118 遠赤外線
港町の翌日は出立準備の日になった。
朝、トーマスが宿の土間に下りてきて、リンに言った。
「船は、出せる」
「エーギル家の船か」
「うちで一番デカいやつだ。海上遺跡まで二日。沖の波もそれなりにある。船員は俺が選ぶ」
「頼む」
「あと姉さん、お嬢、ルークの旦那、リン、サイラスさん。と相棒、ニャルニル」
「七人と二匹だな」
「一週間分の水と食料と酒、あと医療品。今日のうちに揃える」
「サイラスはどう動く」
「使節館で待機。船員と装備の調整はこっちで進める」
「分かった」
トーマスは、それだけ言って店に戻っていった。
リンとエルナは港の市場で、補給品を見て回ることになった。ユミルとファーファ、ルークは宿の部屋に残った。半日ホールの番をしていたファーファは、まだ少し疲れていた。ファーファの背のニャルニルも、火を灯さずに静かにしていた。ユミルは「整理、します」とだけ言って、ベッドの縁に道具を広げ始めた。
市場は、いつもより少しだけ活気が戻っていた。
漁村の方の話が、少しずつ街に伝わっているのが分かった。誰も「魔法使いのお嬢さん、ありがとう」とは言わなかったが、魚屋の店主がエルナが樽を覗き込むと、軽く笑ってみせるくらいの温度の変化はあった。
「樽、四つ」
エルナが店主に言った。
「水か」
「水と酒、半々で頼む」
「酒は地酒を混ぜとくか」
「混ぜとけ」
「サービスだ」
店主が、軽く笑って樽を並べ始めた。
リンは隣の店で保存食の干物と乾燥肉を見ていた。トーマスが選んだ品目通り、必要なものを揃えていく。塩、香草、酢漬けの野菜、乾パン、それから医療品。包帯、軟膏、薬草、それからユミル用のメモ帳と羽根ペン。
「お嬢、メモ帳、要るのか」
エルナが横から、聞いた。
「ユミル、遺跡で読み取ったやつを手書きで整理する癖があるんだ」
「ふうん」
「役に立つかは分からん。でも要るって言うから」
「要るなら要るだろ」
「だな」
リンは頷いた。
宿に戻ったのは夕方手前だった。
部屋に上がると、ユミルがベッドの縁でファーファに何か食べさせていた。
「**主、これ、何、ニャ?**」
「**干物、です**」
「**焼いた、ニャ?**」
「**焼いた、です**」
「**焼いた、誰、ニャ?**」
「**ニャルニル、です**」
ファーファの背の戦槌の斧頭が、ぽっと小さな火を灯していた。手のひら大の揺らがない火。
「**軽く、ニャ**」
ファーファの背中越しに、ぼそっと声が返った。
「**……了解**」
火はそれ以上大きくならなかった。
エルナが様子を見て軽く笑った。
「ニャルニル、随分慣れたな」
「**……はい**」
戦槌から、ぼそっと声がした。
「**訓練、しました**」
「役に立ってるな」
「**……役に、立てました**」
ぼそっと嬉しそうな声だった。
リンは市場の袋を土間の縁に下ろした。
「飯、どうする」
「ここで焼くか」
エルナが言った。
「市場で、ちょうどいい魚、買ってきた。トーマスの店で。鯖、二尾」
「焼くか」
「焼くか」
戦槌から、ぼそっと声がした。
「**やる、ニャ**」
ファーファがユミルの肩からぴょんと飛び降りた。背の斧頭の前で、火がぽっと灯る。火の縁が揺れない。
エルナが鯖を一尾串に刺して、火の上に軽くかざした。
「**軽く、ニャ?**」
ファーファが背に向けて確認した。
「**強く、ニャ?**」
「焼くなら強くだ」
エルナが横から言った。
「**強く、ニャ**」
ファーファが指示した。
斧頭の火が、ほんの少し大きくなった。手のひら大が皿大になる。揺れない橙の火。
鯖の皮がぱりっとなる前に、油がにじむ。
リンはそれを見ていた。
少し奇妙だった。
普通、強火で焼くと皮の表面が先に焦げる。中まで火が通るより、外側が黒くなる方が早い。だから強火で焼くなら距離を取るか、時間を短くする。
それなのに鯖の皮はこげていなかった。
橙の火に近い距離で、皮がぱりっと張ってきている。けれど黒い焦げ目はない。
そして鯖の腹がふっくらと膨らんできた。
「……」
リンは首を傾けた。
「エルナ」
「ん」
「これ、変じゃないか」
「何が」
「皮、焦げないのに中、温まってる」
エルナが串を軽く傾けた。鯖の腹に指を軽く当てる。
「……熱い」
「中、熱いのか」
「中、熱い。皮、焦げてない」
「だよな」
「中だけ温まってる」
ファーファが背に背負ったまま、火を見ていた。
「**主、これ、不思議、ニャ**」
「**不思議、です**」
「**中、温い、ニャ**」
「**温い、です**」
ユミルがベッドの縁から土間に下りてきた。火の前で軽く目を閉じた。一拍で開いた。
「**……ニャルニルの火、波長、違います**」
「波長」
「**光の波の長さ、です**」
「長いやつか」
「**長い、です。表面、通り抜けて、中を温める、です**」
リンの内側で独り言が走った。
──遠赤外線、か。
──表面の水分子じゃなく深部の水分子を直接振動させる波長。
──表面温度より内部温度が上がる。
──皮が焦げる前に身に火が通る。
「……遠赤外線、だな、たぶん」
リンがぽつりと言った。
ファーファがぴくっと耳を立てた。
「**えん、せき、がい、せん、ニャ?**」
「光の中で波の長いやつだ。表面じゃなくて、中を温める」
「**中、温める、ニャ?**」
「魚で言えば、皮を黒くしねえで身をふっくらさせる火だ」
「**ふっくら、ニャ**」
「ふっくらだ」
ファーファが満足そうに頷いた。
「**……主、教えた、ニャ**」
リンが首を傾けた。
「俺、何、教えた」
「**えん、せき、がい、せん、ニャ**」
「……寝言、か」
ユミルがベッドの縁から軽く頷いた。
「**……はい**」
「マジか」
「**本当、です**」
「俺、寝言で遠赤外線、言ってんのか」
「**言っていました**」
「いつ」
「**最近、です**」
「……」
エルナが土間の縁で笑った。
「お前、寝言で何を教えてんだ」
「俺は知らん」
「知らんって、お前」
「寝言だ」
「だから寝言だろ」
「だから知らん」
エルナがもう一度笑った。
ファーファが、背のニャルニルに、ぽんと、後ろ手で柄を撫でた。
「**ニャルニル、いい火、ニャ**」
「……はい」
「**ふっくら、火、ニャ**」
「**……訓練、しました**」
戦槌から、ぼそっと嬉しそうな声がした。
鯖は皮がぱりっと張って、中がふっくら膨らんで焼き上がった。皮の上の油が橙の火明かりで、薄く光っていた。
エルナが串を引き上げて皿に乗せた。
「食うか」
「食う」
エルナがまず一口食った。
「……うまい」
「だろ」
「皮、ぱりっと。中、ふっくら。これ、いいな」
ユミルがその後、一口食った。
「**……美味しい、です**」
「だろ」
「**ふっくら、です**」
「ふっくらだ」
ファーファがユミルの肩からぴょんと飛び降りて、皿の縁の魚屑をつついた。
「**ふっくら、ニャ**」
ファーファの背の斧頭の火が、すっと消えた。橙の名残だけが、土間の縁に薄く残った。
リンはそれを見て、それからエルナが鯖の身を骨から丁寧に外しているのを見ていた。
明日の朝が出立だった。
港町ヴェルファから沖の海上遺跡へ。
エーギル家の船で、七人と二匹で。
港の灯りが宿の窓から、薄く差し込んでいた。
【了】




