112 漁村の夜
漁村は暗かった。
港町の灯りからほんの数刻離れただけで空気の濃さが変わる。湿った塩気が皮膚に貼り付いてくる感じがある。霧は夜になっても引かず、軒先のランタンの光がにじんで見えた。
「……奥の家、空き家だ」
トーマスが低く言った。村長らしき老人が一軒の戸を開けて、俺たちを通してくれた。板の床がきしむ音、囲炉裏の煤、魚の油の匂い。土間に荷を下ろす。
「夜は冷える。火、貸してくれ」
エルナが言うと、村長は黙ったまま薪を一本、囲炉裏に放った。火が立ち上がる。煤けた天井に光が揺れる。
ユミルは黙って囲炉裏のそばに座った。両手を膝の上に重ねて火を見ている。
「**……静か、です**」
ぽつりと言った。
リンが隣に座る。火明かりで見るとユミルの頬が少しだけ赤く見えた。火のせいだ、たぶん。
ファーファはユミルの肩で丸くなった。ファーファの背に括りつけられたニャルニルが、囲炉裏の火明かりで斧頭を鈍く光らせていた。火を映している、というよりは、火の方をじっと見ているように見える。気のせいかもしれない。
ルークが土間で剣の手入れをしている。手元だけ動いている。
しばらくして村長が湯を持ってきた。茶ではなくただの白湯だ。茶の葉を切らしているらしい。
「……すまん。ろくな、もてなしも、できんで」
「いえ」
リンが頭を下げる。村長は座りはしなかった。立ったまま囲炉裏の火を見ている。
「あんたら、エーギルの坊主と、来たって聞いて、な」
トーマスが土間の縁に腰を下ろした。柄に手を置いて背を壁に預けた。返事はしなかった。
「……エーギルさん家、久しぶりに、見たな」
村長が言った。トーマスは火を見たまま軽く顎を引いた。
「久しぶり、です」
短い。
リンは気付いていた。
トーマスのその一言が、ふだんの「ふっ」とも「はは」とも違う、息の浅い返しだったことに。トーマスは怒鳴らない男だ。だから怒鳴っていないことは、何の指標にもならない。指標になるのは、声の重みの方だ。
「**……エーギル、家、ですか**」
ユミルが、火を見たまま言った。
「**……はい**」
村長がふと、ユミルの方を見る。
「……魔法使いの、お嬢さん、知ってるのかい」
「**いいえ**」
短く首を振った。
「**知らない、です。でも、家の名前、合います**」
「合う?」
ユミルは答えない。視線は囲炉裏の火に戻っていた。村長は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。「合う」が何に合うのかは、本人にも村長にも説明できない種類のものだった。
トーマスだけが、土間の縁からちらりとユミルを見た。
リンは見ていた。
トーマスの目がユミルを見て火に戻り、それから自分の手元に落ちる、その順番を。
エルナはぐいと白湯を飲んだ。湯気が眼鏡の縁を曇らせ──いや、エルナは眼鏡をかけていない。湯気が額に当たっただけだ。
「で、爺さん。霧の話、聞かせてくれよ」
エルナが言った。空気を切り替える間合いが上手い。
村長はようやく腰を下ろした。
「……霧は、晴れねえ。もう、慣れた」
「いつから」
「……分からん。爺の代には、もう薄かった、らしい」
「薄かった、か」
「最初は、薄かった。だんだん濃くなって、十五年ぐらい前から、特に酷い」
ユミルが、ほんの少し火から目を上げた。
リンだけがそれに気付いた。
「魚は、戻らねえ」
村長が続けた。
「沖に出ても空っぽだ。網を引いても、空っぽだ。子供らに漁を教えても、もう教えるもんがねえ」
エルナが黙った。
「半分は町に出ちまった。残ったのは年寄りと、年寄りに付き合う物好きだけだ」
火が薪を一本、崩した。火の粉が、ふわりと舞って消える。
ルークが手元を止めた。剣の刃を布で拭きながら村長を見る。
「……エーギル家は、何か、関わって、いたんですか」
ルークが聞いた。穏やかに、丁寧に。
村長は少し考えた。考えたというより、考えていいのかを考えている顔だった。
「……昔は、な」
「昔は」
「祭り、を、やってた。海にご祈祷する祭りだ。エーギル家が神主、みたいなもんだった」
「祭り、ですか」
「もう、やってねえ。何年も前にやめた。やる意味も忘れた」
トーマスが土間の柄に置いていた手を、ゆっくりと下ろした。膝の上で指を組んだ。指の関節が火明かりで白く見えた。
「……何の、祭りだったんです」
ルークが、もう一歩踏み込んだ。
村長は首を振った。
「分からん。爺は知ってたかもしれん。でも、わしは聞かんかった」
「……」
ルークが頷いた。それ以上は聞かなかった。
トーマスは火を見ている。
リンは、トーマスの横顔を見ていた。
ユミルは火を見ながら、ファーファの背を一度だけ撫でた。ファーファが「ニャ」と短く鳴いて、また丸くなった。
「……寝るか」
エルナが言った。
「明日、遺跡に行く。早い」
村長が頷いて立ち上がる。土間の戸を出て、自分の家に帰っていった。戸が閉まる音、外の風の音、霧の湿気。
囲炉裏の火だけが残った。
「兄貴」
ルークが剣を布で拭く手を止めずに、低く言った。
「ん」
トーマスが応える。
「無理、すんなよ」
「……何が」
「家の話。昔の話」
トーマスは、ふっと笑った。火明かりの中で目元が少しだけ柔らかくなった。
「無理は、してねえ」
「兄貴」
「してねえ」
ルークはそれ以上は言わなかった。剣を布で拭いて鞘に収めた。
エルナが寝床の支度をしながら、ちらりとトーマスを見た。見たけれど声はかけなかった。
リンは自分の毛布を膝にかけて、火を見ていた。
ユミルが、隣でぽつりと言った。
「……トーマス、さん」
「ん?」
「**……眠れない、なら、起きて、いて、いい、です**」
「お嬢」
トーマスは、一拍、置いた。
「……ありがとよ」
低く、言った。
ユミルは頷いた。それ以上は何も言わなかった。
ファーファがニャと一回鳴いて、ユミルの肩で目を閉じた。ファーファの背のニャルニルの斧頭から、ぽっと小さな火が灯った。手のひら大の橙が、リンの膝の毛布の縁を、薄く温めた。
「……寝るか」
リンが言った。
「うん」
エルナが毛布をかぶった。
火が、また一つ薪を崩した。
トーマスは囲炉裏の縁に座ったまま、火を見ていた。眠るつもりはないらしいとリンは思った。何も言わなかった。
霧が、戸の隙間から薄く流れ込んでいた。
夜が長かった。
【了】




