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113 雷よ、来い!


朝、霧は薄くならなかった。


漁村の浜から海岸沿いを北に半刻、岩礁の連なる岬の根本に、第一遺跡はあった。


遺跡の輪郭は岩と区別がつかない。


苔の生した低い石組みが、岬の岩肌からそのまま生えているように見える。半分は崩れ、半分は崩れていない。波が岩礁の根本を洗っている。霧の向こうに海鳥の影だけが時折よぎる。


「……これか」


トーマスが、岩礁の縁に立って、低く言った。


「ここは、来たことねえ」


少しだけ、ほっとした空気だった。リンだけがそれに気付いた。家の聖地ではないという意味だ。トーマスにとってこの場所は、ただの古い石組みでしかない。


「お嬢、どうだ」


「**……読みます**」


ユミルが目を閉じた。一拍。それから開いた。


「**稼働、しています**」


短い。


「**……誰か、起動、しました**」


「誰か、ね」


「**冷却、不全、です**」


「……」


リンは頷いた。それ以上は聞かなかった。聞く時間はなかった。


岩礁の影から、何かが跳ねた。


「来た」


エルナが両手剣の柄に手をかけた。鞘が鳴る音。腰を低く落とす。前髪が一拍だけ揺れた。


岩礁の上に、四つ。


蟹型。漁村の浜で見たやつより一回り大きい。甲羅の縁が苔で覆われ、海水の滴を垂らしながら横歩きで距離を詰めてくる。鋏の先が鈍い色に光る。


「……四匹」


ルークが弓を構える。指が、矢筈に触れた。


「兄貴、二匹、頼む」


「ああ」


トーマスが、腰の左、サーベルの柄に手を置いた。曲刀が鞘から滑るように抜かれる。低い短い金属の擦過。


そのまま岩礁を一歩、踏んだ。


リンはトーマスの足の指を見ていた。


岩の上で、足の指がぐっと岩を掴んでいた。船の甲板で慣れた揺れる足場での踏ん張り方。地上で踏ん張るのとは少し違う。重心が低い。


「……」


ユミルが、岩礁の手前に立った。両手を一度合わせて開く。


「**光のカーテン、展開、します**」


短い詠唱が流れた。──exec.firewall --layer=2 --shape=line --target=front。岩礁の手前に、薄い光の板が一枚立ち上がる。


「**皆、後ろ、です**」


「了解」


エルナが頷いて、光の板の手前に踏み込んだ。


蟹の一匹目が、エルナに鋏を振る。


エルナの両手剣が片手で軽く弾いた。鋏の先が岩に擦れる鈍い音。返しの一閃で関節を断つ。蟹の鋏がごとりと岩の上に落ちた。


「兄貴、横!」


ルークが叫ぶ。


トーマスは振り向かなかった。背後の蟹の気配を、首の後ろの皮膚で感じている。横歩きで一歩、退く。


蟹の鋏が、トーマスのいた場所の岩を欠いた。


トーマスの曲刀が、半身を返した瞬間に横に走った。銀光が、低く弧を描く。


蟹の眼柄が二本まとめて落ちた。


蟹は止まらなかった。眼を失っても鋏は動く。トーマスは半歩下がり左手を腰の後ろに回した。


リンは見ていた。


腰の後ろの帯からトーマスが何かを引き抜いた。短い柄に鈍く光る斧頭。フランシスカ。


斧の柄を軽く手の中で回す。


「……雷よ、来い!」


低く、短く言った。


斧頭の縁に、青白い火花がぱちりと走った。


それは、雷というより、空気の乾く匂いだった。鼻の奥に、金属の匂いがふわりと広がる。光の量は、多くない。斧の縁を、ふちどる程度。


「……」


リンの内側で独り言が走った。


──エンチャント、武器、付与系。


──雷を、矢にして撃つんじゃない。武器に、纏わせるだけ。


──節度、ある。


トーマスがフランシスカを、軽く後ろに振りかぶった。腕が、なめらかに弧を描く。漁師が銛を投げる動きだ。投擲の身体感覚が、漁師譲り。動きの精度は、ハンター譲り。


斧が、宙を、飛んだ。


低い、短い軌道。蟹の甲羅の、継ぎ目に、まっすぐ。


斧頭が当たった瞬間、青白い光が甲羅の表面を薄く走った。蟹の脚が一瞬、痙攣した。膝のような関節が外側に折れる。蟹は、ごろりと岩の上に倒れた。


「……」


トーマスは岩礁の上を歩いていく。倒れた蟹の脇からフランシスカを抜き取る。斧頭の縁に、もう火花は残っていなかった。


「**便利、ですね**」


ユミルが、ぽつりと言った。


「……便利、というか」


トーマスは、フランシスカを腰の後ろに戻しながら、目を伏せた。


「下手な魔法、なんだ。武器に纏わせる、それだけ。火力は出ねえ」


「ふっ」


エルナがちょうど三匹目を処理し終えて、振り向いた。両手剣の刃に付いた粘ついたものを、一度振って落とす。


「お前、そういう手、あんのか」


「家の血、らしい。詳しいことは、もう、誰も、知らねえ」


「ふうん」


エルナは、それ以上は聞かなかった。


四匹目はルークの矢が眼柄を一本、貫いた。蟹がよろめいた隙にエルナが踏み込んで、関節を二つ断った。蟹は横倒しになって動かなくなった。


岩礁の上に、四つの蟹が転がっている。


「……お疲れ」


リンが言った。


「ああ」


エルナが息を吐く。


「兄貴」


ルークが、トーマスの背中に声をかけた。


「ん」


「フランシスカ、見たの、初めてだ」


「そうか」


「斧、投げるの、見たの、初めてだ」


「ああ」


「あと、雷も、初めてだ」


トーマスが、ふっと笑った。


「そうかい」


「便利、だな」


「便利、というか、限定的、だ」


「兄貴」


「ん」


「便利、だ」


ルークは、それ以上は言わなかった。


エルナが両手剣を背に戻しながらトーマスを横目で見た。見たが何も言わなかった。リンは、その目線の重さを見ていた。


「……ユミル」


リンが言った。


「はい」


「遺跡の中、入れるか」


「**……入れます**」


ユミルが、岩礁の影の低い石組みの入口の方を指した。霧が薄く流れ込んでいる。中は暗かった。


「**ただし**」


ユミルが、続けた。


「**中、ブレス、撃てません**」


「ああ」


「**ファイアウォール、リファクタリング、それだけ、です**」


「分かった」


リンは頷いた。


ファーファがユミルの肩で、ぴくりと耳を動かした。


「**主、中、暗い、ニャ**」


「**はい、暗い、です**」


「**ニャルニル、火、ニャ**」


ファーファがユミルの肩から、ぴょんと地面に降りた。背のニャルニルの斧頭が、ぽっと橙の火を灯す。手のひら大の揺らがない火。


「**軽く、ニャ**」


「**……了解**」


火はそれ以上、大きくならなかった。岩礁の影に、淡い橙が薄く広がった。


「行くか」


エルナが剣の柄に手を置いて、岩礁の入口の方に顎を引いた。


「ああ」


リンが頷いた。


霧の中、五人と二匹が低い石組みの入口の影に消えていった。


【了】


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