105 鯖と鯵
二日目の昼過ぎ、中継の宿場町ハンドルに着いた。
街道のちょうど中間の町。馬を替える商人、休憩する旅人、肉を売る屋台。雑多で、賑やかな町だった。王都の整然とした街並みとは違う。家の壁が斜めに傾いていた。
ルークが馬を厩に預けてから、宿を取った。「車輪亭」という、字の通り馬車宿らしい名前の宿。一階が食堂、二階が部屋。夕方には食堂が満員になるらしい。
「四人部屋、空いてるよ」
宿の女将が、奥の部屋を示した。
「猫、いいか」
「猫? あー、いいよ。下に降ろさなきゃ」
「分かった」
ファーファが俺の肩で首をくいっと曲げた。
「主、猫、ニャ」
「うん、猫だ」
「人化、する?」
「いい、寝てろ」
ファーファが鼻を鳴らして肩でまた丸くなった。
——
部屋に荷物を置いてから街を歩いた。
エルナは市場へ。ユミルとルークと俺はぶらぶら町を見て回った。市場でエルナは酒の話を聞きに行ったのだろう。
ユミルが歩きながら店の看板を一つずつ見ていた。
「ハンドル、車輪、です」
「うん、馬車の中継だから、車輪の町」
「ハンドル、英語、です」
「英語?」
「……あ、いえ」
「英語、何」
「……古い、言葉、です」
「ふーん」
ユミルが少し止まって、何でもない顔で歩き出した。
俺は気付いていた。ユミルが時々こうやって聞いたことのない言葉を口にする。「英語」もたぶんその一つ。本人も口に出した瞬間に「これは言わない方がよかった」と気付いている。それで誤魔化す。
俺は突っ込まない。突っ込んでもユミルは説明しないか、説明しても俺には分からない理屈になる。それなら、こうやって流すのが一番だ。
ユミルの中には、こちらが知らない言葉と知識がまだ大量に詰まっている。これからも、たまにこうやって漏れる。
——
ユミルが目を留めた屋台があった。
魚の干物を売っていた。海の魚らしい。ハンドルから海まではまだ一日ある。ヴェルファから運ばれてきたもの。
「これ、何の魚」
「鯖、と、鯵」
屋台の親父が二種類を指で示した。茶色く薄い、塩で締められた干物。
「食べたこと、ない、です」
「お嬢ちゃん、海、初めてかい」
「はい」
「ヴェルファ行くなら、生のやつ食ってみな。こいつより、ずっとうまい」
「楽しみ、です」
ユミルが頷いた。屋台の親父が少し笑って、干物を一切れユミルに渡した。
「味見な」
「ありがとう、ございます」
ユミルがかじって、目を少し丸くした。
「……塩、強い、です」
「保存用だからな」
「美味しい、です」
「お嬢ちゃん、いい顔するね」
親父がニカっと笑った。ユミルがその干物を手で半分に割って、残りを俺に渡した。
「リン様も、味見、です」
「俺はいい」
「美味しい、です」
ユミルが、もう一度差し出した。俺は仕方なく受け取ってかじった。塩が強い。でも香ばしくて悪くなかった。
「うまい」
「美味しい、です」
ユミルが嬉しそうに頷いた。屋台の親父がユミルの手に、もう一切れおまけで載せた。エルナの礼儀は伝染するらしい。今度はユミルがやっていた。
——
夜、宿の食堂。
エルナが先に戻っていて、もう酒を飲み始めていた。机の上に瓶が三本立っていた。
「お前、どこから持ってきた」
「市場で、安いの買ってきた」
「三本」
「三本」
「飲み比べか」
「飲み比べ」
エルナが嬉々として注ぎ分けていた。俺、ルーク、エルナ、ユミルの四人分の小さい木の杯。
ルークが一口、口に含んだ。
「……これ、一番、辛口」
「正解。ハンドルの地酒」
「悪くない」
「もう一本、行く?」
「今は、いい」
ルークは飲み比べのペースが分かる。最初に辛いやつが舌の基準を作る、とエルナが教えていた。エルナはこういう時、酒の作法を本気で語る。エルナの一番楽しい時間だ。
ユミルも木の杯に口をつけて目を細めた。
「……二本目の、これ、好き」
「ユミル、酒、強いよなあ」
エルナが嬉しそうに言った。ユミルは耐性のせいかいくら飲んでも顔色一つ変わらない。酔った姿を見たことがない。それでも味は好きらしく地酒を出されると毎回ちゃんと味わって飲む。
「ユミル、毒も酔いも、効かない。でも、味、分かる」
「便利な舌」
「便利、です」
——
俺が部屋に戻ると、ファーファとニャルニルが机の上で何かやっていた。
机の上に屋台の干物が一切れ置かれていた。親父がおまけしてくれた、もう一切れの方。ファーファのために持って帰ったのだろう。
「ニャルニル、軽く、ニャ」
「……了解」
「軽く、ニャ」
「……はい」
干物が薄く色を変えた。塩の表面がじゅっと音を立てた。香ばしい匂いが部屋に広がった。
「主、温め、ニャ」
「お前、また温めてんのか」
「干物、温めた、ニャ」
「俺、何、教えた」
「干物、温め、ニャ」
「……寝言、か」
「……はい」
ユミルがいつの間にか後ろに立っていて、短く頷いた。
「マジか」
ファーファが鼻を鳴らした。ニャルニルがぼそっと付け加えた。
「……役に、立てました」
俺は温められた干物を半分に割って、ファーファに渡した。
「お前も食え」
「主、ありがとう、ニャ」
ファーファが小さい口で干物をかじり始めた。ニャルニルが机の上で、薄く光を出していた。光に温度が乗っていた。火じゃない、温い空気のような光。
——
干物を食ってから、エルナが部屋に戻ってきた。少し顔が赤かった。
「リント君、いいの食ってんね」
「ファーファとニャルニルが、温めた」
「ニャルニル、また仕事してんの」
「……はい」
ニャルニルがぼそっと答えた。エルナがふっと笑った。
「あんた、料理人になんの?」
「……分かりません」
「いいよ、目指して」
「……はい」
ニャルニルがぼそっと頷いた。エルナがもう一回笑って、机に座った。座ってから目を細めた。
「ヴェルファに、いい魚があるらしい」
「市場で聞いたか」
「聞いた」
「お前、酒の話の合間に、魚の話もしたのか」
「酒と魚はセット」
「お前な」
「リント君、海行ったら、覚悟しといて」
「何の覚悟」
「私が、毎晩、魚と酒で、機嫌良くなる覚悟」
「……勘弁してくれ」
エルナが笑って、瓶からまた一杯注いだ。ユミルが横で、最後の一切れをゆっくり食っていた。塩の味を口の中で確かめている顔だった。
——
寝る前、ユミルが机に座って何か紙に書いていた。
「ユミル、何、書いてる」
「記録、です」
「干物?」
「干物。鯖、鯵。塩、強い。香ばしい」
「お前、本当に、何でも記録するな」
「……はい」
「楽しいのか」
「楽しい、です」
ユミルがそう言って、また紙にペンを走らせた。
俺は灯りを少し落として毛布を被った。ユミルのペンの音が、薄く聞こえていた。ファーファがユミルの足元で丸くなって寝ていた。
——海、明日、か。
ユミルには、長く待った日になる。百年生きて一度も見ていない海。明日、見える。
俺はそれを横で見る。
——その瞬間の、ユミルの顔は、どんな顔をするだろう。
少し、楽しみだった。
ペンの音が止まった。ユミルが灯りを消した。
夜が、宿の中で軽く深かった。
【了】




