125 帰還
帰路は、嵐の名残も無く、穏やかだった。
風は安定していた。波は低かった。船はゆっくり港町の方角へ、向かっていた。トーマスが舵を握っていた。タロがその隣で地図を確認していた。
リンは舷側で海面を見ていた。
朝の海面は青かった。第二遺跡からの、緑がかった青の海域は、もう後ろになっていた。船は本来の青い海を進んでいた。
ユミルがリンの隣に立っていた。
「**……今、検査しています**」
「検査?」
「**……周辺の、魔力の流れです。第二遺跡、停止後、安定、しているか見ています**」
「どうだ」
「**……安定、しています**」
ユミルがぽつりと言った。
「漏出は、抑えられてるか」
「**……はい。第一遺跡とほぼ、同じレベルまで抑えられました**」
「分かった」
リンが頷いた。
しばらく二人で海面を見ていた。
「**……リン**」
「ん」
「**……あの、痕跡のことですが**」
「ああ」
「**……あれをもう少し、考えました**」
「分かったことあるか」
「**……一つ、思いつきました**」
ユミルがぽつりと言った。
「**……敵は、たぶん複数の遺跡を稼働させて、何かを起こそう、としています**」
「何か?」
「**……分かりません。だが第一遺跡の暴走、未遂と似ています**」
「王都の地脈の根」
「**……はい。あれと同じ系統の計画、可能性、あります**」
リンの内側で独り言が走った。
——王都の暴走未遂と同じ系統。
王都の地脈の根を暴走させようとしていた連中。地下水路の、第一暴走未遂。あれは未然に防いだ。だが犯人の正体は、はっきり、しなかった。仮想世界の知識を持つ、何者かというところまでしか特定できていなかった。
「ユミル」
「**はい**」
「あの時の、犯人と第二遺跡を操作した、奴」
「**……同じ系統、可能性、あります**」
「魔力の特徴は」
「**……第二遺跡の方は、覚えました。第一遺跡の暴走未遂の方は、痕跡、残って、いませんでした**」
「比較、できないか」
「**……はい。残念ですが**」
ユミルがぽつりと頷いた。
「分かった」
リンも頷いた。
「ただ、サイラスに伝えとく。海洋国家の調査の、方向性として」
「**……はい**」
「その上でこっちは、残りの遺跡を回る」
「**……はい**」
ユミルがぽつりと頷いた。
トーマスが舵輪の前で声を上げた。
「港、見えてきた」
リンが進行方向を見た。
水平線の、向こうに低い岸の輪郭が、見えていた。建物の、塊が、ぼんやりと灰色に浮かんでいた。港町だった。
「思ったより、早かったな」
リンがぽつりと言った。
「帰路は、追い風だ」
トーマスが舵を切った。船首がわずかに岸の方角に向き直った。
「半日くらいで着く」
「分かった」
リンが頷いた。
ファーファが舷側に上り、岸を見た。背のニャルニルからぼそっと声がした。
「**……港、確認**」
「ああ。帰ってきた」
「**……ファーファ、陸、好き、ニャ**」
「だろうな」
リンが頭を軽く撫でた。ファーファが目を細めた。
午後の、半ばに船が港町に入った。
桟橋に着く。舫を結ぶ。荷を降ろす。一連の作業が、淀みなく、進んだ。タロともう一人の船員が慣れた手つきでこなしていた。
岸にサイラスの迎えが、来ていた。海洋国家の現地の、役人だった。
サイラスが舷側を降りて、迎えに歩み寄った。短く、何かを話していた。役人が、頷いて、馬車を手配する。
サイラスが戻ってきた。
「リン様。皆様。馬車を手配しました」
「ああ」
「私はこれから海洋国家の現地代表部に戻り、報告します」
「分かった」
「明日、改めて、皆様の、お話を伺いに参ります」
「分かった」
サイラスが頭を下げた。
「皆様、お疲れさまでした」
「サイラスもご苦労」
リンがぽつりと答えた。
サイラスが馬車に乗った。馬車が桟橋を離れた。
エルナがリンの隣に来た。
「とりあえず、宿、戻るぞ」
「ああ」
「飯、用意する」
「分かった」
リンが頷いた。
桟橋の、向こうから男が歩いてきた。サイラスでは無い。背の低い太った、男だった。
「サイラスさんではないみたいですね」
ユミルがぽつりと言った。
「あれはサイラスじゃねえな」
リンが頷いた。
男が近づいてきた。顔に見覚えが、あった。漁村の長老のような立場の、男。だが漁村の長老では無い。
「リン殿!」
男が声を上げた。
「サイラスさんから聞きました。第二遺跡、対処してくださったとか」
「ああ」
「私、港町の漁業組合の代表で、ボブと申します」
ボブが頭を下げた。
「リン殿。今回の件、本当にありがとうございました」
「いや」
「最近、漁が、不漁で。海が荒れてばかりで。それが、第二遺跡の影響だったとは」
ボブが深く、頭を下げた。
「これで海が戻ります」
「だな」
「組合一同、感謝、申し上げます」
「分かった」
リンが頷いた。ボブの感謝の言い方は、率直だった。社交辞令では無いことが、分かった。
「リン殿。何かお礼を」
「いらねえ」
「いえ、そういう、わけには」
「いらねえ。仕事、だ」
リンがぽつりと言った。
ボブがしばらく、考えた。
「ではせめて、宿の滞在費を」
「いらねえ」
「もう既に、エルナさんの、宿にですか」
「だ」
「ではエルナさんの、宿の方に改めて、ご挨拶に」
「分かった」
リンが頷いた。
ボブがもう一度、頭を下げて、桟橋を戻っていった。
エルナがぽつりと言った。
「ボブのおっさん、丁寧だな」
「漁業組合の代表だろ」
「だ。だから丁寧だ」
「ああ」
「お前お礼、もらっとけば、よかったじゃねえか」
「いらねえ」
「素直じゃねえな」
エルナがぽつりと笑った。
「素直、だ」
「素直か」
「素直」
リンもぽつりと答えた。
馬車が桟橋に着いた。荷を馬車に積んで、リンたちが乗り込んだ。エルナの宿まで十分くらいの、距離だった。
宿に着いた。
サイラスではない、別の来客が、待っていた。
桟橋の、ボブとは、別の男だった。今度は、白髪の痩せた男だった。エーギル家の紋章——三つ又の渦——が、入った、外套を着ていた。
「兄貴」
ルークが迎えに出た。
「ああ。ご苦労」
「サイラスさんは」
「現地代表部に戻った。明日、来る」
「分かった」
ルークが頷いた。
宿に入る。荷を置く。エルナが台所の方へ、向かった。トーマスは店の方へ、戻った。ルークがそれに続いた。
リンとユミルとファーファだけが、宿の食堂に残った。
ユミルが椅子にぐったりと座った。
「**……リン様**」
「ん」
「**……疲れました**」
「だな」
「**……少し、休みます**」
ユミルがぽつりと言った。
「休め」
リンが頷いた。
ユミルが二階の自分の部屋へ、上がった。ファーファがリンの隣の、椅子に座った。
「**主**」
「ん」
「**……サイラス、明日、来る、ニャ?**」
「来る」
「**……話、長い、ニャ?**」
「長いだろうな」
「**……ファーファ、聞いてる、ニャ**」
「分かった」
リンがファーファの頭を軽く撫でた。背のニャルニルからぼそっと声がした。
「**……記録、します**」
「お前も、聞くか」
「**……はい**」
ニャルニルがそれだけ言った。
エルナが台所から声を上げた。
「リン、お前ら、ブイヤベースと、茹でた、エビと、カニ、用意する」
「豪勢だな」
「お前ら、海から戻ってきたばかりだ。漁師から、貝、魚、エビ、カニ、届いてる。礼のついで、らしい」
「ボブの、組合か」
「組合と、漁師個別の、両方、らしい」
「分かった」
「魚はメバル、カサゴ、ホウボウ。貝はムール、アサリ。スープに全部、ぶち込んだ」
「贅沢だな」
「贅沢だ」
エルナがぽつりと答えた。
エルナが台所で何かを煮込む音と、別の鍋で何かを茹でる音が、二重に聞こえた。
リンの内側で独り言が走った。
——残り、十一カ所。
第二遺跡が終わって、二つ目が片付いた。残り、十一カ所。それぞれが、第二遺跡並みかそれ以上の、規模を持っている可能性が、あった。それを全部、回る。敵が操作した、痕跡を確認しながら止める。
——時間が、足りるか。
リンにはまだ分からなかった。
エルナが台所から大鍋と、大皿を運んできた。
大鍋の中は、ブイヤベース。赤い、トマトと、サフランの、混じった色のスープに貝の殻と、赤い魚の身がごろごろと浮かんでいた。湯気が立ち上っていた。
大皿の上には、茹でた、デカいエビと、カニ。エビは、大人の、手のひらより長かった。カニは、両手で抱えるくらいの、大きさだった。殻が茹でて、赤く、染まっていた。
それから、固い、パン。スープに浸して、食う、ためのパンだった。
「食え」
エルナがぽつりと言った。
「ああ」
「お前随分、消耗してる、顔だぞ」
「そうか」
「飯、食って、寝ろ」
エルナがぽつりと言った。
リンが頷いた。スープを椀によそった。貝がごろごろと入った。赤い魚の身も、一緒に、入った。スプーンで、一口、口に運んだ。
魚の出汁。貝の出汁。トマトの酸味。サフランの香り。すべてが、混ざっていた。塩気が控えめで素材の味が、立っていた。船の上の保存食とは、別物だった。
「うまい」
「だろ」
エルナがぽつりと笑った。
「これ、漁師町の料理だ。獲れ高の余りをまとめて煮込む」
「合理的だな」
「だが、味は贅沢だ」
「だな」
リンがパンを千切って、スープに浸した。パンがスープを吸い込んだ。それを口に運んだ。
旨かった。
エビを手に取った。殻を剥いた。中の身がぷりぷりと白く、現れた。一口で、食った。
「うまい」
「だろ」
エルナがぽつりと繰り返した。
カニも、剥いた。脚の、太い部分から、白い、身がごろりと出てきた。それも、口に運んだ。
その時、二階の階段の方から、足音が聞こえてきた。
ゆっくりとの規則的な足音だった。
ユミルが階段の上に現れた。目が半分、閉じていた。眠そうな顔だった。だが、足は止まらなかった。階段を一段ずつ降りてくる。視線はブイヤベースの大鍋を捉えていた。
リンがふっと笑った。
「お前、寝てたんじゃねえのか」
ユミルが食堂の入口に立った。両手がわずかに前に出ていた。半分、寝ぼけたような動きだった。
「**……無意識、です**」
ユミルがぽつりと言った。
「無意識?」
「**……匂い、感知。身体、自動、移動**」
「自動か」
「**……はい**」
ユミルが卓の脇まで来て、リンの方を、ちらりと見た。
「**……それから、リン様**」
「ん」
「**……私、呼んで、くれません、でした**」
ユミルがぽつりと言った。少しだけ、ふくれていた。
「お前は寝てると思った」
「**……寝てません。匂い、来れば、起きます**」
「だな」
「**……次から、呼んでください**」
「分かった」
ユミルがそれで、頷いた。だがまだ、頬が、少しだけ、ふくらんでいた。
エルナが台所から、ふっと笑った。
「ユミル、お前、座れ」
「**……はい**」
ユミルが椅子に座った。エルナが椀をユミルの前に置いた。スープをよそった。貝が、たっぷり入った。
ユミルがスプーンを握った。一口、口に運んだ。
しばらく、止まった。
それから、ぽつりと言った。
「**……これ、味、深いです**」
「だろ」
エルナがぽつりと答えた。
「**……毒も、酔いも、効かない、です。だが、味、分かります**」
「分かるなら、いい」
「**……はい**」
ユミルがもう一口、口に運んだ。さっきまでの、ぐったりした様子が、わずかに戻った。さっきまでの、ふくれていた頬も、わずかに解けた。
エビも、手に取った。殻を剥こうとした。
うまく、剥けなかった。
「**……エビの殻、剥き、不慣れ、です**」
「貸せ」
リンがユミルの手から、エビを取った。殻を剥いた。中の身を、ユミルの皿に戻した。
「**……ありがとう、ございます**」
「ああ」
ユミルがエビの身を口に運んだ。
しばらく、無言で食った。
ファーファが卓の隅で自分の皿にブイヤベースの貝と、魚の身を、よそってもらっていた。エルナがファーファの分は、骨と、殻を抜いていた。
「**……貝、おいしい、ニャ**」
「だな」
「**……主、もう一切れ、食う、ニャ?**」
「食う」
リンがもう一切れ、皿に追加した。
夕方の光が宿の食堂の窓から差し込んでいた。光が卓の上に延びていた。スープの湯気が光の中で立ち上っていた。エビと、カニの赤い殻が光に照らされて、鈍く、光っていた。
リンはしばらく、その、湯気を見ていた。
——残り、十一カ所、か。
短く、それだけ思った。
【了】




