115 霧が薄い
半日かかった。
ユミルが柱の前で立ち続けた半日のことを、リンは正確には記憶していない。途中で交代を申し出ようと思ったが、ユミルの背中の伸びがほとんど揺らがなかったので声をかけそびれた。
エルナが二度、外に出て湯を汲んできた。トーマスが囲炉裏の薪を一度補充した。ルークが入口で見張りに立った。ファーファは背のニャルニルごと、溝の縁から動かなかった。
ユミルの指先が、最後に一度ぴたりと止まった。
「**……完了、です**」
短く言った。
柱の表面の青白い線がふっと消えた。蛍の光が消えるような消え方だった。
それから、しばらくして、もう一度薄く灯った。
前よりも、ずっと弱い光だった。
「……これは」
リンが聞いた。
「**冷却、優先で動いている、です**」
「動いてはいるのか」
「**はい。建物を寝かせると、戻すの大変、です。低出力で動かし続けます**」
「鍵は」
「**外しました。家の印を戻しました**」
「家の印」
「**エーギルの印、です。今、起動者は入れません**」
ユミルが柱の側面に、軽く触れた。指先で線をなぞる。
「**これが印、です**」
線は、ただの彫り込みに見えた。リンには、何の文字なのかも何の紋章なのかも分からなかった。
トーマスは、それを見て、しばらく動かなかった。
それから、低く息を吐いた。
「……お嬢」
「**はい**」
「ありがとよ」
「**いいえ**」
ユミルは首を軽く振った。
「家のことだ」
トーマスが続けた。
「俺の爺の爺の、その先の誰かが、やってた仕事だ。なのに、俺は何も知らねえ」
「いいえ」
ユミルが、もう一度首を振った。
「**……知らないこと、悪いこと、ありません**」
「お嬢」
「**忘れる、ある、です。覚えている人、いない、ある、です。それでも、家、続いています。続いていれば、戻せます**」
トーマスは、それを聞いて口を開きかけて、閉じた。
それから、ふっと笑った。火明かりではなく、ファーファの背のニャルニルの斧頭の橙の火明かりの中で、目元だけ、少しだけ柔らかくなった。
「……お嬢、難しいこと言うな」
「**すみません**」
「いや」
トーマスが、首を振った。
「……いや」
それ以上は言わなかった。
エルナが両手剣の柄に手を置いて、ホールの入口の方を顎で示した。
「出るぞ。長居すんな」
「はい」
ユミルが頷いた。
ファーファが溝の縁からひょいと立ち上がり、ユミルの肩に飛び乗った。背の斧頭の火が、ふっと小さくなった。
ホールを出る時、リンは一度だけ振り返った。
柱の青白い線が、ぽつんと弱く灯っていた。それは、もう敵の手のものではなかった。
外に出ると霧の中だった。
朝、入った時と見かけは何も変わっていない。岩礁の縁の波の音、海鳥の影、湿った塩気。霧の濃さは、目で見る限り何も変わっていない。
「……変わってねえな」
エルナが息を吐いた。
「**直後は変わりません**」
ユミルが岩礁の縁から海の方を見て、言った。
「**温度、下がり始めています。でも、空気、追いつかない**」
「いつ、変わる」
「**半日、です。早ければ夕方**」
「夕方、ねえ」
エルナが両手剣を背に戻した。
「帰るか」
「**帰ります**」
漁村への帰路は来た道だった。
岩礁の道を半刻、海岸沿いに半刻、漁村の入口の松林。風が、来た時より、ほんの少しだけ冷たかった。
ユミルだけが、それに気付いていた。
リンも後で気付いた。皮膚が、ほんの少しだけ引き締まる感覚。湿気が、ほんの少しだけ抜けた感覚。それを「変わった」と言うかどうかは、迷う程度の違いだった。
漁村に戻ると、村長が囲炉裏の前で待っていた。返事を待っていた。
「……どうだった」
「直しました」
リンが言った。
「魚は、すぐには戻らないです。霧も、すぐには晴れない。でも、止まるはずだ」
村長は、それを聞いてしばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「……ありがとうな」
短く言った。
ありがとう、と言うのに慣れていない人のありがとうだった。村長が半日のうちに、もう一度ありがとうと言ったら、それで一日分のありがとうを使い果たすような、そういう温度のありがとうだった。
エルナは何も言わなかった。
ルークも何も言わなかった。
トーマスだけが、一拍だけ頷いた。
その夜、村は静かだった。
囲炉裏の火、薪の崩れる音、外の風の音。霧が戸の隙間から流れ込むのは昨日と同じだった。
夕食は村長の家からもらった干物だった。ファーファがユミルの肩からぴょんと降り、背のニャルニルごと囲炉裏の縁に陣取った。斧頭が弱火を灯す。皮の縁が、淡く油を滲ませる。ファーファが、ぴくりと耳を動かした。
「**魚、ニャ**」
「**はい、魚です**」
「**美味い、ニャ**」
「**美味しい、です**」
ユミルが頷いた。
エルナが地酒を一本、出した。今朝、村長が「持ってけ」と無言で寄越したやつだ。粗い瓶、栓は布。注ぐと、酒というより薬草の煎じみたいな匂いがした。
「……強そうだな」
エルナが自分の杯を一口、舐めた。
「強い」
「合うか」
「干物には、合う」
ユミルが杯を持って、一口含んだ。
「**……強い、です**」
「だろ」
「**でも、合う、です**」
「だろ」
エルナが笑った。
トーマスが土間の縁で、ふっと笑った。
「姉さん、酒、強いな」
「お前は、ザル、なんだろ」
「……まあな」
エルナがトーマスにも、杯を差し出した。トーマスは受け取って、一口飲んだ。
「うん」
「合うだろ」
「合う」
短かった。
リンはそれを聞きながら、囲炉裏の火を見ていた。エルナとトーマスの杯の触れ合う軽い陶器の音。それだけ覚えておけばよかった。
夜が更ける頃、ルークがふと、戸の隙間に目をやった。
「……」
「どうした」
リンが聞いた。
「霧が」
ルークが、低く言った。
リンが戸の隙間に、目をやった。
外、月。
低く欠けた月だった。
霧が、薄い。
昼間、見えなかった月が見えていた。輪郭がはっきりしていた。霧が、ないわけではない。でも、薄い。
「……霧が、薄い」
リンが言った。
ユミルが頷いた。
「**……夕方より薄い、です**」
「夜の方が薄くなる、もんなのか」
「**気圧、戻り始めたら、です**」
「夜のうちに戻るのか」
「**分かりません。明日の朝、です**」
ユミルは、それ以上は何も言わなかった。
トーマスが戸の隙間から、月を見ていた。
しばらく見ていた。
それから、低く息を吐いた。
「……お嬢」
「はい」
「久しぶりに月、見た」
「はい」
「ここで月、滅多に見えねえんだ」
「はい」
ユミルは、それ以上は何も言わなかった。
エルナがトーマスの隣で、杯を傾けたまま戸の隙間から月を見ていた。
リンは、それを見ていた。
囲炉裏の火が、また一つ薪を崩した。
夜が、軽く深くなった。
【了】




