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111 漁村


港町六日目の朝、出発した。


馬車を一台、トーマスが手配してくれた。漁村まで海岸沿いを半日。馬車にユミル、エルナ、ファーファ、ニャルニル、サイラス。御者台にルーク。トーマスは横を馬で並走。俺は馬車の屋根近くで魔物を警戒する係。


「兄貴、行くぞ」


「頼む」


ルークが手綱を引いた。馬車が動き出した。トーマスの馬が後ろに並んだ。


——


街道は海岸沿い。左手が山、右手が海。風が強くて、潮の匂いが濃い。


ユミルが馬車の幌の隙間から海を見ていた。沖の方の白い塊。今日も張り付いている。馬車が進むほど、その塊との距離は近くなる。漁村は、あの塊の真下、と言えるほど近い場所にある。


「兄貴」


ルークが御者台から呼んだ。


「ん」


「左、上」


ルークの目が早かった。山側の岩陰に、何かが動いていた。


「魔物、です」


ユミルが幌の中から短く言った。


——


蟹型の魔物が二匹、岩陰から飛び出した。


体長は人間の腰ぐらい。甲羅が青っぽい灰色で、鋏が大きい。海岸魔物の標準的なやつ。


トーマスが馬から降りていた。


「俺がやる」


腰の後ろから、短い柄が抜かれた。


刃が太く、頭の重い小斧。フランシスカ。漁師が船の上で銛代わりに使う、投げる用の斧。トーマスの掌が、柄の重心にぴたりと収まった。


——投擲。


斧が回転して飛んだ。


一匹目の蟹の額に、刃が、深く食い込んだ。


砂利に、一匹目が崩れた。脚が、ばらばらに弛んだ。


二匹目が、横から、突っ込んできた。


トーマスは振り向いていなかった。半身が、自然に開いていた。腰の左の鞘から、刃が抜けた。サーベル。曲刀。船の狭い甲板で振り慣れた身体の動き。柄が、掌のしわに収まった。


——下から、上へ。


銀光が、弧を描いた。


甲羅が、二つに、割れた。


砂利に、二匹目が、伏した。汁の匂いと、鉄の匂いが、混ざった。


——


俺は屋根の上で警戒したまま、何もしなかった。


トーマスが斧を引き抜いて、サーベルの血を払った。両方を腰に戻す動きが、一連で止まらなかった。漁師の身体に、フランシスカとサーベル。あれは漁師の動きでもある。投擲の手は、銛の延長。サーベルの動きは、船の上で身についたもの。だが、額と継ぎ目だけを正確に狙う精度は、ハンターの方だ。腕は確かだ。


「兄貴、フランシスカ、見たの初めてだ」


「俺もだ」


「漁師の武器、なのか」


「漁師町だと、よく使うらしい。船から銛投げるのと、似た感覚なんだろうな」


「サーベルもか」


「あれは船の上向きだ。狭いとこで振りやすい」


ルークが御者台から、トーマスの腰元を見ていた。武器に詳しい弟が、トーマスの装備を観察している。ルークはこういう時だけ、長く見る。


トーマスが馬に戻った。


「ふっ……あの程度、心配いらん」


「ありがたい」


「行くぞ」


馬車が再び動き始めた。


ユミルが幌の中から小さく言った。


「リン様」


「ん」


「トーマス様、強い、です」


「強いな」


「優しい、のに、強い、です」


「珍しいな、その組み合わせ」


「珍しい、です」


ユミルがそれだけ言ってまた幌の中に引っ込んだ。エルナが幌の中で、何も言わずに笑っている気配がした。


——


午後、漁村に着いた。


海岸沿いの小さな漁村。家は二十軒ほど、木の壁が塩で白く乾いていた。屋根は低い。漁網を干す木枠が並んでいるが、半分は使われていなくて埃が積もっていた。


そして、村全体が、薄い霧の中にあった。


港町よりも明らかに濃い霧。視界が二十歩先で滲む。日が高いはずなのに、空が灰色だった。風があるのに、霧は晴れない。霧が動かない。下から押さえつけられているような、密度の重い霧だった。


「兄貴」


「ん」


「これ、普通じゃない」


「普通じゃないな」


ルークが御者台から下りて、村の中を見渡した。子供の声がしない。犬の声もしない。漁から戻ってきたばかりの船が一艘、桟橋に繋がれているが、人の動きは少なかった。


トーマスが馬から下りた。馬の轡を木の柵に結びながら、村の方を見ていた。視線が動く。家の数を数えているような、長く見ている時間。


「……減ったな」


トーマスが小さく言った。


「来たこと、あるのか」


「子供の頃に、何度か。親父に連れられて」


「家、減ったか」


「あの頃の半分以下だ」


トーマスはそれだけ言ってまた村の方を見た。子供の頃に来た村が、今、半分以下になっている。それを目で確かめている顔だった。


サイラスが書類を出した。


「人口は、十五年前の三分の一になっています。若い世代は港町ヴェルファに移動。残っているのは老齢の漁師と、その家族のみ」


「三分の一」


「三分の一、です」


ユミルがサイラスの数字を繰り返した。十五年。三分の一。ユミルの中でまた数字が並んだ。


——


村長の家に通された。


村長は六十代の漁師。痩せていて、目だけが鋭かった。サイラスが書状を渡した。海洋国家連合と王国合同の調査。村長が短く頷いた。


「来たか」


「お世話になります」


「世話なんて何もできん。霧で漁ができん。米と魚で勘弁してくれ」


「十分、です」


ユミルが頭を下げた。村長がユミルを見て、それから視線を逸らした。


「魔法使いの嬢ちゃんと聞いてる」


「はい、です」


「霧、戻せるんか」


「戻します」


ユミルが短く答えた。村長がもう一度ユミルを見た。今度は、目を逸らさなかった。


「……頼む」


「はい、です」


それだけだった。村長は多くを言わなかった。期待しているのか、半分諦めているのか、外からは分からない顔だった。だが、最後の「頼む」の一言だけは、はっきりとしていた。


——


夜、村の宿で寝床を借りた。


宿と言っても村長の家の離れ。畳代わりの厚い板に、毛布だけ。それでも風雨は凌げる。エルナとユミルは隣の部屋。俺とルークとサイラスとトーマスは大部屋。


寝る前に、サイラスが小さく地図を広げた。


「リント様」


「ん」


「第一遺跡は、明日の午前中に到達できます。村の北側、岩礁の手前です」


「分かった」


「念のため申し上げます。これで遺跡修復が三十六、残り、十二カ所」


「残り、十二カ所」


俺は繰り返した。


長かった旅の数字が、また一つ進む。塔と内陸の遺跡を回って、ここまで来た。残り十二。海の遺跡が三カ所、その先に内陸の九カ所。それで終わる旅。


ユミルが「終わる」と言うとき、それは「世界の修復が終わる」という意味だ。だが、ユミルが終わった後どうするか、それはまだ決まっていない。今夜は考えない。今夜は、ただ寝る。


——


外で、霧の中を風が走っていた。


霧そのものは動かないのに、風だけが霧の隙間を抜けていく。奇妙な音だった。霧の重さが、風の音を通常と違う音にしていた。


ユミルが隣の部屋で、小さく呟いた。


「……稼働、しています」


俺は壁越しに、それを聞いた。


ユミルの「読み」が、もう始まっている。明日、遺跡へ入る前から、ユミルはもう、霧の正体を半分掴みかけていた。


夜が、霧の中で重く深かった。


【了】


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