117 魔法使いのお嬢さん
漁村を出たのは昼過ぎだった。
来た道を逆に、海岸沿いを半刻、岩礁の道を半刻。岩礁の脇でトーマスは一度足を止め、第一遺跡の方角を、少しだけ見た。
何も言わなかった。
それから歩き出した。
港町ヴェルファに戻ったのは夕方手前だった。
港町の通りは、いつもと変わらず賑やかだった。魚の競りの最後の声、樽を転がす音、酒場の前の喧嘩、子供の追いかけっこ。漁村と違って、ここは活気があった。
ただ、風が漁村側の方角から、少しだけ変わっていた。
リンには、はっきりとは分からなかった。エルナも気付いていなかった。気付いていたのは、ユミルとトーマスだけだった。
宿「波止の家」の前で、女将が箒を片手に立っていた。リンたちを見て、軽く頷いた。
「お帰り」
「ただいま」
エルナが言った。それで終わりだった。女将は、いつから帰ってきたとか漁村はどうだったとか、そういうことは聞かなかった。聞かないのが、港町の宿の女将の作法らしかった。
部屋に荷を下ろすと、トーマスが土間の方に下りていった。
「ちょっと店、覗く」
「魚屋か」
「ああ」
「働けよ」
エルナが言った。
トーマスは、ふっと笑った。
「働く」
それだけ言って出ていった。
ユミルがファーファを肩から下ろし、ベッドの縁に座らせた。ファーファは欠伸を一つして丸くなった。半日、ホールの溝の縁で番犬をしていたから疲れていた。
ファーファの背のニャルニルも、火を灯さずに、ただ斧頭が薄く光っている。重さで沈むファーファの寝姿を、リンは少し見ていた。戦槌を背負って、よく寝るな、と思った。
「お疲れだな」
リンが言った。
「**お疲れ、です**」
ユミルが頷いた。
「俺たちもか」
「**リン様もです**」
「だな」
ユミルがベッドの縁に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねた。半日、柱の前で立ち続けたあとなのに姿勢は崩れていなかった。
リンはそれを見て、聞かないことにした。疲れていないのか、と聞いたら、たぶん「はい」と言うか「少し、です」と言うか、どちらかだ。どちらでも本当のところは分からない。聞かない方がユミルは休めるかもしれない、と思った。
エルナが部屋の窓を開けた。
港の風が入ってきた。
塩気の濃さは変わらなかった。けれど湿気の重さが、少しだけ軽い。
「……港の方も変わってんのか」
エルナが言った。
「**少し、です**」
ユミルが答えた。
「**沿岸、第一遺跡の影響範囲、です。沖、まだ第二遺跡の影響、残っています**」
「沖は、まだ霧か」
「**はい**」
「ああ、そうだな」
エルナは窓辺に肘をついて、海の方を見た。沖の方は確かに、まだ薄白く霞んでいた。
「ま、半分か」
「**半分です**」
ユミルが頷いた。
夕方、海洋国家の使節館に呼ばれた。
サイラスが扉の前で待っていた。礼装の上着を新しく整えた様子で、襟が硬く立っていた。普段は実務派の若い使節という顔だが、今日は少しだけ構えていた。
「リン殿、どうぞ」
応接の部屋には、サイラスの上司らしき初老の男が一人、別の文官が一人、ギルドの代表が一人、座っていた。
「漁村の話を、聞かせていただきたい」
初老の男が言った。
リンはユミルとエルナを伴って、椅子に座った。トーマスは魚屋の方に行ったきり戻っていなかった。ルークは部屋の番をしていた。
「修復は、終わりました」
リンが言った。
「成果は」
「霧は薄くなっています。漁村側は、ほぼ晴れました」
「魚は」
「すぐには戻りません。数週間後と聞いています」
初老の男は頷いた。それから、しばらく机の上の指の組み方を整えた。
「沖合の方は、どうなのでしょう」
「沖合に、もう一つ原因があります」
「もう一つ」
「沖の海上遺跡、です」
サイラスが書類の縁に何かを書き付けた。
「同じような状況、ですか」
「同じです」
ユミルが横から、短く言った。
「**冷却、不全、起動者、いるはずです**」
応接の部屋に、一拍沈黙があった。
「……冷却、というのは」
文官が、不思議そうに聞き返した。
「**魔法的な調整機構です。古い時代の技術、です**」
ユミルが言った。
リンは、そっとユミルの言い方を頭の中で書き換えていた。一般人向けの語彙に変換するのに、ユミルの「冷却、不全」では伝わりにくい。けれど、伝わらなくても結果は伝わる。霧が、晴れた。それで十分だった。
文官は頷いた。理屈は分からなくても、結果は分かる、という顔だった。
「魔法使いのお嬢さんは、随分と博学でいらっしゃる」
文官がユミルに、言った。
ユミルは、軽く頷いた。
「**いいえ**」
短かった。
リンは、その「いいえ」の音の、ほんの少しの軽さに気付いた。「博学」という言葉が、ユミルにとっては、たぶん的を外している。けれど、ユミルは訂正しなかった。
「魔法使いのお嬢さん」というのが街の言い方だった。それで、いい。それが、ちょうどいい距離だった。
初老の男は、もう一度頷いた。
「沖合の遺跡も、修復は可能ですか」
「可能です」
リンが言った。
「ただ、船と嵐の対策が必要です」
「船は用意できます」
サイラスが言った。
「うちの、もしくは地元のエーギル家の船を借りる手筈で、調整中です」
「エーギル」
初老の男が、軽く眉を上げた。
「ええ、漁師の」
サイラスが説明を補足する。
「腕の良い船を持っている家です」
初老の男はそれで頷いた。「祭祀」のことは、サイラスは口にしなかった。地元の事情として処理するのが、若い使節の作法だった。リンはそれで、サイラスを少し信頼した。
「では、出立は明日以降」
「準備が整い次第」
「ありがとう、ございます」
初老の男が、深く頭を下げた。
「我が国の海域の問題に、力を貸してくださる。感謝します」
リンも頭を下げた。エルナは、軽く顎を引いた。ユミルも、両手を膝の上で重ねたまま、軽く頭を下げた。
応接の部屋を出ると、サイラスが扉の外まで送ってくれた。
「リン殿」
「はい」
「魔法使いのお嬢さん」
サイラスがユミルに、もう一度呼びかけた。
「漁村の住人から、伝言、です。『何年ぶりかの月、見られた。ありがとう、とお伝えください』」
ユミルは頷いた。
「いいえ」
短かった。
サイラスは、それで頷いた。それから扉を、軽く閉めた。
港の通りは、もう夕方だった。
魚の競りは終わり、屋台が並び始めていた。トーマスの魚屋の前を通ると、店先でトーマスが客と話しているのが見えた。常連らしき爺さんが、手で何かを示しながら笑っていた。トーマスも、低く笑っていた。
エルナが店の前で、一拍足を止めた。
止めただけで声はかけなかった。
それから、また歩き出した。
宿に戻ると、ユミルがベッドの縁に座って、ファーファを軽く撫でていた。ファーファは半分眠ったまま、ニャと鳴いた。
「**リン様**」
「ん」
「**魔法使いのお嬢さん、です**」
ユミルが、ぽつりと言った。
「そうだな」
「**……ちょうどいい、です**」
「だな」
リンは頷いた。
ユミルは、それ以上何も言わなかった。
【了】




