110 夜光虫
港町五日目の夜。
明日から第一遺跡へ向かう。最後の港町の夜になる。トーマスが酒場に誘ってきた。
「明日、出るんだろ」
「ああ」
「行く前に、一杯」
「いいな」
エルナがすぐに乗った。ルークも頷いた。ユミルとファーファは宿の女将の所で魚料理の追加レクチャーを受ける予定だった。今夜は別行動。
——
酒場は港のすぐ近く。古い木の看板に「波の角」と書いてあった。中は薄暗くて天井が低く、漁師と船乗りで埋まっていた。ガヤガヤしているが、押し付けがましい騒がしさではない。海の男の声は腹から出ていて、それが一定の太さで流れていた。
トーマスが奥の席を取っていた。木のテーブルに、すでに地酒の瓶が一本立っていた。
「とりあえず、これ」
「ハンドルのか」
「いや、ここの。ヴェルファのは辛口だ」
「飲み比べたい」
エルナが目を輝かせた。トーマスが「ふっ」と笑って、店主にもう一本注文した。
——
エルナとトーマスは三杯目で意気投合した。
「あんた、強いな」
「あんたもな」
「酒、合うやつ」
「俺もそう思う」
エルナとトーマスは酒の話で延々と話した。ヴェルファの辛口、ハンドルの辛口、王都の甘口、東側の山地の濁り酒。エルナはどこの地酒も舌で覚えていて、トーマスもまた似たような舌を持っていた。話していると五銘柄が十銘柄に増え、十銘柄が二十銘柄になった。
「南海の島酒、知ってるか」
「知ってる。一度だけ飲んだ」
「あれ、ヴェルファ経由で入ってくる」
「年に何本」
「五本か十本」
「希少品か」
「希少品だ。腐りやすい」
「次、入ったら教えてくれ」
「ふっ、ああ」
トーマスがそれだけ言って杯を上げた。エルナが軽く合わせた。木の杯が乾いた音を立てた。
俺とルークは横で魚を食いながら、エルナとトーマスの話を聞いていた。ルークが小さく俺に言った。
「兄貴」
「ん」
「エルナ姉、楽しそうだ」
「だな」
「あの兄ちゃんも」
「だな」
ルークがそれだけ言って、また魚に戻った。ルークは観察したことを一度言葉にすればそれで終わる。それ以上はもう何も言わない。
——
酒が四杯目に入った頃、トーマスが少しだけ手の動きを止めた。
「リント」
「ん」
「明日、漁村まで行く道、海岸沿いだ」
「分かった」
「魔物が出る。陸戦と勝手が違う」
「聞いてる」
「もう一つ、言っておく」
トーマスが地酒を一口飲んでグラスを置いた。
「俺は、海の遺跡近くに、あまり近付けない。理由は、まあ、家のことで」
「無理は、するなよ」
「ふっ……ありがとう」
「ハンター枠で同行するんだろ」
「ああ。海岸までは行く。遺跡の中までは、状況による」
「了解」
「すまん」
「謝ることじゃない」
「ふっ」
トーマスがそれだけ言って、また杯を持ち上げた。エルナが横で何も言わずに、トーマスの杯に酒を注ぎ足した。注ぎ足す手の動きが、いつもより少し丁寧だった。
エルナは何かを察している。聞かない。聞かずに、ただ酒を注ぐ。これがエルナの大人の合図のもう一つ。**それ以上は、聞くな**。今度はトーマスに対する合図だった。
——
酒場を出た。
夜の港町。風がやや強くなって、潮の匂いが濃かった。エルナが酔った足取りでルークに肩を借りていた。
「兄貴、エルナ姉、宿まで連れていく」
「頼む」
「兄貴は?」
「もう少し歩く」
「分かった」
ルークがエルナを連れて先に行った。トーマスも軽く手を上げて、隣の家の方へ歩いていった。トーマスの家は魚屋の二階だ。すぐ隣。
俺は一人で桟橋の方へ歩き始めた。
——
宿の前を通りかかると、ユミルが入口の前で立っていた。ファーファを肩に乗せて、海の方を見ていた。
「リン様」
「ん」
「桟橋、行きますか」
「行く」
「私、行きます」
ユミルがそれだけ言って、俺の隣に並んだ。ファーファが俺の方を見て、それから「主、寝る、ニャ」と言って宿の中へ戻っていった。今夜のファーファは、女将の魚料理レクチャーで腹がいっぱいだったらしい。
桟橋まで二人で歩いた。
——
桟橋の先で、月が出ていた。
満月よりは少し欠けている、白い月。海の上に道のように光が落ちていた。波が静かに桟橋の柱に当たっていた。
ユミルが桟橋の端で立ち止まった。
「リン様」
「ん」
「あれ、何、ですか」
ユミルが海面を指差した。
桟橋の足元、波が砕ける場所、そこに薄い青の光が散っていた。波が引くたびに、海面に青い粒が無数に浮いて、消えていった。
「夜光虫」
「夜光、虫」
「波で揺れると、光る。プランクトンの一種、らしい」
「綺麗、です」
「綺麗だな」
ユミルが桟橋にしゃがんで、海面に手を伸ばした。指先が水に触れた。指の周りで青の粒が一斉に光って、また消えた。
「触ると、光る、です」
「らしい」
「不思議、です」
「不思議だな」
ユミルが指をもう一度水に入れた。光が広がって、消えた。ユミルがそれを何度か繰り返した。月の光と、夜光虫の青と、波の音。それだけの時間が、しばらく続いた。
俺は桟橋の足元の小石を一つ拾って、海に投げ込んだ。
ぽちゃん、と音がして、落ちた場所を中心に青の光が円く広がった。広がって、消えた。
「光、広がる、です」
「衝撃で、震えるんだろ、夜光虫が」
「震える」
ユミルがその言葉を繰り返した。少し考える顔をして、それからまた俺を見た。
「もっと、広く、震えますか」
「広く」
「広く、です」
ユミルが言った。試したい顔だった。
そこで、俺は思いついた。
「……ホゲ矢」
「リン様?」
「あれは超振動だ」
「そう、です」
「水面に当てたら、振動が広く伝わる。多分、夜光虫が一斉に光る」
ユミルが目を少しだけ大きくした。
「面白い、です」
「やってみるか」
「やってみる、です」
俺は桟橋の端に立って、海の方へ手を伸ばした。短い詠唱。
「hoge、矢」
`exec.arrow_ignite --power=small --trajectory=hoge --frequency=hoge`
矢が海面を低く滑って飛んだ。耳障りな高い音が、夜の港町に広がった。眠っている町の方から犬が一匹、慌てて吠え出した。
矢が水面に当たった瞬間、海が光った。
矢の軌跡に沿って、青の光の道が、まっすぐ沖まで伸びた。光の道。長さは三十歩ぐらい。海面の上に青の線が一本、はっきり残った。線が少しずつ広がって、両側に円く滲んで、夜の海が青く脈打つように、しばらく光り続けた。
そして、犬が二匹、三匹と吠え始めた。
「うるさい、です」
「うるさいな」
「光、綺麗、ですけど」
「うるさいな」
俺は急いで詠唱を打ち切った。光がゆっくり消えていった。犬の声も、徐々に静まった。
——
ユミルが、俺の方を見ていた。
それから、海の方へ顔を戻して——少し、笑った。
口の端が、ほんの少し上がった。声は出なかった。だが、確かに微笑んでいた。
俺は、その横顔を見ていた。
百年生きてきて、ユミルが、笑った。海の上の光の道のおかげで。うるさい、けど、綺麗な、光の道。
——
ユミルがしゃがんだまま、海の方を向いた。
「リン様」
「ん」
「……綺麗、です」
「ああ」
ユミルが少しの間、何も言わなかった。月の光がユミルの横顔に落ちていた。
「……海、私、好きです」
ユミルがそれだけ言った。
俺は何も言わなかった。
百年生きてきた者の、新しい好きの告白。それを「そうか」と返すか、何も返さないか。俺は迷って、それから返した。
「……そうか」
ユミルが小さく頷いた。
それから、もう一度海を見た。
——
夜光虫の青が、波と一緒にゆっくり揺れていた。沖の方には白い塊。明日からあの方角へ進む。だが今夜は、まだ進まない。今夜は、ただ、海を見ている時間。
ユミルが立ち上がった。
「リン様」
「ん」
「明日から、頑張ります」
「ああ」
「霧、戻します」
「頼んだ」
ユミルがそれだけ言って、桟橋を戻り始めた。俺もその後に続いた。
——
宿の入口で、ユミルがもう一度振り返った。月の光と海の音の方を、しばらく見ていた。
「リン様」
「ん」
「私、海、初めてです」
「知ってる」
「初めて、好きです」
ユミルがそれだけ言って、宿の中へ入っていった。
俺は入口の前でしばらく立っていた。海の方を見た。沖の白い塊。それでも夜光虫の青が、足元の波で揺れ続けていた。
百年の中の、初めての好き。
その重さを、俺は今夜、何も言葉にせず、ただ持って歩いた。
夜が、潮の音の中で深く深かった。
【了】




