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106 海



三日目の朝、ハンドルを出立した。


街道は午前中、丘の縁を回って徐々に下り始めた。木が低くなり、空が広く見えるようになってきた。風の匂いが少しずつ変わっていた。


「リン様」


「ん」


「匂い、違います」


「ああ」


「これ、海、ですか」


「たぶん」


ユミルが御者台のすぐ後ろの幌の隙間から、首を出していた。鼻が小さく動いていた。


「潮、です」


「うん、潮」


「初めて、嗅ぎます」


「うん」


ユミルが鼻をもう一度動かした。それから、ゆっくり中に引っ込んだ。エルナが幌の中で笑っている気配がした。


——


午後、坂が本格的に下り始めた。


両側の木が海の風で斜めに育っている。葉の裏が銀色に見える種類の木。土の色も変わってきた。砂が混ざった白っぽい土。


風が変わった。湿って、少ししょっぱい匂い。潮の匂いだ。坂を下るほど濃くなっていく。


「兄貴、ここから狭くなる」


「半速でいい」


「ああ」


ルークが手綱を軽く引いた。馬車の速度が落ちた。


坂が一段下がって、視界が一気に開けた。


——海が、見えた。


緑がかった青、白い波の帯、水平線。空との境目がうっすら霞んでいた。坂の上から見下ろす形で、町と海が両方視界に入っていた。


御者台の後ろで、ユミルが息を止めたのが分かった。


しばらく、何も言わなかった。


ルークも黙って手綱を握っていた。馬がゆっくり下って行く。海が、坂を下るたびに少しずつ近づく。


ユミルが薄く言った。


「……海、です」


「うん」


「……広い、です」


「広いな」


「……綺麗、です」


ユミルの声が少し詰まっていた。


——百年生きて、初めての海、か。


俺はそれだけ思って、何も言わなかった。エルナも幌の中で黙っていた。こういう瞬間は黙っているのが正解だと、エルナは知っている。


ファーファがユミルの肩で目を覚ました。


「主、海、ニャ?」


「……はい」


「初めて、ニャ?」


「……はい」


「綺麗、ニャ」


「……はい」


ファーファがそれだけ言って、海の方を見ていた。猫の目が波の動きを追っていた。


——


坂を下りきると、町の入口に着いた。


ヴェルファ。


港町。家の屋根が低く、白い漆喰の壁、赤い瓦。道の両側に漁網を干す木の枠が並んでいた。魚の匂いと潮の匂いが混ざっていた。


人通りが多かった。漁師、商人、子供、犬。


通行門で書状を見せた。門番が一度頷いて、通してくれた。


「南の港町、ヴェルファ。御一行、ようこそ」


「世話になる」


エルナが軽く返した。門番は王都の書状を読み慣れているらしく、それ以上は何も聞かなかった。


——


俺は馬車の中から海を見ていた。


町の通りの隙間から、ちらちらと海が見える。さっき坂の上から見たより近い。波の音が聞こえる。鴎の声も。


ユミルは黙って町の景色を見ていた。


「ユミル」


「はい」


「沖の方」


「はい」


「白いの、見えるか」


ユミルが視線を沖の方に向けた。


町の北側の海の上、少し離れた所に、白い塊が浮いていた。霧、と言うには濃く、雲、と言うには低い。海に張り付くように、白い塊が一つ見えた。


「……霧、です」


「あれ、いつもああなのか」


「分かりません」


「変だな」


「……はい」


ユミルがもう一度沖を見た。それから、何も言わずに視線を町に戻した。記録、と頭の中で言ったのだろう。


俺もそれ以上は聞かなかった。


——


馬車を厩に預けてから、ギルドへ行った。


ギルドは港のすぐ近く、煉瓦造りの大きな建物。船員と冒険者が混ざって出入りしていた。受付で書状を出した。受付の女が書状を一瞥して、目を上げた。


「お待ちしておりました」


「世話になる」


「ご紹介の宿は、波止の家がいいかと。すぐ近くです」


「分かった」


「依頼で、何かこちらでお手伝いできることがありましたら、いつでも」


「ありがとう」


エルナがそれだけ受け取って書状を仕舞った。受付の女がユミルの方を一度見て、軽く会釈をした。


「魔法使いのお嬢さん、ようこそヴェルファへ」


「お世話になります」


ユミルが頭を下げた。


——魔法使いのお嬢さん、か。


俺は思った。「巫女様」じゃない。町の人間にはそういう情報は届いていない。届いているのはギルドの上の方だけだろう。これでいい。


——


宿はギルドから歩いて三分、波止の家。


港のすぐ目の前。窓を開ければ船と海が見える宿だった。女将が太った大柄の女で、笑い声が大きかった。


「ヴェルファへようこそ! 部屋は二階の奥、四人部屋一つでいいかい?」


「頼む」


「猫もいいよ! うちの息子も猫好きでね」


ファーファが鼻を鳴らした。女将の笑い声に少しびっくりしたらしい。


「猫デカいニャ」


「お前が言うな」


——


部屋に荷物を置いて、もう一度外に出た。


港をぶらぶら歩いた。


漁から帰った船が桟橋に着いていた。漁師が魚を陸揚げしている。籠に山ほど、銀色に光る魚。鯵、鯖、それから細長い、青い背中の魚。ユミルが屋台の魚屋で一つずつ目で追っていた。


「種類、多い、です」


「うん、多い」


「全部、海、です」


「うん、海」


「……海、すごい、です」


ユミルがそれだけ言って、頷いた。


——


港の端で、エルナが酒屋を見つけた。


「お、これ、市場で聞いた銘柄」


「もう買うのか」


「下見」


「下見ばっかりだな、お前」


「下見が、八割」


エルナが酒屋の親父と、もう何かしゃべり始めていた。手が動いている。値段の交渉ではなさそうだ。今日採れた魚と合う酒の話だろう。


ルークが桟橋の方を見ていた。視線の先に漁師たちがいた。


「兄貴、なんか、見てるな」


「ん」


「漁師、何」


「腕、いい」


ルークがそれだけ言った。


漁師の動きが、ルークの目を引いたらしい。網を引く動き、魚を捌く動き、ルークの目には何かが見えている。俺にはただの漁師の動き。村の弓使いと同じで、ルークは技を見る目だけはいつも生きている。


——


夕方、宿に戻った。


部屋の窓を開けると、港が一望できた。船の出入り、波の動き、夕方の鴎の声。


ユミルが窓辺に立って海を見ていた。


「ユミルちゃん」


エルナが横から声をかけた。


「はい」


「気に入った?」


「……はい」


「明日、もっと色々、見て回ろうか」


「はい」


「酒場も、行く」


「……はい」


「あんた、酒場には興味ないだろ」


「人、観察、です」


「観察、ね」


エルナが笑った。ユミルが少し、小さく笑った。


——


寝る前にもう一度、窓の外を見た。


夜の港。漁船の灯が、ぽつぽつと水面に映っていた。沖の方、白い霧の塊が薄く月の光を反射していた。


——あの霧、何だろうな。


俺は薄く思った。


坂の上の時から、ユミルがあの霧を見ていた視線が、少し気になっていた。「分かりません」と言ったが、ユミルは「分からない」を言いながら「気になる」という意味で言うことが多い。


ユミルが灯りを消す前に、薄く言った。


「リン様」


「ん」


「明日、見て、回ります」


「うん」


「色々、です」


「うん、色々」


それだけだった。


ユミルが灯りを消した。


ファーファが寝具の上で丸くなる音がした。エルナの規則正しい寝息が、少しずつ部屋を満たしていった。ルークは交代の見張りで外の廊下に出ていた。


——


俺は眠れずにしばらく、窓の外を見ていた。


港の灯。波の音。沖の霧。


ヴェルファに着いた。


これからしばらく、この港町にいる。何があるかは分からない。ただ、ユミルが「海、初めて、です」と何度も言って、ようやく見られた海。それだけはちゃんと見届けた。


それでよかった、と思った。


夜が、海の音の中で軽く深かった。


【了】


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