120 沖合の異常
夜明けの少し前、リンは目を覚ました。
第二交代の見張りに上がる時間だった。船室は暗かった。
ファーファは足元で丸くなっていて、ユミルは隅の毛布の下で規則的な呼吸を繰り返していた。
リンは音を立てないように起き上がり、上着を羽織って、甲板への階段を上がった。
甲板は冷えていた。
トーマスが舵輪の前に立っていた。船員のタロは舵の脇で何か地図のようなものに線を入れていた。見張りの交代時刻だった。
「来たか」
トーマスが短く言った。
「ああ」
「タロ、お前、降りていい。少し寝とけ」
タロが頷き、地図を畳んで船室の方へ降りていった。リンとトーマスが甲板に二人になった。
「異常は」
「無い。風は安定してる。舵は右舷側に少し当ててる。海流が、そっちに流してる」
「分かった」
リンが舵輪の脇に立つ。トーマスが舵をリンに渡そうとはしなかった。たぶん、リンには舵は扱えない、と判断したのだろう。それで合っていた。リンは舵の代わりに海面と空を見る役だった。
東の空が薄く白み始めていた。星はまだ、半分以上残っていた。海面は夜のあいだに少しうねりが大きくなっていた。
「波、上がったな」
リンが言った。
「ん。沖の中、入ってきた」
「これくらいは、普通か」
「普通だ。これより、上がる時もある」
トーマスがそう言って、舵をわずかに切った。船首がほとんど分からないくらいに角度を変える。
しばらく二人とも黙っていた。
東の空が少しずつ明るくなった。橙が広がり、その上の藍が薄れていく。星が一つ、また一つ、消えていった。
「リン」
トーマスが舵輪に手を置いたまま言った。
「ん」
「お前、寝言、言うらしいな」
「言うらしい」
「ファーファが星座、知ってたぞ」
「俺の寝言、聞いてたんだろ」
「らしいな」
トーマスが少し笑った。声に出さない、息だけの笑いだった。
「俺の寝言、ろくなもんじゃねえだろ」
「ろくなもんじゃねえ、内容なら一晩じゅう聞いても、誰も困らねえ」
「困るやつは、どんなのだ」
「真面目な内容、だ」
リンもふっと笑った。
「真面目な内容、寝言で言ってたか?」
「南十字、の話は、真面目な寝言だ」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」
トーマスがそう言って、また舵をほんの少し切った。
東の空がもう一段、明るくなった。雲の縁に橙が滲んでいた。海面の色が夜の藍から深い緑に変わっていく。波の頭がかすかに白く見え始めた。
「リン」
「ん」
「もう少し、行くと海の色、変わる」
「変わる?」
「沖の遺跡の近くだ。海の色が青からもう少し薄い色になる。深さが、変わる、ってわけじゃねえ。海底の何かが、影響してる、らしい」
「らしい、っていうのは」
「俺も、見たことがある、っていうだけだ。何が原因かは、知らねえ。じいさんが、生きてた頃に聞いた」
「じいさん、っていうのは、エーギル家の」
「祖父、だ。船を扱える、最後の世代だった」
トーマスがそう言って、舵を握り直した。
リンは海面の方をしばらく見ていた。まだ色は変わっていない。深い藍と緑のあいだの色だった。
ファーファが甲板への階段を上がってきた。
「**主、起きた、ニャ**」
「起きた」
「**ファーファも起きた、ニャ**」
「だな」
ファーファがリンの足元に来て、海面を覗き込んだ。背のニャルニルからぼそっと声がした。
「**……日の出、観測**」
「だな。もうすぐ、太陽、出る」
「**……新しい、刺激、です**」
「日の出は、新しいか」
「**……はい。光、増加、空気の温度、変化、海面の反射、変動、です**」
「物理的だな」
「**……はい**」
ニャルニルがそれで黙った。ファーファが自分の背をぽんと一度叩いた。
「**ニャル、ファーファも見る、ニャ**」
「**……了解、です**」
ファーファが海の方に向き直る。リンも海を見た。
太陽が水平線の縁から顔を出した。海面が一気に光った。船首の方、波の頭、帆のへり。すべてが、橙に染まる。海と空の境目が白く溶けた。
「**……綺麗、ニャ**」
ファーファがぽつりと言った。背のニャルニルから声は無かった。
リンもしばらく動かなかった。
光がゆっくり広がっていく。海面の色が橙から明るい青に変わっていった。雲が薄い灰色から白に変わった。風が少し強まった。
トーマスが舵を切った。
「沖、入った」
トーマスが短く言った。
「沖?」
「夜のあいだにもう、入ってた。日が出て、見えるようになっただけだ」
リンは海面を見回した。岸はもう、どこにも無かった。三百六十度、海と空だった。船はその真ん中にぽつんと浮かんでいた。
エルナが甲板に上がってきた。第三交代の時間だった。
「お前ら起きてたか」
「起きてた。日の出、見てた」
「綺麗だったか」
「綺麗だった」
エルナが舵輪の脇に来て、トーマスの隣に立った。
「トーマス。お前、寝とけ」
「ん」
「私が、見張る」
「分かった」
トーマスが舵をエルナに渡した。エルナは舵に手を置いて、しばらく感触を確かめてから、トーマスの方をちらりと見た。
「曲がってるか?」
「曲がってねえ。風、左舷から来てる。舵はほんの少し、右に当ててる」
「分かった」
エルナが舵をトーマスから受け取った。トーマスが一歩、舵輪から離れる。
「リン、お前も、寝てていい」
エルナが言った。
「いや、起きとく」
「沖、これからしばらく、退屈だぞ」
「退屈は、慣れてる」
エルナがふっと笑った。
トーマスが船室の方へ降りていった。エルナとリンとファーファが甲板に残った。エルナは舵を握ったまま、しばらく黙っていた。
「リン」
「ん」
「お前、トーマスのことどう見てる」
「どう、っていうのは」
「船長としての、トーマスだ」
「板についてる」
「ん」
「店先のトーマス、と別人だ」
「別人、じゃ、ねえよ」
エルナが舵を握ったまま、海の方を見ていた。
「あれが、本来の、トーマスだ」
「本来」
「家の、血、ってやつだ」
エルナがそれだけ言った。
リンは頷いた。それ以上は、聞かなかった。
太陽がもう少し高くなった。海面の青が深くなっていった。
しばらく経って、ファーファが海面を覗き込んでいるのに気付いた。
「**主**」
「ん」
「**海、色、変わった、ニャ**」
リンが舷側に手を置いて、海面を見た。
確かに海の色が変わっていた。
さっきまで深い青だった海面が薄い、緑がかった青に変わっていた。境目がはっきりしているわけではないが、明らかに色のトーンが違う。船はその色の変わり目を跨いで進んでいた。
「エルナ」
「ん」
「色、変わった」
「変わったか」
エルナが舵を握ったまま、海面を一瞥した。
「ああ。変わってる」
「これが、トーマスの言ってた、やつか」
「これが、第二遺跡が近い、っていう、合図だ」
エルナが言って、舵をほんの少し切った。船首がわずかに角度を変える。
「もう、半日もしねえうちに見えてくる」
「見える?」
「海上遺跡だ。海面に出てる」
「海面に出てる、のか」
「半分、出てる。半分、沈んでる。そういう、形だ」
リンは頷いた。海上に半分出ている遺跡。最初の遺跡——漁村側の祠の遺跡——とは、形がだいぶ違うらしい。
ユミルが甲板に上がってきた。リンの隣に来て、海面を覗き込んだ。
「**……海面の色、変化しています**」
「変わった」
「**温度も変わっています**」
「温度?」
ユミルが舷側に手を伸ばし、指先を海面に触れた。一瞬、触れて、すぐに引いた。
「**……二度ほど、低い、です**」
「冷たくなった、ってことか」
「**はい**」
「広い範囲で?」
「**……境界、明確、です。色の変化とほぼ、同じ位置です**」
ユミルが海面を指差した。船の進行方向、海面の色が変わっている境目。そこを境に海水の温度が二度低い。
リンの内側で独り言が走った。
——魔力の漏出、か。
漁村側の遺跡——第一遺跡——は、地脈の魔力を不規則に漏出していた。それが、漁村の周辺の生態系を歪めていた。今、目の前の海域は、それと同じ性質のものをもっと広い範囲で起こしている可能性があった。海水の温度をわずかに下げるほどの、漏出。
「ユミル」
「**はい**」
「これは、第一遺跡と似てるか」
「**……似ています。ただ、規模が違います**」
「規模?」
「**……第一遺跡の漏出は、局所的でした。ここは、海域全体に広がっています**」
「もう、稼働してる、ってことか」
「**……稼働の可能性、高いです**」
ユミルが海面を見たまま言った。
リンは頷いた。
「エルナ」
「ん」
「進路、変えるか」
「変えねえ。これが、目的地だ」
エルナが舵を握ったまま言った。
「ただし、近づいたら慎重に行く。トーマスを起こす」
「分かった」
エルナが舵をほんの少し切った。船は緑がかった青の海面を進み続けた。風は安定していた。雲が少しずつ、増えていた。
ファーファが海面を見ながらぽつりと言った。
「**……魚、いない、ニャ**」
リンが海面を見た。確かに魚影が、無い。さっきまでは、時折、銀色の影が見えていた。今は、見えなかった。
「逃げてる、のかな」
「**……逃げてる、ニャ**」
「そういうもん、なんだろうな」
リンが言った。
第二遺跡は生き物の居ない領域に半分顔を出している。それは、第一遺跡と同じ性質だった。生き物は、本能で近づかない。
太陽が中天に近づいた頃。
ファーファが最初に気付いた。
「**主、何か見える、ニャ**」
リンが進行方向を見た。最初は、何も無かった。次の瞬間、波の頭の向こうに薄く、灰色の影が見えた。
それは、岩のようでもあり、塔のようでもあった。海面から垂直に突き出ていた。
「**……海上遺跡、確認**」
ニャルニルからぼそっと声がした。
エルナが舵を切った。船首がその影の方角にわずかに向き直る。
「トーマスを起こせ」
エルナが言った。リンが頷いて、船室への階段を降りた。
【了】




