140 運河へ
軍船の甲板は、思ったより広かった。
港町ヴェルファの漁船とは、造りが違う。船体が深く、舷側が高く、帆が二本立っている。漁ではなく、人と荷を運ぶための船だ。サイラスが手配した、ヴェルナリス連合の正規船。
リンは舷側に肘をついて、後ろを見ていた。
港が、遠ざかっていく。
桟橋に立つ三つの影が、まだ見えた。エルナ、トーマス、ボブ。手は振っていない。ただ、立っている。
リンは手を上げかけて、やめた。
「お前、また会う、んだろ」
自分に言い聞かせるみたいに、呟いた。
「ええ」
横で、サイラスの声が返ってきた。
「運河は、二週間。対岸の港まで」
サイラスは航海図を持っていた。広げて、リンに見せる。海岸線が南へ伸びて、内陸へ切れ込み、長い水路になっている。
「ここから運河に入ります。両岸に山が迫り、淡水になります」
「淡水」
「飲み水に困りません。ですが、潮の感覚はなくなります」
「漁師には変な感じだな」
「その通りです」
サイラスが薄く笑った。
リンは航海図を覗き込んだ。運河の終わり、対岸の港。そこから陸路。山を越えて、ヴァナール。
遠い。
「サイラス、お前、ヴァナールに行ったことは」
「ございません。本国の同僚が、いますが」
「そうか」
「ですが、案内人は手配しております。対岸の港で合流予定です」
「助かる」
リンは航海図を畳んで返した。
甲板の真ん中、荷の積まれた一角。クラケンの桶が、しっかり固定されていた。桶の中で、クラケンが触手を一本だけ水面から出している。
その横に、ニャルニルが立てかけられていた。戦槌は、転ばないように木枠に固定されている。ニャルニルの頭部の上で、ファーファが座っている。
「**……主、海、見える、ニャ**」
ファーファが言った。
「だな」
「**……港、遠い、ニャ**」
「だな」
ファーファは、ジャーキーを齧りながら、舷側の向こうを見ていた。猫の目は、遠くまで見える。リンには見えなくなった港が、まだ見えているのかもしれない。
桶の中から、触手がもう一本出てきた。
「**……ぴゅ**」
クラケンが顔を出した。
「**……主、クラケン、海、嬉しい、って、ニャ**」
ファーファが通訳した。
「そうか。お前、ここで生まれたもんな」
「**……ぴゅ**」
クラケンは、桶の縁から触手を伸ばして、海を指している。生まれた海を、覚えているのかもしれない。
リンは、桶の縁を軽く叩いてやった。
「乗ったまま、行くぞ」
「**……ぴゅ**」
クラケンは、また桶の中に潜った。
※
夕方、船室で荷を解いていた。
リンの私物は少ない。剣、弓、矢筒、着替え、寝袋。それだけのつもりだった。
寝袋の下から、何か硬いものが出てきた。
布で巻かれた、小さな瓶。
リンは布をほどいた。
ガラスの瓶。中身は、琥珀色の液体。蝋で封がしてある。封の上に、字が一文字、書きつけてあった。
「ル」
ルナの蒸留酒。エルナの宿の、奥の棚にあったやつ。
リンは瓶を持ち上げて、夕日に透かした。
液体が、ゆっくり揺れた。
「お前」
声が出た。
「お前、こんなの、入れやがって」
封のところに、もう一つ、字があった。
「飲むなら、戻ってからにしろ」
エルナの字だった。
リンは瓶を、寝袋の上に置いた。
しばらく、黙って見ていた。
「**……主**」
入り口で、ユミルの声がした。
リンは振り向いた。
「お前、どうした」
「**……荷物、整理、終わりました。リン様の様子、見に来ました**」
ユミルは、入り口に立ったまま、瓶を見ている。
「エルナだ」
「**……エルナ様、です、か**」
「ああ」
「**……手紙、ですか**」
「いや、酒だ」
「**……お酒**」
ユミルは、静かに頷いた。
「**……戻ってから、飲む、ものですね**」
「だな」
リンは、瓶を布で包み直して、寝袋の奥にしまった。元の場所に戻すように。
「**……主、リン様**」
「なんだ」
「**……手紙、書きますか**」
「手紙」
「**……港町の、皆様、宛て**」
リンは少し考えた。
「書いたら、届くのか」
「**……運河の港から、商船で、戻せます。サイラス様に、お願いできます**」
「そうか」
「**……書きますか**」
「書く」
リンは、机の前に座った。
ユミルが紙とペンを持ってきた。インクの瓶も。
リンはペンを持って、紙に向かった。
書き出しが、出てこない。
「**……お元気で、から、書く方が、多い、です**」
ユミルが横から言った。
「お前、文通、したことあるのか」
「**……ありません。観察、です**」
「なんだそれ」
「**……昔、読んだことが、あります**」
リンは、ペンを止めた。
ユミルを見た。
ユミルは、何も付け加えなかった。
「そうか」
短く応じた。
それ以上は、聞かなかった。
「分かった。お元気で、から始める」
ペンを動かした。
『お元気で、いますか。
港を出て、半日。海の色が、変わっていきます。
トーマス、雷の練習、続けてください。
エルナ、酒、見つけました。戻るまで、置いておきます。
ボブ、組合の方々、よろしく伝えてください。
リン』
短い。
「**……これで、いいですか**」
「いい」
「**……短いです**」
「だな」
「**……でも、お元気で、から始まっています**」
ユミルが、薄く頷いた。なぜか、満足そうだった。
リンは紙を畳んで、封筒に入れた。
「**……エルナ様、宛、もう一通、書きますか**」
「書かねえ」
「**……どうして、ですか**」
「酒のことを書いたら、向こうが書き返したくなる」
「**……はい**」
「文通は、しねえ」
「**……どうして、ですか**」
「俺、字、下手だ」
「**……はい**」
ユミルが、また頷いた。今度は、真面目に。
※
夜、甲板に出た。
風が冷たくなっていた。海の色が、夜の色になっていた。空には、月。
ファーファとクラケンは、もう寝ている。ニャルニルだけが、戦槌のまま、月明かりの下に立っていた。
「**……主**」
ニャルニルの声がした。低く、響く。
「お前、起きてんのか」
「**……戦槌、眠りません。観測、継続中**」
「そうか」
「**……港、夜。火、灯っています、まだ**」
ニャルニルは、リンには見えない遠くまで、観測している。観測専門の眷属だ。
「お前、見えんのか」
「**……はい**」
「エルナ、寝てるか」
「**……宿、灯り、消えています。就寝、推定**」
「そうか」
リンは、舷側にもたれた。
「**……主**」
「なんだ」
「**……港町、また、訪問しますか**」
「するさ」
「**……はい**」
「だが、その前に、ヴァナール、片付ける」
「**……了解**」
ニャルニルは、それきり黙った。
リンも、黙って月を見ていた。
向こうの空にも、同じ月が出ているはずだった。
【了】




