表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/236

102 報告と、親書


朝、塔に登った。


ユミルが手紙を懐から出して塔士に渡した。封蝋は赤、宛名は塔長ヴェスタ。事務的な薄い封筒だった。


「お預けします」


「……承りました」


塔士はそれだけ言って、奥へ消えた。


ユミルの背中が少しだけ深く息を吐いた。


——


俺は塔の入口の柱に背を預けて、空を見ていた。雲が薄かった。王都の朝はいつも空気が冷えている。ユミルが戻ってくるまで何もすることはなかった。


エルナが横で欠伸をした。


「……起きるの早すぎだろ、こっちは昨日まで街道で雑魚踏んでたのに」


「お前、文句多いぞ」


「文句じゃない、事実」


ファーファが俺の肩でしっぽを揺らしていた。


「主、塔、長い、ニャ」


「うん、長い」


「ジャーキー、ある?」


「ない」


ファーファが鼻を鳴らした。ユミルが戻ってきたのは、少し経ってからだった。


「お待たせしました」


「どうだった」


「進捗、三割五分、です」


少し進んだらしい。前に聞いた時は三割だった。書き換えとやらが、人格再構成とやらが、どれだけ時間がかかるものなのか、俺には分からない。ユミルの言い方が、少しだけ柔らかかった。


「ファイアウォール、解除、まだ、です」


「うん」


「もう少し、お時間、いただきます」


「分かった」


塔の中にヴェスタとかいう長老がいる。俺はまだ会ったことがない。会わせてくれない、というか、ユミルが会わせない。書き換え中だからというのが理由らしい。理屈は分からないが、ユミルが会わせないと言うならそれでよかった。


ユミルは塔を一度振り返ってから、前を向いた。


——


その日の昼前、王宮に呼ばれた。


通された部屋は前と同じ応接の間。机の上に紙束がいくつか積まれていた。封蝋つきのもの、地図、一覧表。


「お待たせしました」


王族の遣いがまず茶を出して、それから紙束を手で示した。


「南の港町、ヴェルファに向かわれると伺いました」


「ええ」


エルナが頷いた。返事は基本、エルナがする。俺は黙って、紙束を見ていた。


「あちらへの親書をお預けします。海洋国家連合への通行と、便宜の依頼が記してあります」


「ありがたい」


「馬車の手配も完了しました。明後日、王都南門。御者は当方で用意せず、そちらで動かしていただく形で」


「ああ、御者はうちのが、やる」


ルークが軽く頷いた。エルナが横を見て笑った。


「兄ちゃん、御者できるんだ」


「やったことはある」


「あんた、村でやってたんだっけ」


「数えるほどだが」


王族の遣いが聞いて表情を少し緩めた。もう一枚の紙を取り出して、こちらに寄せた。


「こちらは、ヴェルファのギルド宛の紹介状です。宿の手配は、現地でお任せいただきますが、いくつか良さそうな所をこちらに記しておきました」


俺は受け取って、書かれていた宿の名前を眺めた。三つ。一番上が「波止の家」、二番目が「白帆亭」、三番目が「魚籠びくのしるし」。


「うちは波止の家が長く付き合いがあります。空いていれば、そちらが安いかと」


「了解した」


ユミルが頷いた。


「親書、お預かりします」


「巫女様、お頼み申します」


ユミルの顔が一瞬止まった。


「巫女様」と呼ばれることに、まだ慣れていないらしい。塔の中ではともかく、外でその呼び方をされると、ユミルは少し間が空く。すぐに「はい」と返したが、視線は親書の封蝋に落ちていた。


——巫女様、か。


俺は少し思った。一般の街では誰もユミルをそう呼ばない。「魔法使いのお嬢さん」止まりだ。王宮と塔、たぶんその周りだけがこの呼び方を使う。それでいいのだろう。広まりすぎてもいいことはない。


——


王宮を出た。


外の空気は少し緩んでいた。昼の市場が動き始めて、肉屋から焼ける匂いが流れてきた。エルナが鼻を鳴らした。


「……腹減った」


「お前、王宮で茶飲んだろ」


「茶は腹に溜まらない」


「お前、本当に、文句多いぞ」


ユミルが少し笑った。最近、エルナと俺のやり取りを聞いて、ユミルは時々こうやって笑う。前は笑い方が分からないみたいな顔だったのに、今は普通に笑う。


「ご飯、行きますか」


「行く」


「肉、です」


「肉だな」


ファーファが俺の肩で起き上がった。


「肉、ニャ」


——


肉屋の隣の食堂で、四人分の昼飯を頼んだ。ルークも一緒。ユミルはいつものパンとスープ、それから今日は鶏の腿肉。エルナは牛、俺は牛、ルークは羊。ファーファはユミルに鶏肉をちぎってもらって、机の上で食っていた。


「ユミル、海、行ったことあるか」


俺が何の気なしに聞いた。


ユミルがフォークを止めた。


「……海、初めて、です」


「マジか」


「百年、内陸、です」


「あー、そっか」


エルナが吹き出した。


「あんた、百年生きてて、海見たことないの」


「はい」


「不思議な人生だな」


「人生、不思議、です」


ユミルが真顔で言った。エルナがまた吹き出した。ルークは肉を切る手を止めて少し笑っていた。


俺は海の話をしようかと思って、やめた。俺も海はそんなに見たことがない。山奥育ちで、王都に来てからもしばらく内陸だった。記憶の中に薄く塩の匂いがあるだけだ。ユミルと一緒に、初めてきちんと見ることになる。


——海、初めて、か。


少し、楽しみだった。


——


午後、宿に戻った。


エルナが懐から紙の切れ端を引っ張り出した。市場の魚屋でしゃべり込んでいた時に、もらってきたらしい。


「これ、酒の話」


「酒?」


「ヴェルファ、地酒うまいらしい。澄んだやつと、濁ったやつ、両方あるって」


「お前、出立前から、もう仕入れてるのか」


「下見は早い方がいい」


「お前、酒の話だけは、本気だな」


「酒は人生の半分だよ、リント君」


エルナが紙を机の上に広げて、指で押さえた。書いてあったのは銘柄が三つと、店の場所。殴り書きで、エルナの字じゃなさそうだった。魚屋の親父か誰かが書いてくれたのだろう。


「現地で回ろう」


「分かった」


ユミルが横から覗き込んで、少し眉を寄せた。


「お酒、強さ、どのくらい、ですか」


「あんた、いくら飲んでも顔色変わらないだろ」


「変わらない、です」


「強さもクソもない。底なし」


エルナが笑った。


ユミルは酒で酔わない。耐性のせいか、毒も酔いも効かない体らしい。それでも味は好きで、地酒の話を振られると真面目に聞く。エルナと意気投合するのは大体これだ。海の魚も地酒も、ユミルの中の一覧に少しずつ書き込まれていく。


——


夜、宿の机でユミルが地図を広げていた。


王都から南へ街道がまっすぐ伸びている。途中に中継の宿場町が一つ。その先で坂を下って海岸線に出る。港町ヴェルファ。地図の縁に波の絵が小さく描かれていた。


「明後日、出発、です」


「ああ」


「街道、二日。中継の宿場、一泊。三日目、海、見えます」


「三日か」


「はい」


ユミルの指が地図の上をゆっくり辿っていた。


俺は窓から、王都の夜の灯りを眺めた。


——海、初めて、か。


百年生きて、海を見たことがない。別に驚くことじゃない。内陸で生きていれば、海を見ない人生もある。ただ、ユミルが「初めて」と言った時、少し胸の奥が動いた気がした。


ユミルにとって、これから先はずっと初めてだらけになる。海も潮の匂いも、全部初めて見るものになる。


俺はそれを横で見ていることになる。悪くない役だな、と思った。


夜が、軽く深くなっていた。


【了】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ