013 ドラゴンブレス
白い光が、峠の道の中央に立ち上がった。
それは炎ではなかった。
熱を持たなかった。光がただ静かに広がった。焦げ臭さもなかった。
光はユミルを中心に、峠の道の五十歩先まで一瞬で届いた。
オーガ二頭と、四つ足の獣が、光に包まれた。
三体は、呻く間もなかった。
光が引いた後に残ったのは、毛皮と、骨の一部と、棍棒と、それだけだった。整然と地面に置かれていた。
焦げ跡もなかった。地面の草一本、焼けていなかった。
※
峠に静寂が満ちた。
誰も動かなかった。前衛班の生き残りも、後方班も、セオも、リントも、息を止めていた。
ユミルが掲げていた右手を、ゆっくりと下ろした。
その瞬間、身体がふらりと傾いた。
「y!」
リントは岩の陰から飛び出した。
ユミルの肩を後ろから支えた。ユミルは膝をつきかけて、リントの腕に寄りかかるように身を預けた。
「大丈夫か」
「……はい」
「無理すんな」
「……すこし、疲れました」
ユミルはそう言って、目を一度強く閉じて、開けた。
白い髪が夕方の光の中で、昨日見た時よりほんの少しだけ艶が落ちているように、リントには見えた。気のせいかもしれなかった。
ユミルは顔を上げて、峠の空を見た。
何を見ているのか、リントには分からなかった。
「y」
「はい」
「座れるか」
「……はい、歩けます」
「無理するな」
リントはユミルを岩の陰に戻した。ユミルは岩に背を預けて、ゆっくりと息を整えた。
※
後方班のリーダーがようやく岩の陰から出てきた。
ユミルの方をじっと見ていた。
それからリントの方を見た。
「……お前ら、何者なんだ」
「冒険者ですよ。登録、今朝、したばかりです」
「……そうか」
リーダーはそれ以上、聞かなかった。
セオが岩の陰から、ゆっくりと歩み出てきた。
リントのところまで来て、ユミルの方をちらりと見て、それから小さな声で言った。
「……お前ら、ヤバいな」
「そうか?」
「いや、ヤバいだろ、これ」
セオはもう一度、ユミルを見た。
ユミルは岩に背を預けて、目を伏せていた。
※
前衛班の生存者たちが少しずつ動き始めた。
倒れていた三人のうち、二人は自力で起き上がった。残る一人——グラスパーティの魔法使いの男——は、胸を深く切られていて意識が朦朧としていた。
ユミルは岩に背を預けたまま、そちらを見た。
「……リン様」
「ん」
「あの方、治療します」
「座ってろよ」
「……大丈夫、です」
ユミルは岩に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。リントが肩を支えた。そのまま倒れている男のところまで二人で歩いた。
ユミルは男の横に膝をついた。男の胸に両手を添えた。
「リファクタリング、対象、創傷、深度、深」
(exec.refactor --target=wound --depth=deep)
緑がかった白い光が男の胸を覆った。
光はさっきの獣たちの時より弱かった。ユミルの消耗のせいだ、とリントは思った。それでも男の呼吸が少しずつ深くなった。顔色が戻ってきた。
ユミルは治療を終えて、ふう、と息を吐いた。
「……間に合いました」
「助かった」
リントは頷いた。
他の負傷者たち——弓使いも、両手剣の女も——は、自力で動けた。ユミルは順に治療を回した。骨折を繋ぎ、切り傷を塞ぎ、内出血を引かせた。一人ずつ、丁寧に。
治療が終わる頃、ユミルの額にははっきりと汗ばんでいた。
※
遠くから馬蹄の音が聞こえてきた。
複数の、馬。速い。
「……応援、か」
後方班のリーダーが耳を澄ませた。
馬蹄の音は峠の東側から近づいてきていた。街道をこちらへ駆けてくる音だった。
馬蹄が近づいてくる。
そして峠の向こう側から、一頭の馬が現れた。
銀髪の長身の女性だった。
鎧を着て、背に両手剣を背負い、手綱を握ってこちらへ駆けてきていた。
馬は峠の入口で速度を落とした。
女性は峠の中を見渡した。
倒れた魔物の骸、整然と置かれた毛皮と骨、治療を終えた前衛班、そしてその中央に、岩に背を預けて息を整えている白い髪の少女。
女性は馬の上から笑った。
「あらら、間に合わなかったか」
声が峠に響いた。
肝が据わっていた。
馬をゆっくりと峠の中に進めてきた。
「あたしが応援。エルナ・スカディって言うんだ。……あんたたち、誰がこれ、やった?」
誰も答えなかった。
エルナと名乗った女性は、馬をユミルの前で止めた。
馬の上からユミルを見下ろした。
「あんた?」
ユミルは顔を上げて、エルナを見返した。
「……はい」
エルナは少しの間、ユミルを見つめていた。
それから馬から降りた。
ユミルの前に立った。
銀髪の背の高い女性だった。ユミルより頭一つ分、大きかった。
そして——
エルナは手をユミルの肩に置いた。
「あんた、強いね」
それだけ言った。
ユミルはエルナを見上げた。
「……はい、少しだけ」
「少しじゃ、ないだろ」
エルナは笑った。
「あたし、あんたに興味あるよ」
※
エルナは後方班のリーダーの方へ歩いていった。
「応援、あたしだけじゃない。後ろ、あと五人、もうすぐ来る。王都ギルドの緑ランクが三人、青が二人」
「そりゃ助かる」
「で、状況、聞かせて」
後方班のリーダーが簡潔に説明した。生存者救助、ユミルによる治療、峠での戦闘、ユミルがブレスを放ったこと。
エルナは腕を組んで聞いていた。
時々、ユミルの方に視線を向けた。
説明が終わると、エルナは頷いた。
「分かった。あとはあたしらが仕切る。後方班は負傷者を運んで町に戻ってちょうだい。王都の応援が到着次第、峠の先の、魔物の発生源を確認しに行く」
「了解」
「……で」
エルナはリントとユミルとセオの方を見た。
「あんたたち三人は、どうする?」
リントはユミルを見た。
ユミルは疲れた顔をしていた。でも目はしっかりしていた。
「……町に、戻ります」
リントはそう答えた。
「俺らは後方班の馬車で町に帰ります」
「そうか」
エルナは頷いた。
それからリントの顔を見て、少しだけ口の端を上げた。
「町で会おうな」
※
馬車の旅は、来る時よりずっと静かだった。
前衛班の生き残り三人と、治療を受けた魔法使いの男が、馬車に乗った。リントとユミルとセオは、馬車の脇を歩いた。
ユミルの歩みは、普段より少しだけ遅かった。
「y」
「はい」
「肩、貸すか」
「……大丈夫です」
「無理するな」
「……すこし、歩くと、整います」
リントは頷いた。
セオが少し離れたところから、二人を見ていた。
何も言わなかった。
陽はもう西に深く傾いていた。街道の両脇に夕日が差し、影が長く伸びていた。
※
町に着いたのは、日が沈みかけた頃だった。
馬車はギルドの裏口に着いて、負傷者は治療院に運ばれた。リントとユミルとセオは、リーファに簡単な報告をした。
リーファはメモを取りながら話を聞いた。
途中で、ユミルのブレスの話になった。後方班のリーダーが代わりに説明した。リーファの筆が止まった。
ユミルを見た。
「……あんた、白扱いで登録したけど」
「はい」
「こりゃあ、等級の話、また改めてしなきゃね」
「……はい」
「でも今日は疲れただろ。話はまた後日。夕飯、食って、ちゃんと、寝なさい」
リーファはユミルの頭に軽く手を置いた。
ユミルは少しだけ目を細めた。
※
葉巻亭に戻った時はもう、外は暗かった。
女将が心配そうな顔で出迎えてくれた。
「無事だったかい。セオ坊から連絡は来てたけど」
「戻れました」
「飯、温かいの、すぐ用意するからね。二階、上がってな」
部屋に戻って、リントは荷を下ろした。弓を壁に立てかけた。短剣を机の上に置いた。革の胸当てを外した。
ユミルは窓辺に立っていた。
窓の外はもう夜だった。町の灯りが点々と通りに並んでいた。
「y」
「はい」
「少し座れよ」
ユミルは振り返って、ベッドの端にゆっくりと腰を下ろした。
リントは水差しの水をコップに注いで、ユミルに渡した。
ユミルは両手でコップを受け取った。一口、飲んだ。それからコップを膝の上に置いた。
「……y」
「はい」
「今日、ありがとな」
「……はい」
「お前がいなかったら、もっとひどいことになってた」
「……はい」
ユミルはコップをじっと見ていた。
それから、小さく言った。
「……本当は、使いたく、なかった、です」
「……そうか」
「でも、使いました」
「うん」
リントはそれ以上、聞かなかった。
ユミルの口調にいつもと少しだけ違う、重さがあった。その重さが何から来ているのか、リントには分からなかった。分からないまま、隣にいた。
※
少しして、下から女将の声が聞こえた。
「飯、下がってきな!」
リントは立ち上がって、ユミルに手を差し出した。
「食いに行こう」
ユミルは頷いて、リントの手を取った。
指が、少しだけ冷たかった。
下に降りると、食堂にセオがいた。
テーブルに三人分の料理が既に並んでいた。煮込みと、パンと、焼いた芋と、葉野菜のサラダ。それに麦酒のジョッキが三つ。
「お、来たか」
セオは片手を挙げた。
「お前、実家に帰んなかったのか」
「今日はお前らと飯、食いたかった」
セオはそう言って、少しだけ真面目な顔をした。
「……お前らがヤバい奴らだってのは、分かった。でも俺、多分お前らとこれからも関わっていくと思うんだよ」
「……そうか」
「で、今日は一緒に飯、食いたい」
「いいぜ」
リントはセオの向かいに座った。ユミルはリントの隣に座った。
女将が三人分の麦酒を持ってきてくれた。
「今日はお疲れさん。飲みな」
「ありがとう」
※
乾杯、とは言わなかった。
でも三人で、ジョッキを軽く合わせた。
ユミルは麦酒を一口、飲んだ。
それから顔をしかめた。
「……苦い、です」
「はは、麦酒、初めてか」
セオが笑った。
「はい、です」
「慣れると美味いぜ」
「……慣れるまで、時間がかかりそう、です」
ユミルは麦酒のジョッキを少しだけ離して、代わりに水を飲んだ。
リントはそれを見て、少しだけ笑った。
セオも笑った。
女将も厨房から笑った。
ユミルも、少しだけ、口の端を緩めた。
※
食事の途中で、食堂の扉が開いた。
入ってきたのはエルナ・スカディだった。
鎧はもう脱いでいた。旅装の軽装で、肩から小さな鞄を下げていた。
エルナは食堂を見渡して、リントたちを見つけた。
「見つけた」
そう言って、ずかずかとテーブルまで歩いてきた。
「あんたら、ここに泊まってるってギルドで聞いて、来たんだよ」
「……用事ですか」
「用事って言うか、乾杯させてよ」
エルナはそう言って、勝手に四つ目の椅子を引き寄せて、座った。
女将がすぐに四人目の麦酒を持ってきた。
「今日はお疲れ。……で、あんたら、本当に新人冒険者なのかい?」
「はい、今朝、登録したばかりです」
「冗談でしょ」
エルナは目を細めた。
それからユミルを見た。
「あんた、名前は?」
「ユミル、です」
「ユミルちゃん、ね」
エルナは手を差し出した。
「あたしは、エルナ・スカディ。王都のギルド所属、ランクは紫」
「紫、ですか」
「中堅の上、ってとこだ」
リントは一瞬、麦酒を噎せそうになった。
紫。腕利き。王都から派遣されてくる応援部隊の、隊長格。
そんなのが今、自分たちと普通に麦酒を飲もうとしている。
「リント君、だっけ?」
エルナは次にリントに手を差し出した。
「はい、リントです」
「セオはさっき名乗ってもらったね」
「おう」
「よろしくな、みんな」
エルナは自分のジョッキを持ち上げた。
「じゃ、改めて、乾杯」
四つのジョッキが軽くぶつかった。
ユミルはもう一口、麦酒を飲んで、また顔をしかめた。
エルナがそれを見て、声を上げて笑った。
「あんた、面白いねえ」
ユミルは顔をしかめたままエルナを見た。
「……面白い、ですか」
「うん、すげえ面白い」
エルナはそう言って、ユミルの頭を軽く撫でた。
ユミルは撫でられるままになっていた。少し戸惑った顔をしていた。でも、嫌がってはいなかった。
※
その夜、リントはベッドに横になった時、少しの間、天井を見上げていた。
ユミルは隣のベッドで既に目を閉じていた。眠っているのか、眠っていないのか、分からなかった。
今日、たくさんのことがあった。
朝、パンを食った。ギルドで登録した。水晶が沈黙した。依頼が来た。街道に出た。生存者を救った。峠で戦闘に加わった。ユミルが前に出た。ブレスが放たれた。エルナという女が来た。麦酒を飲んだ。
そのどれも、昨日までの自分には経験のないことだった。
ユミルにとっては、もっと、そうだろう。
百年の孤独が、今日、一気に動き始めた。
動き始めた先に何があるのか、リントにはまだ分からなかった。
でも隣のベッドで静かに呼吸しているこの相棒が、一緒にその先に行ってくれるなら——
それで十分だった。
リントは目を閉じた。
窓の外で、町の鐘が夜を告げた。
※
なお、この日ユミルの治療を受けた冒険者たちが、揃いも揃って気持ち男前になって治療院から出てきたことは、言うまでもない。
※
――第十二章、了。




