122 嵐のおわり
嵐は、夜のあいだ、ずっと続いた。
リンは船室の隅でほとんど眠れなかった。船の揺れが、大きく、波の音が、頭の上で絶え間無く、鳴っていた。ファーファはいつものようにリンの足元に丸くなっていたが、こちらは、ぐっすり、眠っていた。ユミルは光のカーテンを嵐の最中、ずっと維持していた。途中で交代を申し出たが、ユミルは首を振った。
「**……リン様、休んでください。私の方が、向いています**」
そう言って、ユミルは甲板で両手を前に出していた。雨と風の中で半透明の光が船の上に、ドームを作り続けていた。
リンは何度か起きて、甲板に上がった。ユミルの様子を見るためだった。ユミルは立ったまま、目を閉じていた。意識は、保っていた。光のカーテンも、維持していた。
「大丈夫か」
「**……大丈夫です**」
ユミルが目を薄く開けて、答えた。
「無理してねえか」
「**……していません。これは、仮想世界の頃から続けていた、長時間維持です**」
「仮想世界、っていうのは」
「**……忘れてください**」
ユミルがそれだけ言った。リンは頷いた。聞いてはいけないことを聞いてしまった、らしかった。だが、ユミルはそれを特に責めなかった。
「**……リン様、寝てください**」
ユミルがぽつりと言った。
「分かった」
リンが船室に戻った。
夜が、明けた。
雨がやんでいた。風が弱まっていた。船の揺れが、さっきまでの三分の一くらいに落ち着いていた。リンは起き上がり、甲板へ、上がった。
光が船室の入口から差し込んでいた。
甲板に出た。
空が晴れていた。
雲はまだ所々、残っていた。だが、東の空が明るく、開けていた。陽がもう海面を照らし始めていた。海面は嵐の名残でまだ波が高かった。だが、嵐そのものは、過ぎ去っていた。
ユミルが甲板の中央で座り込んでいた。光のカーテンは、消えていた。
「ユミル」
リンが駆け寄った。
「**……リン様**」
ユミルが目を薄く開けた。立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。
「無理、するな」
リンがユミルの肩に手を置いた。ユミルはしばらく、そのまま、座っていた。
「**……長時間、維持、しました**」
「だな」
「**……一晩、です**」
「分かってる」
ユミルがふっと笑ったような、息を吐いた。
「**……リン様に心配されるの、二回目、です**」
「二回目?」
「**……一回目は漁村で井戸に潜った時です**」
「ああ」
リンが頷いた。第一遺跡でユミルが地下水路に潜った時のことだった。ユミルはそれを覚えていた。
「**……心配、されるの、悪く、ないです**」
ユミルがそれだけ言って、また目を閉じた。
リンはユミルの隣に座った。しばらく、二人とも、何も話さなかった。
エルナが甲板に上がってきた。リンとユミルが座り込んでいるのを見て、ちらりと何かを判断したらしかった。
「ユミル休め。お前よくやった」
エルナがぽつりと言った。
「**……はい**」
ユミルが答えた。
「リン、お前も、あんま、無理するな」
エルナがリンの方を見た。
「無理は、してねえ」
「ユミルと組んで雷二発、撃って、嵐の中で、立ち続けて、無理してねえ、は、無理がある」
「……そうかもな」
リンがぽつりと言った。
「雷自体は、ユミルが大半、引っ張ってる。俺は、引き金、引いてるだけだ。だが、船の、揺れの中で、ユミルと、合わせる、のは、疲れる」
「だな」
エルナがふっと笑った。
「お前素直に認めるんだな」
「認める」
「珍しいな」
「珍しい、か」
「珍しい」
エルナがそれだけ言って、ユミルの肩に手を当てた。
「ユミル立てるか」
「**……たぶん**」
「肩、貸す」
エルナがユミルの肩を支えた。ユミルが立ち上がる。足元が、少しふらついていた。エルナの腕がユミルを支えた。
「船室、まで行くぞ」
「**……はい**」
エルナがユミルを船室の方へ、連れていった。リンはそれを見送った。
エルナの動きは、宿屋の女将のそれだった。具合の悪い客を部屋まで連れていく。あの動きと同じだった。ユミルを支える腕の角度。歩く速さ。声の調子。すべてが、宿屋の女将のそれだった。
ファーファが甲板に上がってきた。背のニャルニルからぼそっと声がした。
「**……嵐、終了**」
「ああ。終わった」
「**主、寝てない、ニャ?**」
「あんま、寝てねえ」
「**……ファーファ、ぐっすり、寝た、ニャ**」
「お前はどこででも寝れるな」
「**……はい、ニャ**」
ファーファがぽつりと頷いた。
リンは笑った。少しだけ。
太陽がもう少し、高くなった。海面が橙から青に変わっていく。波は少しずつ、収まっていた。
トーマスが舵輪の前で立っていた。一晩中、舵を握っていたらしかった。タロが隣で地図を確認していた。
リンが舵輪の方へ、歩いた。
「トーマス」
「ん」
「お前寝てねえな」
「ん」
「替われる、奴は、いるか」
「タロが出来る。もう少しで降りる」
「お前寝とけ」
「ん」
トーマスが頷いた。
「リン」
「ん」
「昨日の、海賊。三隻目」
「逃がしたな」
「あれ追わなくて、良かったのか」
「良かった」
「情報、か」
「情報だ」
リンがぽつりと答えた。
「どうやって、取る」
「港に戻ってから、サイラスと相談する。海洋国家の役人に人脈は、ある」
「分かった」
トーマスが頷いた。
タロが地図を畳んで舵をトーマスから引き継いだ。トーマスが舵輪から離れた。
「俺は寝る。何かあったら起こせ」
「分かった」
トーマスが船室の方へ、降りていった。
リンは舵輪の脇に立った。タロが舵を握って、海面を見ていた。
ファーファがリンの脇に来た。背のニャルニルがぼそっと言った。
「**……主、休む、必要**」
「分かってる」
「**……でも、もう少し起きてる、ニャ?**」
「ああ。もう少し、起きとく」
「**……ファーファも起きてる、ニャ**」
ファーファがリンの足元に座った。
しばらく二人とも、海面を見ていた。波はまだ少し高かった。だが、空は青かった。
サイラスが船室から上がってきた。海洋国家の使節は、嵐のあいだ、船室でじっとしていたらしい。今は、上着の襟元を整えながら甲板に出てきた。
「皆さん、お疲れさまでした」
サイラスがリンに軽く、頭を下げた。
「サイラス。あんた、無事か」
「無事です。船室、揺れましたが」
「だな」
リンがぽつりと答えた。
「リン様」
「ん」
「昨夜の、海賊」
「ああ」
「あれは海洋国家として、看過できません。私が、戻り次第、本国に報告します」
「頼む」
「それから第二遺跡の調査ですが」
「ああ」
「これから潜るのですか」
「いや。今日は、無理だ」
リンがぽつりと答えた。
「ユミルが消耗してる。雷の出力、引っ張った分、大きい。俺も、嵐の中、立ち続けて、疲れてる。今日は、休む。明日、潜る」
「分かりました。船はここに停泊で」
「停泊で」
「分かりました」
サイラスが頷いた。
リンは舷側に手を置いて、遺跡の方を見た。
灰色の塔は嵐の中でも揺らがず、海面から突き出ていた。波が塔の根本にぶつかって、白く、砕けていた。
「明日、か」
リンがぽつりと呟いた。
エルナが甲板に戻ってきた。ユミルを船室まで運んだ後だった。
「ユミル寝た」
エルナがぽつりと言った。
「分かった」
「お前も、寝ろ」
「もう少し、起きとく」
「お前」
エルナがリンの隣に来た。舷側に手を置いた。
「お前本当に無理、すんな」
「無理は、してねえ」
「ユミルと組んで雷二発、撃って、嵐の中で、ずっと立って、無理してねえ、は、嘘だ」
「……」
「お前素直に認めるんじゃなかったのか」
リンがぽつりと笑った。
「認める。少しは、疲れた」
「だろ」
「だが、もう回復してる」
「本当か」
「本当だ。今、撃てって言われたら、ユミルと組んで撃てる。雲があれば」
「雲」
「雷、雲が要る。今、雲はあるしな。」
「だな」
「撃てって、言ってねえけどな」
エルナがぽつりと笑った。
しばらく二人とも、舷側に手を置いていた。
エルナの空いた手が舷側の上でわずかに置きどころを探していた。リンはそれに気付いていた。気付いていたが、何も、言わなかった。
「リン」
「ん」
「昨日の、海賊」
「ああ」
「お前トーマスに何か聞いたか」
「……トーマスは何も、言わねえ」
「言わねえか」
「言わねえ。ただ、あいつ、海賊船を見て、何か思い出してた」
エルナがぽつりと頷いた。
「お前」
「ん」
「あいつのこと何も、聞かないでくれ」
「分からねえぞ」
「分からねえ?」
「あいつから自分で話してくる、可能性は、ある。その時は、聞く」
「……」
「だが、こっちから掘り起こすことは、しねえ」
エルナがそれで黙った。しばらく、舷側を見ていた。
「リン」
「ん」
「ありがとう」
エルナがぽつりと言った。
「礼を言われる、覚えはねえ」
「ある」
「ねえ」
「ある」
エルナがぽつりと繰り返した。
リンは頷かなかった。だが、首を横にも、振らなかった。
太陽がもう少し、高くなった。波が収まってきた。海面の青が深くなっていった。
ファーファが舷側の脇でぽつりと欠伸をした。背のニャルニルからぼそっと声がした。
「**……主従、休息、推奨**」
「だな」
リンがぽつりと答えた。
「**主、降りる、ニャ?**」
「降りる」
「**ファーファも降りる、ニャ**」
ファーファが立ち上がった。リンも立ち上がった。
「エルナ。俺は降りる」
「ん」
「お前は」
「私はもう少し上にいる」
「分かった」
リンが船室の方へ、歩き始めた。エルナは舷側に手を置いたまま、海を見ていた。
リンの内側で独り言が走った。
——明日、第二遺跡だ。
短く、それだけ言った。
リンは船室への階段を降りた。ファーファが後ろに続いた。
【了】




