104 街道
朝、王都南門。
馬車が一台、用意されていた。馬は二頭、栗毛と鹿毛で、どちらも素直そうな顔をしていた。御者台が広い四輪、幌付き。後ろの荷台にはもう、買い出した荷物が積まれていた。
ルークが御者台に上がって、手綱を一度確かめた。馬の首を軽く叩き、何か小さく話しかけていた。馬が短く首を振った。
「兄貴、いけるか」
「ああ」
「無理すんなよ」
「分かってる」
ルークの言い方は、村にいた頃の弓の師匠みたいだった。馬に対しても同じ口調を使うらしい。ルークは怒鳴らない。馬も、たぶんそれが分かる。
——
エルナとユミルは、幌の中に乗り込んだ。俺は最初、御者台の隣に座った。視界が広い方が、先で雑魚が出た時に対応しやすい。
ファーファはユミルの肩で寝ていた。出立前から、もう寝ていた。
「主、寝る、ニャ」
「うん、寝とけ」
「揺れる、ニャ」
「揺れる」
ファーファの尻尾がユミルの首筋でぴくぴく動いていた。ユミルがその尻尾を指で軽く撫でた。ファーファの目が薄く開いて、また閉じた。
「行きます」
ルークが手綱を軽く打った。馬車がゆっくりと動き出した。
——
王都南門を出ると、街道はまっすぐ南。
両側に麦の畑、その奥に低い丘。空気が王都の中より少し乾いていた。
「天気、いいな」
「ああ」
「このまま二日、晴れててくれよ」
「うん」
ルークの返事はいつも短い。御者をやっている時はさらに短くなる。馬と街道に集中している。それでいい。
幌の中でエルナが何かをしゃべっていた。声が薄く流れてくる。ユミルの「はい」「はい」が時々混じる。エルナが地酒の話をしているらしい。出立してまだ一時間も経っていないのに、もう酒の話だ。
「お前、酒の話、いつまで」
俺が振り返って半分笑って言った。エルナが幌の中から顔を出して、ニコッと笑った。
「ずっと」
「予想した」
エルナが笑って、幌の中に引っ込んだ。ユミルが「五銘柄、です」と短く言って、また静かになった。
——
昼前、最初の村を通った。
小さい村、家が十軒、井戸が一つ。村の入口で女が一人、洗濯をしていた。馬車を見て、軽く手を振った。エルナが手を振り返した。
「お前、知り合いか」
「いや」
「なら、なぜ手を振った」
「向こうが振ったから」
「お前な」
「礼儀」
エルナの礼儀の感覚はたまに分からない。でもエルナの礼儀で、街の人がよくこちらに優しい。理屈は分からないが、結果として効いている。
村を抜けてから、また街道。畑、丘、空。同じ風景。
——
午後、最初の戦闘があった。
街道脇の茂みからホブゴブリンが二匹。痩せた個体、はぐれだろう。ルークが馬を止めた。
俺は弓を抜いた。
距離、二十歩。
指が、離れた。
矢が、一匹目の喉に刺さった。
ルークが御者台の上で弓を構えていた。矢が二匹目の胸に刺さった。
二匹とも、声を上げる前に倒れた。
「終わった」
「終わったな」
ルークが手綱を取り直した。馬車がまた動き始めた。幌の中からエルナが顔を出した。
「終わった?」
「終わった」
「早いな」
「お前、見てないだろ」
「見てない」
「見てない奴に、早いって言われても」
「結果が早い」
エルナが笑って、また引っ込んだ。ユミルが「ホブゴブリン、二、です」と幌の中で頷いていた。記録だ。
——
夕方、街道沿いの野営地に着いた。
石組の竈が一つ、井戸が一つ、馬を繋ぐ柵が並んでいる。先客が一組いた。商人らしい馬車が三台。挨拶を交わした。
「お前らも南か」
「ヴェルファだ」
「うちはハンドル止まり。明日また分かれるな」
「気をつけて」
「気をつけて」
それだけで向こうも自分の竈に戻った。商人の方が早く着いたらしく、火がもう熾っていた。こちらも竈に火を入れて湯を沸かした。
ファーファが俺の肩から飛び降りて、地面の匂いを嗅いでいた。
「主、土、違う、ニャ」
「王都と違うか」
「違う、ニャ」
「うん、違うよ」
ファーファが満足そうに鼻を鳴らした。土の匂いがファーファには分かるらしい。俺には王都の土も、街道の土も同じ土に見える。
——
夕飯は干し肉、パン、玉葱の炙り。エルナが鍋でスープを作っていた。胡椒の匂いがした。
ユミルが竈の火を見ていた。
「火、温い、です」
「うん、温い」
「ニャルニルの、火と、違います」
「そうか?」
「色、違います」
ユミルがそう言って、ニャルニルを影から少し出した。ニャルニルが地面に置かれて、薄く色を出した。竈の火と並べると、確かに色が違った。竈の火はオレンジ、ニャルニルの火は青みがかった白。温度が違うのだろう。
「ニャルニル、火、綺麗、ニャ」
ファーファが横で言った。
「……はい」
ニャルニルがぼそっと答えた。
「綺麗」と言われて、ニャルニルは少し嬉しそうだった。表情はない。声の調子だけで分かる。最近、ニャルニルの声に少しだけ温度が乗ることがある。
——
夜、火の周りでエルナがスープを配った。
「いただきます」
ユミルがそう言ってスプーンを取った。スープを一口飲んで、止まった。
「……あったかい、です」
「うん、あったかい」
「外で、飲むスープ、初めてです」
「マジか」
「百年、内陸、です」
「あー、そっか」
ユミルがそれだけ言って、また一口飲んだ。火の光がユミルの頬に薄く揺れていた。
俺は気付いた。ユミルが「初めて」と言うことが、ここしばらくで増えた。海も初めて、外でのスープも初めて。たぶんこれから、もっと増える。
「ユミル」
「はい」
「明日、二日目、夜にハンドル着く」
「はい」
「明後日、海、見える」
「……はい」
ユミルがスプーンを止めた。視線がスープの中に落ちた。
「海、初めて、です」
エルナが横で笑った。
「あんた、それ、王都で言って、街道で言って、明日も言うんでしょ」
「言います」
「言うって、決めてんのか」
「楽しみ、です」
ユミルがスプーンをまた動かした。エルナが小さく息を吐いて、空を見上げた。
「あんたの『初めて、です』、いいよ。なんか、こっちまで楽しみになる」
「いい、ですか」
「いい」
ユミルが一回、頷いた。
——
火が落ちて、寝る支度に入った。
ユミルが幌の中で寝具を整えていた。ファーファがその上に飛び乗って、丸くなった。エルナが俺に毛布を投げて寄こした。
「リント君、寒くないように」
「お前は」
「私、酒で温める」
「飲むのか」
「少し」
エルナが小さい瓶を出した。王都の酒らしかった。一人で飲むつもりだ。俺は何も言わずに毛布を被った。
ルークは火の番で御者台の脇に座っていた。弓は膝に置いていた。寝る時もたぶんそのまま。村の頃と同じ。
夜空が街道の上にうっすら広がっていた。
ユミルが幌の中で薄く言った。
「明日、二日目、です」
「ああ」
「明後日、海、です」
「うん」
「楽しみ、です」
俺は答えなかった。聞こえてないことにしようかと思ったが、エルナがにやにやしているのが分かった。
「楽しみ、だな」
仕方なく、それだけ返した。
夜が、街道の上で軽く深かった。
【了】




