116 無理はいかんよ
朝、リンは寒さで目を覚ました。
毛布の縁から肩が出ていた。引き上げてからもう一度寝ようとして、空気がいつもと違うことに気付いた。
湿気が軽い。
囲炉裏の火は、薄く灯っている。エルナが番をしていたらしく、土間の縁で両手剣を膝に立てたまま、目を開けていた。
「起きたか」
エルナが言った。
「霧が」
「見ろ」
リンは戸の隙間に近づいた。隙間に額をつける。
朝の光が、まっすぐ入ってきた。
戸を開けた。
霧がない。
正確にはある。海の水平線の手前に、薄く残っている。けれど昨日までの、目の前の三歩先で霧が壁になるような濃さは消えていた。
漁村の屋根、その向こうの松林、さらに向こうの岩礁、その先の海。
全部、見えた。
「……」
リンは、しばらく何も言わなかった。
エルナがリンの肩越しに、海を見ていた。
「綺麗だな」
短かった。
トーマスが土間の奥から、起きてきた。
戸の外を見た。
そのまま、しばらく動かなかった。
ユミルがファーファを肩に乗せたまま、リンの隣に立った。両手で戸の枠に軽く触れる。
「**……晴れて、います**」
「ああ」
「**予定通り、です**」
「予定通り、ねえ」
リンは笑いそうになった。ユミルの「予定通り」の温度が、十年単位の予定をたった半日で取り戻した温度には見えなかった。
ファーファがユミルの肩から、戸の外を見た。
「**主、海、ニャ**」
「**はい、海です**」
「**広い、ニャ**」
「**広い、です**」
ファーファがユミルの肩からぴょんと降り、背のニャルニルごと、戸口に進み出た。斧頭の火は、灯っていない。塩気が、ファーファの毛と、ニャルニルの斧頭の柄を、薄く撫でていった。
村がざわついていた。
漁村の細い路地に、人がぽつぽつと出てきた。最初は一人。それから、二人、三人。みんな戸を開けて、外を見て、立ち止まる。
老人が一人、自分の戸の前で額に手を当てて立っていた。
別の老人が自分の家の戸を開けて、海の方を見てその場に座り込んだ。
子供が一人走り出して、漁村の入口の松林の方に駆けていった。途中で立ち止まって、また走り出した。何度か、同じことを繰り返した。
声は上がらなかった。
歓声というものはなかった。
ただ、誰かが静かに泣いていた。誰が泣いているのか、リンには見えなかった。それは声に出ない種類の泣き方だった。
村長が自分の家の戸を開けて、出てきた。
囲炉裏の前で待っていた時と同じ顔だった。
ただ、表情の輪郭が、昨日よりほんの少し緩んでいた。
「……何年ぶりだ」
低く言った。
リンには、何年ぶりなのかは分からなかった。村長自身も、たぶん正確には分かっていなかった。村長が頭の中で数えていたのは、何年ぶりかではなく、生きているうちにもう一度これを見られるとは思っていなかった、という別の何かだった。
「……あんたら」
村長がリンたちの方を見た。
リンは頭を下げかけた。
その手前で、エルナが軽くリンの肩を叩いた。
「……礼、いらねえ」
エルナが村長に向かって、言った。
「礼、要らねえ。ただ、魚、戻ったら教えてくれ」
村長は、何度か頷いた。
それから自分の家に戻っていった。戸を閉める音がしなかった。閉めるのを忘れたのか、開けたままにしておきたかったのか、リンには分からなかった。
ルークが戸の縁に立って、外を見ていた。
腰の剣の柄に軽く手を置いていた。武人の所作だが、構えではなかった。何かを確認している。海と、空と、霧の薄さの程度を。
「……兄貴」
ルークがトーマスに呼びかけた。
トーマスは戸の外に、半歩出ていた。
漁村の入口の松林の手前で立ち止まっていた。
風がトーマスの髪を、軽く押した。海から来る風だった。湿気の少ない、塩の匂いだけが残った風だった。
トーマスは、しばらく動かなかった。
それから、低く息を吸った。長い、深い息だった。
吐く時、トーマスはふっと笑った。
「……兄貴」
ルークが、もう一度呼んだ。
「ああ」
「久しぶりだな」
「ああ」
「風」
「ああ」
短いやり取りだった。それで、ルークはそれ以上は聞かなかった。
エルナが土間の戸の縁から、両手剣を背に戻した。それから外に出て、トーマスの隣に並んだ。
並んだだけで何も言わなかった。
しばらく、二人とも海の方を見ていた。
リンはそれを、戸の中から見ていた。
トーマスが、隣のエルナに、低く言った。
「……姉さん」
「ん」
「ありがとよ」
「私、何もしてねえ」
「いてくれた」
エルナが、一拍置いた。
「……お前」
「ん」
「無理、すんな」
短かった。
トーマスは、少し笑った。
笑ったけれど、何も答えなかった。
エルナは、それ以上何も言わなかった。
「無理、すんな」というのは、過去のことを掘り起こすなという意味でも、感謝を多く言うなという意味でも、ほかの何かでも、ありえた。エルナは、そのどれも説明しなかった。
風が、もう一度二人の髪を押した。
リンは戸の中で、ファーファを肩に乗せたユミルの隣に立っていた。
ユミルがリンを見上げた。
「**……リン様**」
「ん」
「**……綺麗、です**」
短かった。
リンは頷いた。
囲炉裏の火が、もう薪を崩さなくてもいい温度になっていた。
朝が、軽く深かった。
【了】




