121 嵐の中で
トーマスが甲板に上がってきたのは、リンが起こしてからほんの一分後だった。
「見えたか」
「見えた」
トーマスが進行方向の、灰色の影を一瞥した。それから空を見上げた。
「雲、増えてる」
「ああ」
「南西、低い」
トーマスがそう言って、舵輪の方へ歩いた。エルナが舵をトーマスに渡した。
「来るぞ」
トーマスがぽつりと言った。
「来る、っていうのは」
「嵐、だ。半日もしねえうちに来る」
リンが空を見上げた。確かに南西の方角の雲が低く、暗くなっていた。空全体は、まだ青いが、その縁が、灰色に変わってきている。
「遺跡まで間に合うか」
「間に合う。ただ、着いてからが、問題だ」
「着いてから?」
「嵐の中で停泊する」
トーマスが舵を握り直した。
「沖の真ん中で嵐に巻き込まれるのと遺跡の脇で嵐に巻き込まれるのと後者の方が、ずっと楽だ」
「分かった」
リンが頷く。トーマスはもう舵に集中していた。
ユミルが舷側で海面を見ていた。
「**……海流、変化しています**」
「嵐が、近いせいか」
「**……はい。海面下の、流れが、変わっています**」
「速くなってる?」
「**……はい。それから温度の境界、ぼやけてきています**」
「ぼやけてる、っていうのは」
「**……二度の温度差、揺らいでいます。整流されていた水が攪拌されています**」
「嵐の前の、波でか」
「**……たぶん**」
ユミルが海面を見たまま言った。
リンは頷いた。
遺跡が近づいてきた。最初は、灰色の影だったものが、少しずつ、輪郭を持ち始めた。海面から十メートルほどの高さの、塔のような構造物。表面は、滑らかな石で所々に藻のようなものがこびり付いていた。海面と接する辺りには、波がぶつかって、白く砕けていた。
「半分、沈んでる、っていう、やつか」
「らしいな」
エルナが舷側に手を置いて、遺跡を見ていた。
「水中に本体がある、ってことか」
「だろうな。海面に出てるのは、上の一部だ」
ファーファが舷側に上り、遺跡を覗き込んだ。
「**主、海面、白い、ニャ**」
「波がぶつかってる」
「**……波、ぶつかる、と白く、なる、ニャ?**」
「ああ。空気が混ざるからだ」
「**……ふむ、ニャ**」
ファーファが頷いた。背のニャルニルからぼそっと声がした。
「**……気泡、光散乱、白色化、です**」
「同じことを、別の言い方で言ってるな」
リンがふっと笑った。
トーマスが舵を切って、船首を遺跡の脇に向けた。風がやや強くなっていた。空の南西の縁は、もう半分が灰色だった。
「リン、ファーファ舷側、離れろ。波、被るぞ」
トーマスが言った。リンとファーファが舷側から一歩下がった。
船が遺跡に近づいた。遺跡の影が、船の上に覆い被さるようになる。トーマスが舵をほぼ反対側に切った。船首が遺跡からわずかに離れる方向に向く。
「停泊、ここだ。錨、降ろせ」
トーマスがタロに指示を出した。タロともう一人の船員が船首の方へ走り、錨を海中に降ろした。鎖が、ガラガラと音を立てながら伸びていく。やがて、鎖が止まった。錨が海底に着いた、ということだった。
「停泊、完了」
タロがトーマスに報告した。
「ご苦労」
トーマスが舵から手を離した。船は錨で繋がれ、波に揺られながら遺跡の脇で止まっていた。
「サイラスを呼ぶか」
エルナが言った。
「ああ。ここから先は、海洋国家の役人が、立ち会う」
リンが頷いた。
サイラスが船室から上がってきた。海面の緑がかった色。遺跡の塔。そして、空の南西の、灰色。それらを一瞥して、サイラスがぽつりと言った。
「これは嵐が、来ますね」
「来る」
トーマスが短く答えた。
「遺跡の調査は、嵐が過ぎてからですか」
「そうしたい。今、潜るのは、危ない」
「分かりました。今は、停泊だけで」
サイラスが頷いた。
その時だった。
ファーファが舷側の方をぴくりと向いた。
「**主**」
「ん」
「**何か来る、ニャ**」
リンがファーファの視線の方を見た。最初は、何も見えなかった。波しか見えなかった。
ニャルニルから声がした。
「**……船影、複数、確認**」
エルナが駆け寄って、舷側からその方角を見た。
「ある」
エルナが短く言った。
「船?」
「三隻」
エルナが舷側から離れて、トーマスの方へ走った。
「トーマス。船、来てる」
「数」
「三」
「方角」
「南東、こっちに向いてる」
トーマスがすぐに舵輪の方へ戻った。エルナが続く。
「商船じゃねえな」
トーマスがぽつりと言った。
「商船、こんな海域、来ねえ」
「商船じゃないとすると」
「海賊、だ」
トーマスが短く言った。
リンの内側で独り言が走った。
——海賊か。
魔力の漏出が、海域全体に広がっていた。生態系が歪んでいた。生き物が、近づかない。それは漁師たちには、漁にならない海域だった。だが、海賊にとっては、別だった。漁師が来ない海域は、他の船に見つからない海域でもあった。隠れるのに都合がいい。
「リン、ユミルファーファ。戦闘、だ」
トーマスが舵を握ったまま、短く言った。
「分かった」
リンが頷いた。ユミルが舷側に立った。ファーファがリンの脇に来た。背のニャルニルから戦闘前の、低い声がぼそっと響いた。
「**……戦闘、開始**」
南西から雲がもう一段、低くなった。風が強まっていた。海面の波が白く砕け始めていた。
海賊船が近づいてきた。三隻。中型の帆船でそれぞれが、こちらの船よりは、やや小さい。しかし、三隻だった。船首には、それぞれ武装した人影が、五人から六人。
エルナが舷側に立ち、海賊船の方を見ていた。
「数は、二十、ちょっと」
「分かる、のか」
「数えた」
エルナがぽつりと言った。
リンの内側で独り言が走った。
——宿屋の女将、だな。
エルナの視線の置き方は、戦闘の経験がある者の、それだった。落ち着いていた。無駄が、無かった。
トーマスが舵を握ったまま、空を一瞥した。雲がもう頭の上まで来ていた。風は強まる一方だった。波が船をより大きく揺らし始めていた。
「嵐と海賊、同時、か」
トーマスがぽつりと言った。
「動けるか」
「動ける。ただし、雷は使えねえ」
「雷?」
「魔法だ。俺の。雷の魔法だ」
トーマスがそれで黙った。
リンは頷いた。トーマスが雷の魔法を使えるとは、知らなかった。だが、今、それを使えない、と言った。理由は、すぐに分かった。雷の魔法を嵐の中で使えば。海面に伝う。船の上の、全員に伝う。
「ユミル」
「**はい**」
「光のカーテン、できるか」
「**……できます**」
「船を覆ってくれ。海賊の矢、と海面からの雷、両方を防ぐ」
「**了解です**」
ユミルが舷側に立ち、両手を軽く前に出した。
光がユミルの掌から薄く、広がっていく。光は空気中に薄い半透明の幕を作った。船全体をドーム状に覆っていく。
「**ファイアウォール、応用、です**」
ユミルがぽつりと言った。
光のカーテンが、船を覆った。風と波は通すが、矢とおそらくは雷も防ぐ。半透明だから外の様子も、見える。
「リン、お前は」
「俺、雷、試す」
リンがぽつりと言った。
「雷?」
「俺の自力じゃ、海賊船まで届かねえ。素朴な放電だ。だが、ユミルが居れば、雲、引っ張れる」
「ユミル経由か」
「ああ。雲があれば、撃てる。今は、嵐の真っ只中だ」
「だな」
トーマスが頷いた。トーマスはそれ以上、何も聞かなかった。
リンが舷側に立った。ユミルがリンの隣に来た。
「**……リン様、雲の電位、誘導します**」
「頼む」
「**……exec.discharge、出力します**」
ユミルが両手を軽く前に出した。掌の間に薄い青白い光の点が生まれた。
リンが右手を海賊船の方へ伸ばした。ユミルの掌の青白い光がリンの掌の上を、伝った。
「**……リン様、波、観測、しています**」
「タイミング、測ってくれ」
「**……はい**」
ユミルが、海面のうねりを、見ていた。海賊船が、波の谷に沈み、また上がる。沈み、また上がる。一回ごとに、船の高さが、変わる。最も高く、上がった瞬間、海賊船のマストの先端は、こちらの船のマストよりも、わずかに、高くなる。その、一瞬。
「**……リン様、次の、波、頂点、来ます**」
「いつ」
「**……三、二、一**」
「雷、来い、exec.discharge」
リンが詠唱を、口にした。普段、自分の口にしない、英字の混じった言葉だった。
ユミルの光がリンの手から、空気の中へ走った。雲の中で何かが応じた。一拍、置いて。雲から青白い光が垂直に近い角度で、海賊船の一隻に落ちた。
落ちたのは、海賊船のマストの先端だった。
——一番、高いところ、に、落ちた。
リンの内側で、独り言が走った。
雷は、狙って当てるものではなかった。空から、最も高い場所へ、落ちる。海賊船が、波の頂点に、乗った瞬間。マストの先端が、自船のマストよりも、わずかに、高くなった。その、一瞬を、ユミルが、計測した。リンが、撃った。
マストが、真っ二つに裂けた。帆が、燃えながら、海面に、落ちた。船員たちの叫び声が、風に流れて、聞こえた。
ユミルの光のカーテンが船を覆っているおかげで、雷はこちらに戻ってこなかった。
「**……効率、良い、攻撃**」
ニャルニルがぼそっと言った。
「だな」
リンがぽつりと答えた。
リンが自分の右手を軽く見た。ぴりと軽い、痺れが、残っていた。
——慣れねえな。
リンの内側で、独り言が走った。
ユミルがぽつりと言った。
「**……リン様、もう一発、出力、可能、です**」
「いける」
「**……同じ、出力で、いいですか**」
「ああ」
ユミルが頷いた。
しかし、海賊船は二隻、残っていた。そして、二隻とも、こちらの船に向かって突進してきていた。最初の一隻が裂けたのを見て加速したのだ。距離を詰める気だ。
「ファーファ」
リンが声をかけた。
「**ニャ**」
「斧、出せるな」
「**出せる、ニャ**」
ファーファが背のニャルニルを降ろした。ニャルニルが地面に立った。斧頭がぽっ、と火を灯した。
「**……戦闘、態勢、です**」
ニャルニルからぼそっと声がした。
リンの内側で独り言が走った。
——ファーファに近距離、任せる。
海賊船がこちらの船に横付けされる距離まで来ていた。あと五十メートル。四十メートル。三十メートル。
「**ファーファ、行く、ニャ**」
ファーファがニャルニルを両手で握った。火が斧頭から強く、立ち上った。
ファーファが舷側を軽く、跳び越えた。光のカーテンをすり抜けて、海賊船の方へ、跳んだ。
「**……ファーファ様、進攻、確認**」
ニャルニルから声がした。空中を跳んでいるあいだも、ニャルニルの声はぼそっと響いた。
ファーファが二隻のうちの、一隻に着地した。海賊たちが、武器を構えた。
最初の一人が、剣を振り下ろした。
ファーファが斧——ニャルニル——を軽く、横に振った。斧頭の火が海賊の上半身を包んだ。海賊が後ろに倒れた。剣が、甲板に落ちた。
二人目、三人目が左右から襲いかかった。
ファーファが跳んだ。斧——ニャルニル——を振り下ろしながら跳んだ。
火が二人の上半身をほぼ同時に包んだ。
「**……火、強い、です**」
ニャルニルから声がした。ファーファに報告するような、調子だった。
「**ニャル、もっと強く、できる、ニャ?**」
「**……可能、です**」
「**じゃあ、強く、ニャ**」
「**……了解**」
斧頭の火がもう一段、強く燃えた。
ファーファが海賊の一隻の、甲板を駆け抜けた。火が敵を薙ぎ払っていく。
その間にもう一隻の方が、こちらの船に横付けされた。
エルナが舷側に立っていた。手には、宿屋から持ってきた、短剣。海賊たちが、舷側を乗り越えようとした。
エルナが短剣を振った。
最初の海賊が舷側で止まった。エルナの短剣が、その喉に触れていた。
「降りな」
エルナがぽつりと言った。
海賊が後退りした。エルナが短剣を握り直した。
「来るなら来い。私が、相手だ」
リンの内側で独り言が走った。
——本当に宿屋の女将なのかこいつは。
エルナの動きは、明らかに戦闘の訓練を受けたものだった。短剣の握り方、間合いの取り方、視線の置き方。すべてが、宿屋の女将のそれでは無かった。
その時だった。
トーマスが舵輪の前でぽつりと何かを呟いた。
リンがトーマスの方を見た。
トーマスは舵輪を握ったまま、海賊船の方を見ていた。何かを確認するように見ていた。
「……これだ」
トーマスがぽつりと言った。
「**……あの時のと同じ**」
リンの内側で独り言が走った。
——あの時、っていうのは。
トーマスはそれ以上は、言わなかった。舵を握り直した。
リンはそれを覚えておくことにした。
ユミルがぽつりと言った。
「**……リン様、二発目、出力、します**」
「ああ」
「**……二隻目、観測、しています。次の頂点、来ます**」
ユミルの掌の青白い光が再びリンの手を伝った。リンが二隻目の海賊船に手を向けた。
「**……三、二、一**」
「雷、来い、exec.discharge」
雷がもう一つ、二隻目のマストに落ちた。マストが裂けた。海賊たちが、海面に投げ出された。
ファーファが最初の船から跳んで戻ってきた。光のカーテンをすり抜けて、こちらの船の甲板に着地した。背にニャルニルを戻した。
「**戻った、ニャ**」
「ご苦労」
リンがぽつりと言った。
ファーファの背のニャルニルからぼそっと声がした。
「**……敵船、二隻、機能停止**」
「だな」
残りの一隻——三隻目——は、すでに距離を取り始めていた。雷で一隻、ファーファで一隻。残った一隻は、戦闘の継続を放棄した。逃げる方向に舵を切っていた。
リンの内側で独り言が走った。
——情報を取りたい。
逃げる海賊船を追わないとリンは決めた。雷をもう一発、落とせば、沈められる。だが、それでは情報が、取れなかった。誰の差し金でどこから来たのか。それを調べる方が、後々、役に立つ。
「逃がす」
リンがぽつりと言った。
トーマスが舵を握ったまま、リンの方をちらりと見た。
「いいのか」
「いい。情報を取る方が、優先だ」
「分かった」
トーマスが頷いた。
風がもうかなり、強かった。雨が降り始めていた。海面の波がぐんぐんと高くなってきている。
「ユミルカーテン、続けろ」
「**続けています**」
「持つか?」
「**……持ちます**」
ユミルが両手を前に出したまま、答えた。
雨が本格的に降ってきた。視界が、ぐっと狭くなった。海面が見えなくなる。ただ、雨の音と波の音が、頭の上を覆った。
エルナがリンの隣に立った。短剣を納めていた。
「お前」
「ん」
「無理、すんな」
エルナがぽつりと言った。
「無理は、してねえ」
「雷、二発、撃ったろ」
「ああ」
「あれ結構、消耗するんじゃねえのか」
「分かるのか」
「分かる」
エルナがそれだけ言った。
リンは頷いた。確かに消耗はしていた。雷の魔法は、自然界の現象を一瞬で引き寄せる。引き寄せる規模が大きいほど、術者の方の負荷も、大きい。今の二発は、それほど、大きい雷ではなかった。だが、嵐の中で撃ったから雲との同調に神経を使った。
「あと何発、撃てる」
「もういい。当面は、撃たねえ」
「分かった」
エルナが頷いた。
嵐は、本格的に来ていた。船が波に大きく、揺れた。光のカーテンの中はまだ安全だった。だが、外は、視界も、無く、ただ雨と波と風だった。
トーマスが舵を握ったまま、嵐の中に立っていた。
リンはトーマスの背をしばらく、見ていた。
「……これだ、あの時のと同じ」
その言葉が、頭の中に残っていた。
「あの時」が、いつのことなのか、リンにはまだ分からなかった。
【了】




