119 トーマス船長
港の朝は、霧の名残もなく明るかった。
リンは桟橋の手前で立ち止まり、目の前の船を見上げた。エーギル家所有の中型船。二本マストの帆船で、船腹は黒に近い青で塗られていた。船首には魚の意匠が彫り込まれている。古い船だが手入れは行き届いていた。船べりの木材の継ぎ目は、新しく油が塗り直されていた。
「**でかい、ニャ**」
ファーファが背後で声を上げた。背のニャルニルが、ぼそっと声を返す。
「**……運搬、可能**」
エルナが船尾の方から手を振った。
「お前ら、来たか。荷積み、もう終わってる」
リンが頷く。荷物は昨日のうちに運び込んでいた。今朝はもう、人だけ乗ればよかった。
トーマスが舳先の方で、船員と話していた。普段の魚屋の店先で見るより、声が一段低かった。指の動きが違う。縄の結び目を確かめながら、短く頷いている。船員の方もトーマスの言葉を聞き返さない。一度で通じている。
「兄貴、船長、似合うな」
ルークが横から言った。トーマスがちらりと振り返る。
「似合う、じゃねえ。乗らなきゃならねえだけだ」
「乗らなきゃならねえだけ、で、その手の動き、できねえだろ」
ルークが少し笑った。トーマスは答えず縄に手を戻した。
リンの内側で、独り言が走った。
——家の血、だな。
エーギル家は、港町の古い家系だった。祭祀の知識はもう途絶えているが船を扱う技だけは家の中に残っていた。トーマスが魚屋の店主であることと船を扱えることは矛盾しないらしかった。むしろ、店で魚を捌くのと同じ動きで、縄を扱っていた。
サイラスが桟橋の端から歩いてきた。海洋国家の使節はいつもの上着の上に短い外套を羽織っていた。海風で襟元が揺れている。
「皆さん、お待たせしました。書類は、整っております」
サイラスが軽く頭を下げた。リンが頷き返す。
「同行、感謝する」
「いいえ。私の役目です。第二遺跡は海の上ですから。海洋国家の人間が居ないというわけにも参りません」
サイラスの言い方は丁寧だが芯があった。リンはこの男の役人としての姿勢を少し信頼するようになっていた。
ユミルが船の側で立っていた。手すりに軽く手を置き海の方を見ている。
「**……塩、濃い、です**」
「だな」
リンが横に並ぶ。ユミルがちらりとリンを見た。
「**水分が蒸発して、空気に塩が含まれます**」
「淡水と違うってことだな」
「**……はい**」
ユミルがそう言って、また海を見た。リンは、ユミルが「淡水と違う」というだけのことを、いちいち確認しているのに気付いていた。ユミルは船に乗ったことがたぶん無いのだ。少なくとも記憶のある範囲では。
「乗るぞ」
エルナの声が船尾から飛んだ。
七人が桟橋から船に乗り移った。船員が舫を解く。帆が上がる。風を孕む音が、ばさりと頭の上で鳴った。
港の建物がゆっくり後ろに下がっていった。
最初に動いたのは海面の方だった。船が港を出ると、波の高さが変わった。湾内の穏やかな水面から、外海のわずかに肩を持ち上げるような波に変わる。船首がゆっくり上下を始めた。
ユミルが舳先の方に寄って海面を覗き込んだ。
「**……速度、出ています**」
「帆船だ。風があれば、それなりに走る」
「**風が燃料、ですね**」
「燃料、っていうか、まあ、そうだ」
ユミルが少し考えるような顔をした。
「**……効率、良い、です**」
「だな」
リンも舳先に手を置いた。海面が船の下で割れて白い泡が後ろに流れていく。
ファーファがリンの足元に来て海面を覗き込んだ。
「**主、下に魚、いる、ニャ?**」
「いる、と思うぞ。深いから、見えねえだけだ」
「**深い、ニャ**」
ファーファが、ふむ、と頷いた。背のニャルニルから、ぼそっと声がした。
「**……深度、不明**」
「だな。深さは、分からねえ」
リンがそう答える。ニャルニルの口数は相変わらず少ない。ただファーファが背に居る間は、時折こうして声を返す。
トーマスが舵輪の前に立った。船員の一人が隣で何か指示を待っている。トーマスが短く頷き、舵を切った。船首がわずかに沖の方角へ向き直る。
リンはトーマスの背を少し見た。
普段の店先のトーマスは、声も動きもやや力を抜いていた。短くぶっきらぼうに、それでも客の応対は確実にこなす。あの姿だった。
舵輪を握っているトーマスは違った。背が真っ直ぐで首の角度が定まっている。風の向きを確認するために時々首だけを横に振る。手の位置は舵輪のいつも同じ場所だった。
——慣れている、だな。
リンの内側で、独り言がそう言った。
エルナが甲板の中央で荷の確認をしていた。樽が三つ、木箱がいくつか。エルナはその一つ一つに手を当てて固定の縄を確かめていた。
「揺れるぞ。沖に出たら」
エルナがリンに声をかけた。
「だろうな」
「お前、船、酔うか?」
「分からねえ。乗ったことが、あんま、無い」
「酔ったら言え。何かしら、ある」
エルナが言って、樽の縁をぽんと叩いた。リンは頷いた。エルナの手際は宿屋の女将としての地続きだった。
ルークが船の側で、ぼうっと海を見ていた。普段は兄の隣に立っていることが多いルークが今は一人で舷側に手を置いている。
「ルーク」
リンが声をかける。ルークがちらりと振り向いた。
「ん」
「初めてか、これ」
「沖は、初めてだ。沿岸は、何度かある」
「兄貴の手伝いか」
「ん。荷の積み下ろし、何度か」
「兄貴は、よく乗るのか」
ルークが少し黙った。それからぽつりと言った。
「最近は、あんま、乗らねえ」
「最近は」
「数年、乗ってねえ、と思う」
リンは頷いた。それ以上は聞かなかった。ルークも、それ以上は言わなかった。
舵輪のトーマスの背が、まっすぐだった。
船は順調に沖へ進んでいた。港町の建物が遠くなり岸の輪郭が低くなっていく。やがて岸はうすい線になり、海と空の境目だけが残った。
二日航路、とトーマスは出立前に言っていた。第二遺跡は沖合のかなり奥にある。半日で着く距離ではない。一晩船の上で過ごす必要があった。
太陽が中天を過ぎた頃、エルナが昼の支度を始めた。船の中央に簡易の卓があり、その上に乾いた魚と、堅いパンと、酒の入った瓶が並んだ。
「食え。沖に出てから食うと、酔う奴は酔う」
エルナが言った。船員たちは交代で食う形で、トーマスは舵をもう一人の船員に預けて、卓の方に来た。
「兄貴、舵、いいのか」
「タロは、舵、できる。沖は風、安定してっから、しばらくは大丈夫だ」
トーマスが言って、堅いパンを一片千切った。リンはトーマスがパンを食う動きを、ちらりと見た。普段の魚屋でも、トーマスが何か食っているところをリンは見たことが無かった。店で魚を捌きながらふと顔を上げて、客に短く応える。あの動きはあったが食う動きは見ていない。
舵輪を離れたトーマスは少しだけ、店先の方の顔に戻っていた。
サイラスが酒の瓶を手に取って、トーマスに差し出した。
「一杯、いかがですか」
「沖の最中だ。一杯にしとく」
トーマスが受け取って瓶を傾けた。サイラスがそれを見届けて自分の杯にも少しだけ酒を注いだ。
「立派な船ですね」
サイラスが言った。
「古いだけだ」
「いえ。古いがよく手入れされている。船腹の塗料、新しいですね」
「去年、塗り直した」
「ご自身で?」
「俺と、タロと、ルークで。三日かかった」
サイラスが、ふむ、と頷いた。
「家のもの、ですか」
「家のもの、だ」
トーマスが短く言った。一拍置いてもう一度言った。
「家、のもの、だ」
サイラスは、それ以上は聞かなかった。
リンの内側で、独り言が走った。
——「家のもの」を、二度、言ったな。
意味はたぶん二つあった。一つはエーギル家の所有である、という事実。もう一つはたぶん別のものだった。リンにはまだその輪郭が掴めなかった。ただトーマスがあの言葉を二度、ゆっくり言ったということだけ覚えておくことにした。
エルナがトーマスの隣に座っていた。普段ほど距離は無かったが特に何を話すでもなかった。エルナはパンを千切って、自分の杯に酒を少しだけ注いでゆっくり飲んでいた。トーマスも自分の杯のことを見ていた。
二人とも何も話していなかった。ただ隣り合って座っていた。
ファーファが、卓の端に来た。
「**主、魚、ある、ニャ**」
「あるな」
「**焼く、必要、ある、ニャ?**」
「焼かなくていい。乾いた魚だ。そのまま食える」
「**……乾いた、魚、ニャ**」
ファーファがちょっと首を傾げた。乾物にあまり馴染みが無いらしかった。リンは乾いた魚を一切れファーファに渡した。ファーファがそれを口に運ぶ。
「**……硬い、ニャ**」
「硬いだろうな」
「**でも、味、濃い、ニャ**」
「味は、乾かした方が濃く、なる」
「**ふむ、ニャ**」
ファーファがもう一片、自分で取りに行った。背のニャルニルから、ぼそっと声がした。
「**……保存食、効率、良い**」
「だな。船の上は、保存食が、便利だ」
ファーファがふと足を止めた。背の方をちらりと振り返った。
「**ニャル、今日、よく話す、ニャ**」
ファーファが言った。背のニャルニルから、わずかに間があった。それからぼそっと声が返った。
「**……海、初めて、です**」
「**ニャ**」
「**……塩、湿度、空気の流れ、未知の刺激、です**」
リンが卓の向こうから少し笑った。
「ニャル、海、楽しんでるのか」
「**……楽しい、不明。情報量、多い、です**」
「情報量、多い、か」
「**……はい**」
ニャルニルが、それで黙った。ファーファが自分の背を、ぽんと一度、軽く叩いた。
「**ニャル、いっぱい見て、ニャ。後で、主に報告、ニャ**」
「**……了解、です**」
ニャルニルがまた短く返した。
リンの内側で、独り言が走った。
——馴染んできた、な。
ニャルニルがファーファの背に居るようになって、もう少し時間が経っていた。最初はほとんど何も話さなかった。今はこうして、断片だが言葉を返す。「未知の刺激」と言ったあれはたぶん、戦槌の方の素直な言い分だった。情報を集めるという形でしか、この世界に触れられない、戦槌としての立ち位置がある。それでも海を、初めて見ているのだ。
ニャルニルの口数は少ないが的確だった。たまにファーファより整理された言い方をする。リンはそれを聞きながら、酒の杯を傾けた。
午後になると、風が少し強まった。船の傾きがわずかに大きくなる。トーマスは舵輪に戻り、舵を切った。船首がまた少しだけ角度を変える。
ユミルがリンの隣に立った。
「**……船が、進路を調整しています**」
「風が変わった、っていうことだな」
「**はい**」
「トーマスは、それを感じてる」
「**……はい。皮膚で、感じています**」
ユミルがそう言った。リンはちらりとユミルを見た。ユミルは舵輪の方を見ていた。
「皮膚で、か」
「**……風の温度、湿度、流速、それから、たぶん、もう少し別の何か**」
「もう少し別の、何か」
「**……家の、血、かもしれません**」
ユミルがそう言った。
リンは、答えなかった。ただ、頷いた。
夕方が近づくと、海の色が変わってきた。昼の青が次第に濃くなり、深い藍に傾いていく。空の方も雲の縁に橙が混ざり始めた。
「夜は、交代で見張りだ」
トーマスが告げた。
「俺と、タロと、もう一人の船員で、三交代する。お前らは、寝てていい」
「俺も、入る」
リンが言った。
「いい、のか」
「夜の海、見てえ。それに、二日も寝るのは性に合わねえ」
トーマスが少し考えて頷いた。
「じゃあ、第二交代に入れる。真夜中だ」
「分かった」
エルナが横から、
「私も、入る」
と言った。
「姉さん」
「夜中の見張り、お前一人で背負うのか」
「俺と、タロと、船員で、回せる」
「三人交代と、四人交代だと、違う。お前、楽になる」
「……」
トーマスがエルナの方を、ちらりと見た。エルナは樽の縁に手を置いて、まっすぐトーマスを見ていた。
「分かった。じゃあ、姉さんは第三交代だ。明け方手前の、一番寒い時間だ」
「いい」
エルナが頷いた。
リンはエルナとトーマスのやり取りを、横で見ていた。エルナの「楽になる」という言い方は宿屋の女将の論理だった。人手は多い方が回る。それは合っていた。ただエルナの目の置き方は、宿屋の客への目の置き方ではなかった。
——……まあ、いい。
リンの内側で、独り言が、それだけ言った。
夜が来た。
船は速度を落とし、緩やかに前進を続けていた。星が出ていた。岸の灯りはもう見えなかった。海と空が一続きになって、星だけが上下に散らばっていた。星の一部が水面で揺れていた。
ファーファが甲板に座って上を見ていた。背のニャルニルが、ぼそっと声を返した。
「**……星、多い**」
「**多い、ニャ**」
ファーファが小さく頷いた。
リンもファーファの近くに座った。星の見え方は王都の街中とは違っていた。光源が無いから、星が深いところまで見えた。普段は気付かないような暗い星がいくつも並んでいた。
「ファーファ」
「**ニャ**」
「星座、覚えてるか」
「**……寝言で聞いた、ニャ**」
「俺の寝言、か」
「**……はい、ニャ**」
リンは少し笑った。寝言で星座の話までしていたらしかった。
「どんなのだ」
「**……魚座、ある、ニャ**」
「魚座」
「**それから、こう、十字の星、ニャ**」
「十字の、星」
「**主、それ見つけたら、南、分かる、ニャ、と、言った、ニャ**」
ファーファが、空を指差した。指の方角に明らかにそれと分かる、四つの星の十字があった。少し傾いていたが確かに十字だった。
「南十字、だな」
「**ミナミジュウジ、ニャ**」
ファーファが、繰り返した。背のニャルニルから、ぼそっと声がした。
「**……方位、確認**」
「だな。あれが見えれば、南が分かる」
「**……星座、複数、記録、します**」
ニャルニルが続けて言った。リンがちらりと背の方を見た。
「ニャル、星座、覚えるのか」
「**……はい。位置、保存、可能、です**」
「便利だな」
「**……主、必要、なら、検索、可能、です**」
「分かった。覚えとく」
リンは空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
夜の風は昼より塩気が強かった。船はゆっくり前進していた。トーマスは舵輪の前で夜の海を見ていた。エルナはまだ寝てはいないらしかった。樽の近くで毛布を膝にかけて座っていた。
リンの内側で、独り言が走った。
——明日、第二遺跡だ。
短く、それだけ言った。
ファーファが横で小さく欠伸をした。背のニャルニルから、ぼそっと声がした。
「**……主従、就寝、推奨**」
「だな。寝るか、ファーファ」
「**……寝る、ニャ**」
ファーファが立ち上がってリンの後ろをついてきた。船室への階段をリンが先に降り、ファーファが続いた。
ユミルは既に船室の隅で毛布をかぶって座っていた。眠ってはいなかった。リンが入ると目だけを上げた。
「**……主、就寝、ですか**」
「だな。第二交代までに、少し寝る」
「**了解、です**」
ユミルがまた毛布の下に潜った。
ファーファはリンの足元にまるくなり、すぐに目を閉じた。
リンは毛布の上に横になった。船の揺れが思ったよりは穏やかだった。木の軋む音が、ゆっくり頭の上で鳴っていた。
——明日。
それだけ思って、リンは目を閉じた。
【了】




