水に触れた。
冷たい。海より、冷たい。
「サイラス、これが運河か」
「はい」
サイラスが横に来た。
「ここから二週間、運河を進みます。両岸はずっと山が続きます」
「山か」
「ヴァナールの方々は、山岳の民です。この運河の先で、文化が変わります」
「文化」
「礼儀を、重んじます。挨拶、贈り物、序列。海洋国家の方々とは、感覚が違います」
「俺、礼儀、駄目だぞ」
「存じております」
サイラスが、また薄く笑った。
「リン様の立場は、ヴェルナリス連合の正式な依頼を受けた、外部協力者として通します。礼儀の細部は、私が補佐します」
「助かる」
「ですが、領主との初対面では、軽く頭を下げる程度は、お願いいたします」
「軽くな」
「軽くで、結構です」
リンは肩をすくめた。
岸の方で、何かが鳴いた。鳥の声だった。海の鳥とは違う、長く伸びる声。
ファーファが、ニャルニルの上で耳を立てた。
「**……主、鳥、変な声、ニャ**」
「だな」
「**……海の鳥、じゃ、ない、ニャ**」
「川の鳥だろ」
「**……川の、鳥**」
ファーファは、その単語を覚えるように、繰り返した。
※
昼、船員が水を配って回った。
桶ではなく、革袋に入った水だった。
「**……淡水、補給可能、です**」
サイラスが言った。
「ですが、節約はお願いいたします。陸路に入ると、水場が限られます」
「水場、限られる、か」
リンは革袋を受け取って、口に含んだ。
ぬるい。
「ヴァナールへの陸路、どんな感じだ」
「険しい山道です。途中、村は二つ。井戸はありますが、水量は少ない」
「夏か」
「夏の終わりです。雨は、もう降りません」
「水袋、足りるか」
「ぎりぎりです」
サイラスは航海図とは別の、地図を出した。陸路の地図だった。山道に、村が二つ書き込まれている。線が、細い。
リンは地図を覗き込んだ。
「**……リン様**」
ユミルが横に来た。地図を一緒に見て、しばらく黙った。
「**……陸路、水場、限定的、です**」
「だな」
「**……水袋、容量、計算します**」
「頼む」
ユミルは指を折った。
「**……四人。一日、一人、二リットル。十日。八十リットル**」
「八十か」
「**……水袋、現有、四十リットル分**」
「半分か」
「**……井戸で補給、可能。ですが、二つの村、各、十リットル想定**」
「足りねえな」
「**……足りません**」
ユミルが、無表情で言った。困っているわけでも、急いでいるわけでもない。ただ事実を言っているだけだった。
リンは腕を組んだ。
「**……ぴゅ**」
桶の方から、声がした。
クラケンが、桶の縁から触手を出していた。
「**……主、クラケン、何か、言ってる、ニャ**」
ファーファが寄ってきて、桶を覗き込んだ。
「**……ぴゅ**」
「**……ぴゅぴゅ**」
「**……ぴゅ?**」
「**……ぴゅ**」
ファーファとクラケンが、ぴゅで会話している。リンには分からない。
しばらくして、ファーファが顔を上げた。
「**……主、クラケン、水、出せる、ニャ**」
「水」
「**……自分の、触手から、出せる、ニャ**」
「出せるのか」
「**……ニャ**」
ファーファが頷いた。
ユミルが、桶の縁にしゃがんで、クラケンを覗き込んだ。
「**……クラケン様、水の生成、可能、ですか**」
「**……ぴゅ**」
「**……精製水、ですか。それとも、外部水、保持、ですか**」
「**……ぴゅぴゅ**」
「**……了解。精製水、生成。少量、清浄**」
ユミルは立ち上がった。
「**……リン様**」
「ああ」
「**……クラケン、水、出せます**」
「出せるのか」
「**……はい。精製水、です。汚染、無し、確認**」
「飲めるのか」
「**……飲めます**」
リンは桶を覗き込んだ。
「クラケン、ちょっと、水、出してみてくれるか」
「**……ぴゅ**」
クラケンが、触手の先を桶の縁に這わせた。触手の先端から、ゆっくりと、水が滴り始めた。
透明な、綺麗な水だった。
リンは指を伸ばして、滴を受けた。指で擦って、匂いを嗅いだ。
「匂い、無いな」
「**……飲んで、みますか**」
「飲む」
リンは指の水を、舐めた。
冷たい。
ぬるくない。
「うまい」
リンは、思わず言った。
「**……ぴゅ**」
クラケンが、嬉しそうに触手をくねらせた。
「お前、水魔法、そういうのもアリか」
リンは桶の中を見た。
「**……ぴゅ**」
「水袋、満たせるか」
「**……ぴゅ**」
「ファーファ、訳せ」
「**……主、いっぱい、できる、ニャ**」
「全員分、満たせるか」
「**……主、できる、ニャ**」
「すげえな、お前」
リンはクラケンの触手を、軽く撫でた。
クラケンが、触手をリンの指に巻きつけた。
「**……ぴゅ**」
嬉しいときの「ぴゅ」だった。
※
夕方、サイラスを呼んで、報告した。
「クラケン、水、出せる」
「水を、出す」
サイラスが、聞き返した。
「ああ」
「クラケン様が、水を、生成、するのですか」
「ああ」
リンは桶の前に行って、クラケンに頼んだ。クラケンは、触手から水を出して見せた。
サイラスは、しばらく黙って見ていた。
「**……これは、陸路の水問題が、解決します**」
「だな」
「リン様、僭越ながら、これは大変な能力です。海洋国家でも、報告例はございません」
「そうか」
「**……陸路、十分な水、確保、可能、です**」
ユミルが横で頷いた。
「**……ですが、クラケン様の負担、考慮、必要、です**」
「そうだな」
リンはクラケンを見た。
「お前、水、いっぱい、出すと、疲れるか」
「**……ぴゅ**」
「ファーファ」
「**……主、クラケン、ちょっと、疲れる、って、ニャ**」
「だな。じゃあ、必要な分だけ、頼む」
「**……ぴゅ**」
クラケンは、触手をぐにゃりと動かした。了解、の動きだった。
ファーファが、桶の縁に手をついて、クラケンを見下ろした。
「**……クラケン、すごい、ニャ**」
「**……ぴゅ**」
「**……主、クラケン、家電、なれる、ニャ**」
「お前」
リンが言った。
「お前、それ、また家電か」
「**……水、出す家電、ニャ**」
「**……家電、評価、対象、拡大しています**」
ニャルニルが、低く言った。
「**……戦槌、家電。クラケン、家電。傾向、観測**」
「**……ニャル、家電、ニャ**」
ファーファが、ニャルニルにも頷いた。
「**……了解、しません**」
ニャルニルが、即答した。
サイラスは、横で黙って聞いていた。
それから、小さく咳払いをした。
「**……ヴァナール到着まで、まだ、九日です**」
話を戻した。
リンは頷いた。
「だな。寝るぞ」
「**……はい**」
ユミルが、桶の縁を一度撫でた。クラケンが触手を伸ばして、ユミルの指に絡めた。
「**……お休み、なさい**」
「**……ぴゅ**」
ユミルとクラケンの、夜の挨拶だった。
【了】




