109 十五年
港町四日目。
ユミルにもう一日海を見せると決めた日。朝食の後で皆で港の桟橋を歩いた。トーマスは魚屋の店番、サイラスは事務仕事。今日は俺たちだけ。
桟橋の先は風が強い。波が桟橋の柱に当たって白く砕けては引いていく。ユミルがファーファを肩から降ろして桟橋の端でしゃがんだ。
「主、海、青、ニャ」
「青、です」
「主、深い、ニャ」
「深い、です」
「主、底、ある、ニャ?」
「あります」
「俺、見えない、ニャ」
「私も、見えない、です」
ファーファが鼻を鳴らして、海面の波を耳で追っていた。猫はこういう時、何かの動きを目で追う代わりに耳で追う。波の音の細かい変化を聞いている顔だった。
——
桟橋の端で、古い漁師が一人、煙草を吸っていた。
歳は六十過ぎ。顔は皺で深く彫られていて、肌は塩で乾いた木のような色をしていた。木箱の上に座って煙を細く吐いていた。
俺は隣に座った。距離を取って。漁師がこういう時いきなり近付かれるのを嫌うのは知っている。
「いい風だな」
「ああ」
「漁はどうだ」
「……いやあ」
漁師が少し首を振って、煙草の煙をもう一筋吐いた。
「ここ何年、駄目だ」
「不漁か」
「不漁だな」
「何が獲れない」
「鯖。鰯。鰤。回遊する魚は全部、来ねえ」
「全部か」
「来る年もあるが、年々、減る。今年は特に、ひどい」
「磯のは」
「磯のは、まあ、そこそこは。だが、磯のだけじゃ町は食えない」
漁師がそれだけ言って、煙の煙草を一つ口の端で噛んだ。
「原因、分かるか」
「霧だよ」
漁師が指を上げて北の方を指した。北の海の遠くに白く低い塊。昨日見たあれだ。沖の方に張り付いている霧か雲か区別のつかない白。
「あれが、晴れねえ」
「いつから」
「……うちのが若い頃には、もうあった。だが、これほど濃くはなかった」
「濃くなったのは」
「……十五年前ぐらいかな、濃くなったのは」
「十五年」
「うん。十五年だ」
漁師が自分の煙草の灰を払ってまた一服した。
「うちのばあさんが言ってたな。昔は霧なんてなかったって」
「ばあさん」
「俺の母親だ。八十まで生きたが、若い頃の海は、霧なんてなかったって。ずっと言ってた」
「ばあさんの若い頃」
「七十年とか八十年とか、そのくらい前のことだろうな」
「霧、出る前の海、見たことあるか」
「いや、俺はない。生まれた時にはもう、薄く霧があった」
「ばあさんの話だけ、か」
「ばあさんの話だけ。だから、町の若いのは、霧のない海なんて知らねえ」
漁師がそれだけ言って、煙草の最後を吸い切った。木箱の足元で踏み消した。
——
俺は何も言わなかった。エルナも黙っていた。ルークも黙って、海の北側を見ていた。
ユミルが少し離れたところで、しゃがんだまま海を見ていた。
ファーファがユミルの肩に戻った。ユミルの口が、誰にも聞こえないくらい小さく動いた。
「……十五年」
それだけ。
ファーファが耳を傾けた。ユミルが小さく頷いた。それでファーファも黙った。
ユミルの中で、何かの数字が置かれた。十五年。
ユミルは数字を持つとそこから動かない。記録の中の人だ。ユミルの記録のどこかに「十五年前から霧が濃くなった」という数字が今、刻まれた。
ユミルは多分、もう一つの数字をその近くに置いた。
俺は知っている。ユミルが「百年」と言う前に何かの記録が中断した時期がある。ユミルが「私、欠片、です」と言うときのあの欠片。あれを集める百年の話の中でいくつか空白の時期がある。十五年前というのはそのうちの一つに引っかかる数字なのだろう。
俺はそれを確認しなかった。
確認してもユミルは答えない。「分かりません、です」と返すだけだ。それが何を意味するかも、ユミルの内部処理が落ち着くまで外からは触らない方がいい。
エルナがそっと俺の肩を叩いた。**それ以上は、聞くな**。の合図。
俺は頷いて、何も言わなかった。
——
漁師が立ち上がった。
「すまんね、長話して」
「いや、こっちこそ」
「あんたら、調査の人か」
「ああ」
「霧、晴れたら、教えてくれ」
「分かった」
「……晴れたら、孫にも見せてやれる」
漁師がそれだけ言って煙草の小箱を懐に戻した。背中を向けて桟橋を戻っていった。木の桟橋の板が漁師の足の下で乾いた音を立てた。
——
桟橋の上に、俺たちだけが残った。
ユミルが立ち上がった。風が吹いてユミルの髪が後ろに流れた。ユミルがしばらく北の海を見ていた。白い塊の方をじっと。
「リン様」
「ん」
「あれ、十五年、です」
「らしいな」
「私、調べます」
「ああ」
「調べて、戻します」
ユミルがそれだけ言ってまた海の方を見た。声に力が入っていた。普段のユミルの淡々とした「分かりました、です」の声ではなかった。
俺はそれを聞きながら、何も言わなかった。エルナもルークもファーファも、何も言わなかった。
百年生きて、初めての海。
その海の上に十五年前から張り付いている白い塊。
ユミルの中で二つの数字が並んだ。百年と十五年。その差の中にユミルの何かがある。あるかもしれない。それはまだ分からない。
——
宿に戻る道の途中、エルナが俺の隣に並んだ。
「リント君」
「ん」
「あの霧、ただの自然現象じゃないな」
「だな」
「百年の海でなかったものが、ある時期から出てきた。それが十五年前から、急に濃くなった」
「ああ」
「敵が、いる」
エルナが低く言った。冒険者として戦場を見てきた目で、エルナはそう判断した。霧というのは自然の方が場所を選ぶ。出る場所には毎年出るし、出ない場所には何年経っても出ない。それが、ない場所に「七十年か八十年前から」出始めて、十五年前から急に濃くなった。これは、人為だ。
「分かってる」
「気をつけよう」
「ああ」
エルナはそれ以上は言わなかった。エルナの観察はいつもこれぐらいで終わる。俺が分かったと言えばエルナは黙る。同じ判断を二人で確認したという、それだけの儀式。
——
宿に戻る道で、ファーファがユミルの肩で小さく言った。
「主、戻す、ニャ?」
「戻します」
「俺、手伝う、ニャ」
「ありがとう、ファーファ」
「礼、いらない、ニャ」
ファーファがそれだけ言ってユミルの首筋に頭を擦り付けた。猫の額がユミルの肩に温かく押し当たった。
ユミルが少し笑った。
夕方の港町。漁から戻る船の灯りが遠くで一つ二つ点いていた。海の上の白い塊は夕日の中で薄く赤に染まっていた。
夜が、潮の音の中で軽く深かった。
【了】




