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107 魚屋の男


港町ヴェルファ二日目の朝。


宿の窓から差し込む光が内陸の朝とは違っていた。白い。海面の反射が混ざっているせいだ。空気もどこか湿っていて、潮の匂いが部屋の中まで来ていた。


「主、起きる、ニャ」


ファーファが俺の枕の上で前足を踏んでいた。爪を出さずに踏むので痛くはないが目は確実に覚める。ファーファ式の目覚まし。


「起きてる」


「主、市場、ニャ」


「行くよ」


ユミルはとっくに起きていて窓辺で外を見ていた。窓の下は港。船が出入りしている。ユミルの背中が珍しく前のめりだった。


「リン様、漁、見ました」


「もう?」


「明け方、見ました」


「眠れなかったのか」


「見たかった、です」


百年生きていて初めての海。眠れなかったのか起きていたのか、ユミルにしては珍しいことだ。窓の外で漁師が網を畳んでいる。その手つきを、ユミルは目で追っていた。


——


宿の女将に教えてもらった。隣の魚屋が一番早くて新鮮で、しかも安い。


「エーギルさんとこ。隣だから、すぐ分かるよ」


「エーギル」


「うちの隣のあの、若いの」


女将がそう言ったあと、少しだけ間が空いた。一拍だけ。


「……まあ、行ってみな」


俺はその一拍を聞き逃さなかった。何かある。だが女将の顔は普通に笑っていた。何で止まったか女将自身も分かっていない感じの止まり方だった。


——


宿の隣に魚屋があった。


板張りの台の上に朝獲れの魚が並んでいた。銀色、青、赤茶色、平たいの、丸いの、長いの。ユミルが一歩前に出て台の前で止まった。


ファーファがユミルの肩で耳を立てた。


「主、これ、全部、魚、ニャ?」


「……はい」


「全部、食う、ニャ?」


「……たぶん」


「主、食う、ニャ」


ファーファが声を低くした。狩りの目だ。


台の奥から男が出てきた。


背が高く肩が広い。日に焼けた肌、短く刈った黒髪。歳は二十代半ばといったところ。眉が太く目つきは静か。漁師の身体に、声は意外と低くて落ち着いていた。


「いらっしゃい」


「魚、いいか」


「どうぞ」


男が俺たちを見て、それからユミルとファーファをもう一度見た。視線が止まったのは一瞬。すぐ普通に戻った。


「初めてだな」


「昨日、着いた」


「内陸組?」


「ああ」


「ふっ」


男が小さく笑った。豪快に笑うわけではない。「ふっ」の一音だけ。


「俺、トーマス。ここの主」


「リント」


「ルーク」


「エルナ」


「……ユミル、です」


ユミルが小さく頭を下げた。トーマスが軽くうなずいた。


「で、何が知りたい」


「全部」


「全部?」


「全部」


ユミルが台に並んだ魚を一つずつ指差し始めた。


「これ、何、ですか」


「鯖。塩焼きが旨い」


「これ、ですか」


「鰤の若いの。煮付け向き」


「これ、ですか」


「平目。刺身でいける」


「刺身」


「生で食う」


「生」


ユミルが繰り返した。それから、もう一度トーマスを見た。


「教えて、ください」


「魚を?」


「全部、です」


トーマスが目を細めた。それから低く笑った。


「ふっ……いいぜ」


トーマスは台の端から大きいのを一匹取り上げた。鰤の少し大きいやつ。


「これは脂が乗る前のやつ。今が旨い。煮付けでも焼きでも刺身でも何でもいける」


「全部、です」


「順に試せばいい」


トーマスはまた別の魚を持ち上げた。平たい銀色の魚。


「これは舌平目。バターで焼くか、煮るか。骨が外しやすい」


「外しやすい」


「あんた、骨苦手か」


「初めて、です」


「最初は骨が外しやすいのから入れ。鯖と平目と、あと鰈」


「覚えました」


ユミルが鰤と舌平目をじっと見ていた。記憶している顔だった。


——


宿に戻って女将に焼いてもらった。


魚は鯖。トーマスのおすすめ。塩を振って皮をパリッと焼いて、熱いうちに身をほぐす。湯気と一緒に脂が立ち上る匂い。


ユミルが箸を持って、しばらく動かなかった。


「リン様、これ、食う、ですか」


「食う」


「骨、あります」


「骨は外して食う」


「外す、です」


ユミルが慎重に身をほぐした。白い身が皮から離れる。それを口に運んで噛んだ。


しばらく動かなかった。


それから薄く目を細めた。


「……美味しい、です」


「だろ」


「魚、美味しい、です」


「百年、知らなかったのか」


「川魚、知って、ました。海、初めて、です」


「海の魚は、また別」


「別、です」


ユミルがもう一切れ口に運んだ。ファーファがユミルの肩で身を乗り出してユミルの皿を覗き込んだ。


「主、俺にも、ニャ」


「……骨、外す」


「主、俺、骨、噛める」


「噛める、ですか」


「噛める、ニャ」


ユミルが少し笑った。皿の隅にファーファのために小さく身を取り分けてやった。ファーファが鼻を鳴らして、ユミルの取り分け方をじっと監視していた。


——


エルナが朝食を片付けながら呟いた。


「……あの兄ちゃん、悪くないね」


「魚屋?」


「いや、笑い方」


「ああ」


「ガハハって笑わないやつ、私、わりと好き」


エルナが昨日の地酒の残りで一杯やっていた。朝から飲むのかと俺は何も言わなかった。エルナはこういう時、何も言われない方が機嫌がいい。


「目がな」


「目?」


「あいつの目、笑う時だけ少し陰る」


エルナがそれだけ言って、また杯を傾けた。エルナは時々、この手の観察を一言だけ落とす。当たっていることが多い。トーマスの「ふっ」という笑いの後、確かに目尻が一瞬だけ翳った。俺もそれを見ていたが言葉にはしなかった。エルナの方が早かった。


ルークが台所の方から出てきた。手に水の入った木桶。


「兄貴、馬の水は俺がやっとく」


「悪い」


「街の馬屋、安くて広い。一日、ちゃんと休ませる」


「頼む」


ルークは馬に詳しい。村にいた頃から馬の世話は弟の仕事だった。港町でも、その担当が変わるわけではない。ルークがそういう場所を確保するのは早い。


——


宿の階下で女将が知り合いの漁師と話しているのが聞こえた。


「あんたんとこ、隣に魔法使いの嬢ちゃんが泊まってるって?」


「そうだよ」


「エーギルんとこに、朝、行ったって」


「ああ」


「……ふうん」


「何だい」


「いや。別に」


漁師が笑って通り過ぎた。女将が首を傾げて、それで終わりだった。


俺は階段の途中でそれを聞いていた。


エーギル。


宿の女将も漁師も、その名前で一拍止まる。それでいて何で止まったか自分でも分かっていない。


たぶん何か古い物の名残で、住人の中で名前だけが残っている。意味は忘れられている。そういう止まり方だ。


——


ユミルが食堂の窓からまた海を見ていた。


「リン様」


「ん」


「魚、明日も、食べたい、です」


「食え」


「全部、食べたい、です」


「全部は無理」


「少しずつ、です」


「それならいい」


ユミルが小さく頷いた。窓の外を漁から戻ってきた船が一艘、港に入ってくるところだった。鴎の声がして波の音が低く続いていた。


夜が、海の音の中で静かに深かった。


【了】


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