102 報告と、親書
朝、塔に登った。
ユミルが手紙を懐から出して塔士に渡した。封蝋は赤、宛名は塔長ヴェスタ。事務的な薄い封筒だった。
「お預けします」
「……承りました」
塔士はそれだけ言って、奥へ消えた。
ユミルの背中が少しだけ深く息を吐いた。
——
俺は塔の入口の柱に背を預けて、空を見ていた。雲が薄かった。王都の朝はいつも空気が冷えている。ユミルが戻ってくるまで何もすることはなかった。
エルナが横で欠伸をした。
「……起きるの早すぎだろ、こっちは昨日まで街道で雑魚踏んでたのに」
「お前、文句多いぞ」
「文句じゃない、事実」
ファーファが俺の肩でしっぽを揺らしていた。
「主、塔、長い、ニャ」
「うん、長い」
「ジャーキー、ある?」
「ない」
ファーファが鼻を鳴らした。ユミルが戻ってきたのは、少し経ってからだった。
「お待たせしました」
「どうだった」
「進捗、三割五分、です」
少し進んだらしい。前に聞いた時は三割だった。書き換えとやらが、人格再構成とやらが、どれだけ時間がかかるものなのか、俺には分からない。ユミルの言い方が、少しだけ柔らかかった。
「ファイアウォール、解除、まだ、です」
「うん」
「もう少し、お時間、いただきます」
「分かった」
塔の中にヴェスタとかいう長老がいる。俺はまだ会ったことがない。会わせてくれない、というか、ユミルが会わせない。書き換え中だからというのが理由らしい。理屈は分からないが、ユミルが会わせないと言うならそれでよかった。
ユミルは塔を一度振り返ってから、前を向いた。
——
その日の昼前、王宮に呼ばれた。
通された部屋は前と同じ応接の間。机の上に紙束がいくつか積まれていた。封蝋つきのもの、地図、一覧表。
「お待たせしました」
王族の遣いがまず茶を出して、それから紙束を手で示した。
「南の港町、ヴェルファに向かわれると伺いました」
「ええ」
エルナが頷いた。返事は基本、エルナがする。俺は黙って、紙束を見ていた。
「あちらへの親書をお預けします。海洋国家連合への通行と、便宜の依頼が記してあります」
「ありがたい」
「馬車の手配も完了しました。明後日、王都南門。御者は当方で用意せず、そちらで動かしていただく形で」
「ああ、御者はうちのが、やる」
ルークが軽く頷いた。エルナが横を見て笑った。
「兄ちゃん、御者できるんだ」
「やったことはある」
「あんた、村でやってたんだっけ」
「数えるほどだが」
王族の遣いが聞いて表情を少し緩めた。もう一枚の紙を取り出して、こちらに寄せた。
「こちらは、ヴェルファのギルド宛の紹介状です。宿の手配は、現地でお任せいただきますが、いくつか良さそうな所をこちらに記しておきました」
俺は受け取って、書かれていた宿の名前を眺めた。三つ。一番上が「波止の家」、二番目が「白帆亭」、三番目が「魚籠のしるし」。
「うちは波止の家が長く付き合いがあります。空いていれば、そちらが安いかと」
「了解した」
ユミルが頷いた。
「親書、お預かりします」
「巫女様、お頼み申します」
ユミルの顔が一瞬止まった。
「巫女様」と呼ばれることに、まだ慣れていないらしい。塔の中ではともかく、外でその呼び方をされると、ユミルは少し間が空く。すぐに「はい」と返したが、視線は親書の封蝋に落ちていた。
——巫女様、か。
俺は少し思った。一般の街では誰もユミルをそう呼ばない。「魔法使いのお嬢さん」止まりだ。王宮と塔、たぶんその周りだけがこの呼び方を使う。それでいいのだろう。広まりすぎてもいいことはない。
——
王宮を出た。
外の空気は少し緩んでいた。昼の市場が動き始めて、肉屋から焼ける匂いが流れてきた。エルナが鼻を鳴らした。
「……腹減った」
「お前、王宮で茶飲んだろ」
「茶は腹に溜まらない」
「お前、本当に、文句多いぞ」
ユミルが少し笑った。最近、エルナと俺のやり取りを聞いて、ユミルは時々こうやって笑う。前は笑い方が分からないみたいな顔だったのに、今は普通に笑う。
「ご飯、行きますか」
「行く」
「肉、です」
「肉だな」
ファーファが俺の肩で起き上がった。
「肉、ニャ」
——
肉屋の隣の食堂で、四人分の昼飯を頼んだ。ルークも一緒。ユミルはいつものパンとスープ、それから今日は鶏の腿肉。エルナは牛、俺は牛、ルークは羊。ファーファはユミルに鶏肉をちぎってもらって、机の上で食っていた。
「ユミル、海、行ったことあるか」
俺が何の気なしに聞いた。
ユミルがフォークを止めた。
「……海、初めて、です」
「マジか」
「百年、内陸、です」
「あー、そっか」
エルナが吹き出した。
「あんた、百年生きてて、海見たことないの」
「はい」
「不思議な人生だな」
「人生、不思議、です」
ユミルが真顔で言った。エルナがまた吹き出した。ルークは肉を切る手を止めて少し笑っていた。
俺は海の話をしようかと思って、やめた。俺も海はそんなに見たことがない。山奥育ちで、王都に来てからもしばらく内陸だった。記憶の中に薄く塩の匂いがあるだけだ。ユミルと一緒に、初めてきちんと見ることになる。
——海、初めて、か。
少し、楽しみだった。
——
午後、宿に戻った。
エルナが懐から紙の切れ端を引っ張り出した。市場の魚屋でしゃべり込んでいた時に、もらってきたらしい。
「これ、酒の話」
「酒?」
「ヴェルファ、地酒うまいらしい。澄んだやつと、濁ったやつ、両方あるって」
「お前、出立前から、もう仕入れてるのか」
「下見は早い方がいい」
「お前、酒の話だけは、本気だな」
「酒は人生の半分だよ、リント君」
エルナが紙を机の上に広げて、指で押さえた。書いてあったのは銘柄が三つと、店の場所。殴り書きで、エルナの字じゃなさそうだった。魚屋の親父か誰かが書いてくれたのだろう。
「現地で回ろう」
「分かった」
ユミルが横から覗き込んで、少し眉を寄せた。
「お酒、強さ、どのくらい、ですか」
「あんた、いくら飲んでも顔色変わらないだろ」
「変わらない、です」
「強さもクソもない。底なし」
エルナが笑った。
ユミルは酒で酔わない。耐性のせいか、毒も酔いも効かない体らしい。それでも味は好きで、地酒の話を振られると真面目に聞く。エルナと意気投合するのは大体これだ。海の魚も地酒も、ユミルの中の一覧に少しずつ書き込まれていく。
——
夜、宿の机でユミルが地図を広げていた。
王都から南へ街道がまっすぐ伸びている。途中に中継の宿場町が一つ。その先で坂を下って海岸線に出る。港町ヴェルファ。地図の縁に波の絵が小さく描かれていた。
「明後日、出発、です」
「ああ」
「街道、二日。中継の宿場、一泊。三日目、海、見えます」
「三日か」
「はい」
ユミルの指が地図の上をゆっくり辿っていた。
俺は窓から、王都の夜の灯りを眺めた。
——海、初めて、か。
百年生きて、海を見たことがない。別に驚くことじゃない。内陸で生きていれば、海を見ない人生もある。ただ、ユミルが「初めて」と言った時、少し胸の奥が動いた気がした。
ユミルにとって、これから先はずっと初めてだらけになる。海も潮の匂いも、全部初めて見るものになる。
俺はそれを横で見ていることになる。悪くない役だな、と思った。
夜が、軽く深くなっていた。
【了】




