139 出立
十日経った。
その間リンたちは宿で休んでいた。
ユミルが第三遺跡から持ち帰った装置の断片を分析した。敵の術式の特徴がいくつか判明した。仮想世界由来の術式であることが確認された。リンとユミルが共有した知識と、同系統のものだった。
ファーファがクラケンの世話を続けた。クラケンが宿に馴染んだ。最初は桶の中から出なかった。だが五日目頃から、桶の外でも活動できるようになった。皮膚が乾燥に強くなってきたらしかった。クラケン自身が、ぽつりと言った。
「**……ぴゅ**」
ユミルが横からぽつりと通訳した。
「**……クラケン、慣れた、と言っています**」
「だな」
「**……ぴゅ**」
「**……ファーファ様、世話、上手、と言っています**」
「だろうな」
リンがぽつりと答えた。
クラケンがぽつりと頷いた。
トーマスは雷魔法の練習を毎日していた。リンが付き合った。宿の裏の空き地で、トーマスが自分の剣に雷を纏わせる訓練を繰り返した。リンはユミルと組んで、空から雷を降らせる。トーマスは武器に雷をエンチャントする。系統が違うので、互いの参考にはならなかった。
だがトーマスは、リンが撃つ姿を見ているうちに、自分の雷も安定してきた。状況の整え方が徐々に身につき始めた感じだった。
「兄貴」
「ん」
「お前雷、安定したな」
「だな」
「次、付き合うか」
「いや」
「いや、か」
「お前十日後、出る。俺、店、置いていけねえ」
「だな」
「俺はここで、待ってる」
「分かった」
トーマスがぽつりと答えた。
「だが、いずれ付き合う」
「いずれ」
「ああ」
リンが頷いた。
「今は姉さん見てる」
「分かった」
トーマスがぽつりと答えた。
それ以上、何も話さなかった。
エルナとは、屋根のテラスにもう一度登った。
夜。月の光が降っていた。卓と椅子が二つ。瓶と、二つの杯。
「リン」
「ん」
「お前明日出る」
「出る」
「お前戻ってこい」
「戻ってくる」
エルナが頷いた。
しばらく二人で酒を飲んだ。
「リン」
「ん」
「お前、宿はお前の家だ」
「ああ」
「いつでも戻ってこい」
「分かった」
エルナが頷いた。
「お前私のこと、好きか」
エルナがぽつりと聞いた。
リンがしばらく止まった。
「分からねえ」
「分からねえ、か」
「分からねえ。だが嫌い、じゃない」
「だな」
「お前それでいいのか」
「いい」
エルナがぽつりと答えた。
「私はお前のことが好きだ。お前は私のこと、嫌いじゃない。それで十分」
「だな」
「お前戻ってこい」
「戻ってくる」
エルナが頷いた。
二人でゆっくり酒を飲んだ。月が傾いていった。風がテラスの上を、軽く吹いていた。
「リン」
「ん」
「下、降りる」
「ああ」
エルナが立ち上がった。階段の、方へ歩いた。リンが続いた。
階段の前で、エルナが振り返った。
「お前、明日出る前に私が見送る」
「ああ」
「だが長い別れじゃねえ。お前は戻ってくる」
「戻ってくる」
エルナが頷いた。
それからエルナがふっと笑った。
「お前不器用だな」
「ああ」
「クラケンと、よく、似てる」
「だな」
「お前ら似た者、同士、だ」
エルナがぽつりと笑った。
リンもふっと笑った。
二人で階段を降りた。
朝。出立の日が来た。
港の桟橋にサイラスが迎えに来ていた。船が停泊していた。トーマスの船ではなかった。今度は海洋国家の専用船だった。大型の軍船で、武装もあった。
「リン様、お早うございます」
サイラスがぽつりと言った。
「お早う」
「準備、整っております」
「ああ」
リンが頷いた。
ユミルが続いた。ファーファがクラケンを戦槌に乗せて来た。背にニャルニルを背負っていた。クラケンが戦槌の上からぽつりと言った。
「**……ぴゅ**」
ファーファがクラケンの方に耳を寄せた。
「**……主、クラケン、海、戻る、嬉しい、ニャ**」
「戻る」
リンがぽつりと答えた。
「**……ぴゅ**」
クラケンがそれだけ答えた。
エルナとトーマスが桟橋に立っていた。ルークも隣にいた。
エルナがぽつりと言った。
「リン戻ってこい」
「戻ってくる」
「お前、無理すんな」
「分かってる」
「お前、無事でいろよ」
「無事だ」
エルナが頷いた。
トーマスがぽつりと言った。
「リン」
「ん」
「雷、お前ら撃てる」
「ああ」
「だが、撃つ状況を必ず整えてからだ」
「分かってる」
「俺は当時それ分かってなかった」
「ああ」
「お前忘れるな」
「忘れねえ」
トーマスが頷いた。
ルークがぺこりと頭を下げた。
「兄貴、戻ってきて下さい」
「戻ってくる」
リンがぽつりと答えた。
ルークが頷いた。
リンが船の舷側に足をかけた。ファーファが続いた。背にニャルニルを背負ったまま、戦槌の上にクラケンを乗せたまま、四足で舷側を駆け上がった。背のニャルニルがぽつりと言った。
「**……出航、確認**」
「ああ」
ユミルが続いた。
サイラスが最後に舷側を上った。
舵手が舵を握った。船員が舫を解いた。船が桟橋からゆっくり離れた。
リンが舷側に立って、桟橋を見た。
エルナと、トーマスと、ルークが桟橋に立っていた。
エルナが片手を軽く上げた。
リンも片手を上げた。
それで合図は終わった。
船が港の出口に向かった。風が帆を軽く押した。船首が海面を滑らかに切った。
ファーファがリンの隣で、舷側を覗き込んだ。クラケンが戦槌の上からぽつりと言った。
「**……ぴゅ**」
ファーファがクラケンの方に耳を寄せた。
「**……主、クラケン、海、広い、って、ニャ**」
「広い」
リンがぽつりと答えた。
「**……ぴゅ**」
「**……主、嬉しい、ニャ**」
「だな」
「**……ぴゅ**」
クラケンがそれだけ答えた。
ニャルニルがぽつりと言った。
「**……主**」
「ん」
「**……次の、目的地、ヴァナール**」
「ああ」
「**……敵、待ち構えています**」
「だな」
「**……自分、観測、頑張ります**」
「ご苦労」
リンがぽつりと答えた。
ニャルニルがそれで黙った。
ユミルがリンの隣に来た。
「**……リン様**」
「ん」
「**……五日、海路、です**」
「ああ」
「**……敵の術士、次の遺跡で、待っている、可能性、高いです**」
「分かった」
「**……今度は、撤退、させない、です**」
「ああ」
ユミルが頷いた。
エルナが桟橋からまだリンの方を見ていた。距離が徐々に開いていた。リンもエルナの方を見ていた。
港町が後ろに小さくなっていった。
リンの内側で独り言が走った。
——戻ってくる。
短く、それだけ思った。
風が強くなった。船が海上に出た。波が船首に当たって白く砕けた。空が青かった。雲が薄く流れていた。
「**主**」
ファーファがぽつりと言った。
「ん」
「**……出発、ニャ**」
「だな」
「**……次の、冒険、ニャ**」
「ああ」
ファーファがぽつりと頷いた。
クラケンが戦槌の上で目を閉じた。
「**……ぴゅ**」
クラケンがぽつりと寝言を言った。
リンがふっと笑った。
港町が、もう水平線の向こうに消えかけていた。
リンは舷側に両手を置いて、しばらくその方角を見ていた。
それから海の進行方向の方を向いた。
ヴァナールが待っている方角だった。
【了】




