114 冷却不全
遺跡の中は、湿っていた。
低い天井、苔の張り付いた石壁。ファーファの背のニャルニルの斧頭が、ぽつんと橙の火を灯して先導する。橙の光が壁の凹凸を撫でて奥に進むほど薄くなる。
奥に行くほど空気が暖かい。
これが最初の違和感だった。
「**……暖かい、です**」
ユミルが言った。
「ああ」
リンが頷いた。
「外、寒い。中、暖かい」
「逆、ですね」
「逆だ」
普通の地下なら外より少し涼しい。中が暖かいのは何かが熱を出している、ということだ。
エルナが両手剣の柄に手を置いたまま奥を覗いた。
「敵か」
「**分かりません**」
ユミルが目を一拍だけ閉じた。
「**……動いて、います**」
「敵か」
「**いいえ。建物、です**」
「建物、ねえ」
エルナが眉を寄せた。理屈は分からないが、ユミルが「動いている」と言うのなら何かが動いている。それでよかった。
奥は思ったより広かった。
低い天井が一段抜けて、ホールのような空間に出る。中央に、石の柱が一本。柱の周りを円形の溝が取り囲んでいる。溝の中に薄く水が溜まっていた。
水は湯気を立てていた。
ニャルニルの火明かりだけでは、湯気の白さははっきりとは見えない。それでも、空気の揺らぎで分かった。
「……これか」
トーマスが、低く言った。
「**これ、ですね**」
ユミルが頷いた。
リンは柱の根本に目を凝らした。
石の柱の表面は、ただの石ではない。古い、彫り込まれた線がある。線は薄い青白い光を、ほんの少し帯びていた。蛍の光より、もっと弱い。注意して見ないと気付かない程度。
エンジニアの目で見ていた。
──稼働中、サインだ。
──電源、入ってる。
「ユミル」
「**はい**」
「読めるか」
ユミルが頷いて柱の前に進んだ。両手を軽く合わせる。指先は柱には触れていない。一拍、目を閉じる。
「**……稼働、しています**」
「ああ」
「**誰か、起動、しました**」
リンは何も言わなかった。聞いている。
「**稼働期間、十年以上、です**」
「十年」
「**正確には、不明です。でも、十年は超えています**」
トーマスが囲炉裏で薪を見たときと同じ顔で、柱を見ていた。火を見るときの目だった。
「**冷却、不全、熱、漏れて、います**」
「熱が海に流れてる、ってことか」
「はい」
ユミルが続けた。
「**沿岸の温度が上がる。気圧、ずれる。霧、出ます**」
「それで、霧か」
「はい」
短い断定の返事だった。
エルナが舌打ちした。
「十五年前から酷くなった、っつってたな」
トーマスが、低く言った。
「**……十五年、前から**」
ユミルが、トーマスの方をほんの少しだけ向いた。
「**……合います**」
短かった。
トーマスはそれを聞いて、ふっと息を吐いた。笑ったわけではなかった。納得の息でもなかった。「分かったが、分かりたくなかった」種類の息だった。
リンは、それを見ていた。
「家の祭りっての、は、これか」
トーマスが、ユミルではなく柱を見ながら、言った。
ユミルは答えなかった。
正確には、答えるかどうかを迷っているように見えた。指先が、軽く一度だけ握られた。
「**……はい**」
ぽつりと言った。
「**祭祀、たぶん、ここの世話する役目、だった、です**」
「世話」
「**掃除と、調整、です**」
「神主、じゃねえな」
「**神主の形だった、と思います。中身、技師、です**」
トーマスは笑わなかった。
低く息を吸って、吐いた。柱を見たまま、しばらく動かなかった。
エルナが、そっとトーマスの背中の方に半歩寄った。寄っただけで声はかけなかった。
ルークがトーマスの横で、剣の柄に手を置いて立っていた。背筋が一段、伸びていた。武人の所作だった。
「……できるのか、これ」
トーマスが、ユミルに聞いた。
「お嬢、これ、直せるのか」
「**直せます**」
短くユミルが答えた。
「**ただし時間、要ります**」
「どれくらい」
「**半日、です**」
「半日」
「**冷却を戻すこと、起動者を外すこと、両方します**」
「外す、ってのは」
「**鍵の入れ替え、です。元の所有者に戻します**」
「……所有者」
「**家、です**」
トーマスが、また息を吐いた。
「……家、ねえ」
低く言った。
ユミルは、それ以上の説明はしなかった。
リンも聞かなかった。今は聞かない方がいい。それが分かった。
「やってくれ」
トーマスが、言った。
「家のことだ。ここで止めねえと、誰が止めるんだ」
「はい」
ユミルが頷いた。
ファーファがユミルの肩から軽くぴょんと降り、柱の根本の溝の縁にちょこんと座った。湯気を一度、嗅いだ。
「**主、これ、湯ニャ?**」
「**湯、です。でも、飲まない、ニャ**」
「**飲まない、ニャ**」
「**火傷、ニャ**」
ファーファが頷いて、背のニャルニルごと、湯気の前に座り直した。番犬の所作だった。
ユミルが柱の前で、両手を合わせた。
「**……ファイアウォール、展開、します**」
短い詠唱。──exec.firewall --layer=1 --shape=ring --target=pillar --duration=long。
柱の周りに、薄い光の輪がふわりと立ち上がった。リング状の薄膜。湯気の揺らぎが輪の内側で止まる。
「**皆、外、です**」
「了解」
リンが、エルナとトーマスとルークをホールの入口の方に、軽く促した。
「中で、何が起きるんだ」
エルナが聞いた。
「**……書き換え、です**」
ユミルが柱を見たまま、言った。
「**冷却を戻して、鍵を外して、家の印を戻します**」
「印」
「**形だけ、です。実体、もうない、です。でも、印を戻すと、起動者は入れない**」
「家の印、ってのは」
「**エーギル、家、です**」
トーマスが、低く頷いた。
「……分かった」
ホールの入口の手前で、四人が立っていた。橙の火は、溝の縁にいるファーファの背のニャルニルが、薄く保ったままだった。
「**主、いる、ニャ**」
「**いて、ください、ファーファ**」
「**了解、ニャ**」
ユミルの背中が、すっとまっすぐ伸びた。
リンが見ていた。
ユミルの背中は、戦闘の時のそれとは少し違う。戦闘の時は視線が動かない。今は両手の指が、淀みなく動く。指先が、空中に何かを書いている。
──exec.refactor --target=structure --scope=cooling --depth=full
──patch --target=lock --owner=Aegir --revoke=all
──exec.firewall --layer=2 --reinforce
リンには見えていなかった。
でも、ユミルが何かを組み立てている。それは分かった。
柱の表面の青白い線が、一拍、強く光った。
それから、ゆっくりと薄くなっていった。
「**……書き換え、開始、します**」
ユミルが、低く言った。
トーマスが、息を止めた。
【了】




