71 みずみずしきかな夏果実
お久しぶりです。
「おーっす、園芸部の! 悪ぃが畑まで案内してくれないか?」
もうすでに気だるくなるような熱気があたりに満ちた午前。今日も元気に部活をやりに来た華苗に声をかけたのは、短く刈った髪とたくましい体つきが特徴的な男性教師──体育教師の荒根だった。
今日もやっぱり動きやすそうなジャージ姿で、いかにも体育教師、といった出で立ちである。華苗のクラス──正確には一年の体育の担当ではないが、見た目からも立ち居振る舞いからも体育教師のオーラを醸し出しており、華苗が荒根のことを体育教師だと判別できたのはこれによるところが大きい。
「荒根先生? ウチに何か用事でもあるんですか?」
「おう。今日はちょっと俺も手伝うってことになってたんだよ。ほら、一応俺は楠の担任だから」
華苗は荒根については体育教師でありサッカー部の顧問、あるいは調理室にちょくちょくつまみ食いにしにくる人、程度の認識しか持っていない。しかしながら彼は、何を隠そう楠の現在の担任の先生だったりする。
「だけどな、なんか知らねえけど畑が探しても探しても見つからなくて……こりゃもう、話にならねえってわけだ」
「ああ、なるほど」
最近華苗もすっかり忘れつつあったが、不思議な園芸部の不思議な畑はなぜか入れる人と入れない人がいる。入れる人であっても必ずしも入れるとは限らず、また、入れる人と一緒に行くことで入れる確率はあがるものの、それですら絶対とは言えない……という奇妙な性質をあの畑は持っている。
もちろん、園芸部員である華苗は絶対に入れる人である。それゆえ、こうして畑に用事がある人を案内することも少なからずあった。
では一緒に行きましょう、と声をかけて華苗は歩いていく。入学当初の華苗なら先生にサシで向かい合った時点ですくみ上っていただろうが、この短くも濃密な数か月のおかげですっかり成長したらしい。今では世間話をする余裕さえあった。
「なんか珍しいですね、先生が手伝ってくださるなんて」
「まぁな。いろいろ食わせてもらったりしている手前、本当はもっと手伝ってやりたいんだが……。部活もあるし、教師の仕事もあるし、夏休みでもめっちゃ忙しいんだ」
実際、それは本当なのだろう。華苗が帰るような時間になってもサッカー部は練習をしていることがあるし、荒根もまたそこで大きく声を張り上げていろいろ指導している。華苗はその声を聴きながら帰っていると言っても過言ではないし、朝だって朝練で頑張っているのを見ている。
「いいんですか? そんなにお忙しいのにお手伝いだなんて」
「ま、仕事のほうは夜にやればいい。部活の時もそうやって時間を作っている。今日は部活は自主練……ぶっちゃけ休みにしたから問題ない。んで、せっかく作った空き時間なんだ、ここで手伝わないってのは筋が通らねえだろ?」
貴重な空き時間を部活のために使っているとなれば、本来の激務と言われている教師の仕事はそれ以外の、例えば夜遅くとかにやるほかない。昨今の先生の仕事はブラックだとはよく聞くが、荒根はそれでなお、部活の顧問も、教師としての仕事も手を抜くつもりはないようだった。
「あと、これが一番重要なんだが……」
「ふむふむ」
とてとてと歩き、畑へ至る最後の角をくるりと曲がる。華苗がそれを目にしたのと、荒根が言葉を紡いだのは、ほぼ同時だった。
「どうしても、食いたいものがあったんだ」
華苗の目の前に、雪のように真っ白で可憐な花を、これでもかとつけた樹々が広がっていた。
「…来たか」
「先生、遅いっすよ!」
畑の真ん中に立つのは二人。一人は我らが園芸部部長の楠だ。今日もまたいつも通り死んだ魚のように濁った光の無い瞳で表情が死んでおり、一種独特の迫力を醸し出している。色黒で大男なうえにこの顔付きなものだから、子供が見たら泣いて逃げ出すことは想像に難くない。
そんな楠とはうってかわって、もう一人の男は明るい雰囲気を放っている。いかにも高校生男子らしい、ちょっとチャラチャラした感じの元気の良さだ。運動部特有の空気とでも言うべきか、その溌剌としたオーラは楠のずしんと腹に来るような気配を見事に相殺している。
確認するまでもないが、園島西高校サッカー部部長、三年生の秋山である。園芸部の手伝いにちょこちょこ来てくれる、自称園芸部の次の次に畑に詳しい男だ。
「おう、すまねえな。ちっと迷っちまった」
「あちゃあ……そういや、最近普通に入れるからすっかり忘れてたぜ……」
まだ午前中のそれなりに早い時間──授業があったら一限の真っ最中の時間だが、夏の強い日差しは容赦なく畑に降り注ぎ、むわっとした空気をあたりに満ちさせている。当然、そこで佇んでいた二人の高校生からは汗がこれでもかと吹きだしており、楠の顔も、秋山の顔も汗で照ってきらきらとしていた。
見ているだけでむさくるしいが、優しい華苗は特にそれを言及することなくスルーする。ぐっしょり濡れたシャツだって、もはやすっかり見慣れてしまっているのだから。
「先輩、先輩。今日はなにやるんですか? 新しいのですよね」
「…見てわからんか?」
「わかんないから聞いているんです」
相変わらず楠は無口で会話の要領を得ない。今やすっかりそれに慣れてしまった華苗は、先輩に対する尊敬の念など明後日の方向にかなぐり捨て、二人の背後にある白い花をじっと見つめた。
華苗の手のひらに乗るような可憐な花だ。小さくて上品で、なんとなとくお淑やかなイメージを受ける。桜とよく似た形をした五弁花で、花のつき方でさえ奇しくも桜と似ている──枝の根元から枝の先まで、びっしりと固まって咲いていた。
「きれいな花ですねぇ……」
華苗は思わずうっとりとしてしまう。真っ白の花びらにアクセントとして混じる、真ん中のめしべの赤が良い感じだ。見上げる樹にはそこかしこにこの純白と薄いお化粧の様な赤があって、時折覗く葉っぱが深緑のドレスのように思えなくもない。
桜に似ていることもあるのだろうが、この満開の花に囲まれていると、どことなくお花見している気分になる。宴会のお料理やお団子こそないが、この不思議な感動こそが本来のお花見の醍醐味なのだろうと、華苗はぼんやりと思った。
「……一応確認するけどよ、今日は何するんだ? 俺、収穫するつもりで来たんだが」
華苗がぼんやりとしている間にも、男三人がこれからの作業について話し合っていた。
「そりゃもちろん、収穫まで行きますよ! 先生だって知らないわけじゃあないでしょ?」
「秋山よぉ……いやま、確かにそうなんだけどよぉ……」
「…まごころを込めれば、作物はそれに応えてくれます。俺たちはただ、何も考えずにまごころを込めればいいだけです」
「楠……お前……」
園芸部なのだから、育てて収穫するのは当たり前のことである。問題なのは、それをどの程度のレベルでやるか、というその事実だけだ。
面前に咲き乱れる花。おそらくは……というか、間違いなくこれは果樹だろう。そして、楠は秋山に手伝いを頼み、同時に荒根にも助太刀を求めている。
「……」
一抹の不安を感じた華苗は、よくよく秋山の顔を見てみた。
張り付いたような笑顔。正常のように見えて狂気を孕んだ瞳。巧妙に隠してはいるが、明らかに顔がトんでいる。
「……先輩」
「…どうした?」
「自家結実性は?」
「…察せ」
それだけでもう、華苗は全てを悟ってしまった。おそらく秋山も、過去のトラウマがよみがえってしまったのだろう。彼はさりげなく場所を移動し、荒根を絶対に逃がさないよう、じりじりとその距離を詰めていた。
今日はとても暑い。長くつらい戦いになるのは明らかだった。
「ひひ、ひひひ……!」
「お、おい? 秋山?」
「先生ぇ、逃げないでくださいよぉ……?」
「ひっ!?」
ガシッと秋山が荒根を羽交い絞めにする。教え子からのまさかの襲撃に荒根は成すすべなく捕まってしまった。こうなったらもう、どうあがいても逃げることなどできはしない。
「お、おい! どうしたんだよ!?」
「…先生にはこれから、人工授粉を手伝ってもらいます。…ここに咲いている花、全てです」
「…………は?」
荒根は呆然とした。むしろ、目の前に無数に咲き誇っている花全てに対して人工授粉しろと言われて、はいそうですかと頷ける人間のほうが少ないだろう。どう見たって、数人がかりとはいえ人力でやるような作業じゃない。
「受粉? この花? 全部?」
「…ええ」
「諦めましょう、先生?」
「先生もこっちに堕ちましょう! 大丈夫、意外と楽しいですって!」
「嘘だろ……」
さて、そうと決まれば話は早い。いつも通りに受粉して、いつも通りに収穫して、いつも通りに卸に行くだけである。もちろん、これまたいつも通りにその作業工程を一から学ぶことになるのだろう。楠はそういう人間だ。
「で、今日のこれってなんですか?」
「…梨だ」
梨。リンゴとよく似たあいつである。そう言われてみると、同じバラ科である桜と花の形が似ているのも頷けるというものだ。人工授粉が必要であることも、バラ科のさくらんぼと同じである。
もちろん、華苗は梨を育てるのははじめてで、梨の花がどんな形をしているのかを知ったのだってついさっきである。それでも、冷静に観察すれば少しは見当を付けられたという事実に、華苗は驚愕を隠せない。
「…とりあえず、育て方だ」
例によって例のごとく、その果樹は日当たりの良い場所に植えるのが望ましいとされている。乾燥には弱いので、植えた後に水をたっぷりやるのはもちろん、夏場などであれば、地面が渇いているのを見かけ次第灌水してもいいだろう、やり過ぎは禁物だが、これはほとんどすべての作物に言えることでもある。
植え付け時期は、冬真っただ中の十二月、あるいは春を感じ始める三月が望ましいとされている。もちろん品種や栽培地によってある程度の違いはあるが、それはこの不思議な園芸部においてはあまり関係のないことだ。
そして先程楠や華苗が述べた通り、梨には自家結実性がほとんどない。美味しい自然の恵みを享受したければ、必ず二種類以上の品種を植える必要がある。具体的な品種はともかくとして、組み合わせによっては別種であっても受粉しないものもあるので、あらかじめきちんと調べておく必要があるといえるだろう。
「…なんだかんだ言って、他の果樹と取り立てて変わったところはない……と、俺は思う」
「そもそも普通の高校生は果樹の育て方なんて知らないと思うんだが、そこのところはどうなんだ?」
「……」
「そりゃ先生、こいつは普通の高校生じゃないってことでしょ?」
「そーですよ。こんなおっかない顔つきの高校生なんていませんもん」
「…ちびのくせに、口だけはデカいな」
「あ゛?」
「……」
そんな先輩と後輩の心温まる軽口のたたき合い。華苗も今やすっかり度胸がつき、不良でさえビビって逃げ出す極悪人面の楠にメンチを切ることだってできる。果たしてそれが成長と呼べるのかどうかは、誰にもわからない。
さて、植えた果樹がすくすくと育つと、やがては剪定だの誘引だの棚作りだのといった面倒な作業をする必要が出てくる。大きく育てる場合、地植えにして立派な支柱と棚を拵えてあげるべきだろう。元気が良くて活きのいい枝を二、三本ほどチョイスし、棚の方へと誘引していくのだ。
詳しいことを突き詰めるとキリがないが、要はたくさん実をつけてもらうために、棚に沿って水平に枝を伸ばしてもらう、と言うだけのことである。尤も、ただそれだけのことがものすごく難しいのは語るまでもない。先人たちが遺したノウハウがこれでもかとあったりするのだ。
「…今の状態は、この剪定とかを終わらせ、花が咲いた状態だ」
「ほお。……まさか、お前一人で全部やったのか?」
「…いえ、じいさんと秋山先輩が棚作りを手伝ってくれました。…剪定や誘引についてはまごころのおかげです」
「……それ、まごころでどうにかなるものなのか?」
「…まごころですよ?」
「……」
まごころならしょうがない。人間、あきらめが肝心だ。
華苗は改めて、目の前の咲き誇る白い花を見てみる。
なるほど、よくよく見てみれば桜の花に似ていないことも無い。純白の花弁はどことなく上等なシルクを思わせるようなものでもあり、ぴょこんと飛び出た雄蕊の赤がお化粧の様にアクセントになっている。
不思議なことに、十個あるかないか程度の花がまとまって咲いている。そんな花の塊がいくつもいくつも、それこそ葉っぱの緑を覆い尽くすかのようにある。
「やっぱりきれい……ですけど、ちょっと数が多いですね」
「…一つの花芽から、おおよそ八つ程度の花が咲くと言われている。咲くのはだいたい周りからで、受粉に適しているのは真ん中あたりの花だ」
「へぇ」
楠に言われ、華苗はまじまじと花の様子を見てみた。たしかに、真ん中が咲いていない花はあるものの、逆に周りだけ咲いていない花というのは見受けられない。
「なんつーか、不思議だな。花のひとつをとってもちゃんとしたルールというか、全部きっちり決まっているもんなんだな」
「つっても、割とアバウトなところも多いとは思うっすよ。必ずしも何もかも思い通りになるとは限りませんし」
「…実際、病害虫も多く、梨を育てる難易度は高めとは言われていますね」
さて、男三人はそんなことを話しながらも──正確には作業を熟知している楠と秋山だけだが──人工授粉の準備を進めていく。人工授粉と言うと難しいように聞こえるが、要はおしべの花粉を物理的にめしべに接触させるだけなので、作業そのものは単純だ。
「…こっちの花をあっちの花に直接つけるか、あるいは八島の様に花粉を綿棒でつけるか、どっちかで」
「あー、面倒だから直接花をつけるわ。……なあ、一個の花でどれくらい受粉させられるんだ?」
「…だいたい五個くらい、ですかね」
「大丈夫っすよ、先生! どうせまごころでなんとかしてくれますから!」
そうして、軽口を叩き合いながらも受粉作業は始まった。荒根も秋山ももちろん華苗も、ちょこちょこと動き回り、目についた花に手当たり次第に花粉をこすりつけていく。
「なぁ、マジで適当にぐしゃぐしゃやってるだけなんだが、これ大丈夫か?」
「ええ。ぽんぽんぽん、って感じで大丈夫ですよ」
初の受粉作業となる荒根に、華苗は得意げにその神髄をレクチャーしていく。華苗の場合、その仄かに黄色みかかったようなそれを綿棒でこしょこしょと付着させ、花の中につっこんでこすりつけるだけだ。対して荒根の場合、花そのものを直接ぐっとくっつけるだけである。
「……なんかさ、こういうの、この場で言うのはアレなんだが」
「はい?」
そのたくましい手でひたすらに受粉作業を行っていた荒根が、ふと、声を漏らした。
「要は、アレだろ? 受粉作業って……アレだろ? 八島のやり方はともかく、俺みたいなやり方って、花同士で……キスさせてるようなものなのかな」
「……」
華苗だってもう十六歳だ。その言わんとしていることも、なぜ荒根が言いよどんだのかもはっきりとわかる。
なるほど、確かに言われてみればそういうことではある。むしろ、そういうことを最初に学ぶとき、真っ先に例として挙げられるのが植物の受粉形態だ。言葉を濁すことさえあれど、本質は全く同じだろう。
だからこそ、華苗はちょっとだけ赤くなってしまう。今自分がやっていることが、ほんの少しだけ恥ずかしいことのように思えてしまう。全然普通のことのはずなのに、まるで覗いてはいけないオトナの世界を見てしまったかのような心持ちになってしまった。
「先生、ロマンティックな表現でごまかすのはダメっすよ! あなた保健体育の授業もやるじゃないっすか!」
「うっせぇ! お前らならともかく、女子生徒相手にそれを言ったらセクハラになるじゃねえか!」
「安心してください、すでに三人ともセクハラです」
「…なぜ俺まで?」
ぎゃあぎゃあと、おしゃべりを続けながら受粉作業は続いていく。華苗も楠も、話しながらだというのにそのスピードが落ちることはない。最初はちょっともたついていた荒根でさえ、途中で鼻歌を歌いだすくらい余裕を見せるようになった。
が、いかんせん作業量はとんでもなく多い。一応は担当エリアを区切り、木々の一本一本をしらみつぶしに当たっているものの、根本的な解決には至らない。目の前一面を飲み込む白を見ていると、果たして本当に終わるのかどうか、華苗はちょっとだけ不安になってくる。
そうこうしている間にも太陽の光は空高く昇って行き、暑い日差しが容赦なく華苗たちに降り注ぐ。木漏れ日のはずなのに、本来それが持つ優しさと言うものは一切感じられない。刺すような日差しによりむわっとした熱気はより一層不快感を強めさせ、時たま起こるわずかな風でさえ、生ぬるいものになってしまっていた。
「あっちぃな……」
誰かがつぶやく。すでにみんな汗だくで、楠も秋山も全身がぐっしょりだ。荒根も額から汗を滝のように噴き出している。目に入って気が散るのか、ひっきりなしにハンカチでぬぐっていたが、焼け石に水のようだった。
もちろん、華苗も汗はしっかりかいているが、乙女の嗜みとして無様な姿は見せていない。このメンツなら見せたところでどうでもいいような気はしなくもないが、万が一ということもある。
常在戦場、油断大敵。標的は同じ敷地内にいる。いつ何があってもおかしくない。最近の華苗は、ちゃんとその辺も気にかけるようになったのだ。
そして──
「終わったぁ……」
時間にすれば一時間程度のことだろうが、楠を除く三人にとっては数時間に感じられたことだろう。全ての受粉が終わった時にはすでに疲労困憊で、三人が三人とも樹々にもたれかかる有様になっていた。
「こ、これで後は実が生るのを待つだけ……だよな?」
「…ええ。まごころはきちんと込めましたし、すぐにでも──」
楠が言葉を放ったまさにその瞬間。変化は唐突に表れた。
「わぁ……!」
先ほどまでは白く輝いていた花が一瞬でしおれ、ひらひらとその花弁を散らしていく。かと思えば、真ん中の部分がみるみるぷっくりと膨らんでいき、やがてそこにはどこかで見たような、緑と茶色と黄色が混じったような見事な色合いの──梨が鈴なりに生っていた。
「壮観だな……! ここまで実をつけるなんて初めて知ったぜ……!」
「…まごころをこめましたから」
見渡す限りの梨、梨、梨である。落ち着いた色合いの梨色のグラデーションが目にまぶしく、そこからは力強い大地の息吹きが感じられるかのようだ。生っている梨の全てがみるからにずっしりとした立派なもので、よくよく見れば枝のほうがその重さに耐えきれずに、わずかばかりたわんでしまっている。
「…本来なら、実ができたときに袋かけをします。病害虫を防いだりすることが大きな目的ですが、これをすることで表皮のきめが細かくなって見た目が良くなる効果もあります」
「ほーん。じゃあ、とりあえずしておけば間違いはないのか?」
「…糖度の高い甘い梨を作るときはしなくてもいい、という話も聞いたことがあります。ただ、普通はしておいた方が無難でしょう」
なお、一般的な場合、梨を甘くしたければ収穫が近づいたころの水やりを控えめにするといいとされている。袋かけをしないことでも甘くなるとはされているが、病害虫のリスクを考えたらやっておいたほうがいいだろう。もちろん、その分の手間はかかってしまうかもしれないが、安全な別の方法で補うことができるのなら、それに越したことはない。
「先輩先輩! そんなことより早く収穫しましょうよ!」
「…そうだな」
待ちきれなくなった華苗はぴょんぴょんと跳ねて楠に促す。楠も重い腰(?)をあげ、ゆっくりとそこらになっている梨の一つに近づいた。
「…この梨の場合、収穫の見極めは非常に簡単だ」
「簡単? 何か目印でもあるんですか?」
「……」
楠は無言で、梨の尻を手の平で持ち上げるようにして持つ。いわば、下から支えただけに等しい状態だ。
「…ほら」
「おお……!?」
だのに、楠はそれを華苗たちの目の前に付きだすことができた。
そう、切ったりもいだり千切ったりしていないのに、きちんと収穫できているのである。
「…完全に熟した食べごろの梨は、今の様に下から持ち上げるだけで簡単に収穫できる。逆に、それで収穫できないのはまだ熟していないと思ったほうがいいだろう」
さて、そうとわかれば話は早い。早速華苗は手近な梨へと目標を定め──もちろん自分の手の届く範囲のものだ──楠と同じように梨の尻を手の平で持ってみる。
すいっと支えて持ち上げてみれば、ぶつっとかすかな音がして、ずしっと重い手応えが伝わってきた。
「おお……!」
何とも立派な梨だ。表面は比較的つやつやしていて、触り心地はすごくいい。ほんのちょっぴりひんやりしていて、わずかに感じるつぶつぶの感触がクセになりそうである。まんまるのそれは華苗の知っているどの梨よりも重く、食べるまでもなく最高においしいものだと断言することができた。
「先輩先輩! これ、そのまま食べちゃっていいやつですよね!?」
「…皮は剥けよ?」
すぐさま華苗は果物ナイフを持ち出し、しょりしょりとその皮をむいていく。それはなんとももどかしく、同時にまたわくわくせざるを得ないことでもある。剥いているだけで果汁がナイフを伝ってぽたぽたと地面を濡らし、華苗の期待をどんどんと膨らませていった。
やがて、薄黄色のそれが華苗の前にさらけ出された。ここまで来たら、後はもうやることなど一つしかない。
華苗はあーん、と大きく口を開けた。
「ふひょぅ……!」
齧った瞬間に溢れ出た果汁。梨の甘みが口の中で文字通りの大洪水を起こした。一回、二回と口を動かす度に果汁が満ちていき、火照った体の隅々にまでその潤いが届いていく。
その芳しい香りが口から喉へ、喉から鼻へと抜けていく。すっきりと優しく甘やかなそれは、華苗の気分をうっとりとさせた。
もちろん、そうしている間にも華苗は次の一口を齧り取る。いったいどこに隠れていたんだってくらいの果汁が再び華苗の口の中に現れた。げに恐ろしきみずみずしさである。
「すっごくみずみずしい……っ!」
「…うむ、よく出来ている」
楠もまた、無表情で梨を齧っていた。ワイルドな男子高校生らしく、口の端から漏れ出た果汁があごだの肘だのを伝って地面にぽたぽたとシミを作っている。ちょっとはしたないと思えないことも無いが、むしろこれこそ自然を自然のままに楽しむ流儀と思えなくもない。
それにそもそも、この梨はいい意味でみずみずしすぎるのだ。果たしてどれだけの人が、綺麗に食べることができるというのだろう。
「うぉ……! もぎたてはこんなに違うのか……!」
「すっげぇ! これもうほとんど飲み物じゃん!」
荒根も秋山も、その瑞々しい恵みに舌鼓を打っている。かしゅ、かしゅっといい音を立て、一心不乱にその宝石にかじりついていた。滴る汗と滴る果汁の区別なんてもはやほとんどつかないような有様だけれど、どちらもキラキラとお日様の光を反射していて、エネルギッシュな美しさを放っていた。
「もういっこ!」
芯のギリギリまでぺろりと平らげた華苗は、すぐに次の梨をその小さな手でもぎ取った。逸る気持ちを抑えて慎重に、かつ丁寧に皮をむき、おひさまがぱあっと輝くような極上の笑みを浮かべる。そして、たまらなく幸せそうな顔をしてそれにかじりついた。
「……!」
やはり、この梨の強い香りが最高だ。特徴的な甘さは頭を痺れさせる。そしてなにより、このみずみずしさ。梨だけでしか味わえない、特別なものだろう。丸々と大きく食べ応えも抜群で、文句のつけようがない。
「おいしぃ……っ!」
なんだかんだで、一番甘いのがお尻に近い部分だろうか。芯に近いところは比較的酸味が強いが、それもまた別格のおいしさだと今の華苗は捉えることができる。むしろ、果物らしい甘酸っぱさは何物にも代えがたく、芯の酸味を嫌うのはあまりにももったいない事のようにも思える。
ごちゃごちゃと述べたが、要は一つの梨でもいろんな味が楽しめる、ということだ。そしてそれは、華苗にとっては非常に喜ばしいことでもある。
「…本当に、うまそうに食ってるなぁ」
すっかり梨に夢中になっている華苗を見て、楠はほんの少しだけ肩をすくめた。この後輩はこの後の収穫のことをすっかり忘れ去っているらしいとあたりをつけ、そろそろ切り上げて収穫しろ、と声をかけようとする。
が、しかし。それを止めたのは荒根であった。
「いいじゃねえか、もうちょっとゆっくり食わせてやれよ。その代わり、俺がしっかり働くからさ。それに、元はと言えば俺が梨を食いたいって言ったわけだしな」
「…別に、それは構いませんが」
「そーいや先生、なんでまたそんな風に思ったんすか?」
うっとりと夢心地の華苗をよそに、男三人は収穫作業を進めていく。すいっと持ち上げかごに入れ、すいっと持ち上げ籠に入れ。ぷつんぷつんと果梗が切れ、男たちのたくましい手の平にずっしりと自然の恵みが収まっていく。
「いや、大した理由じゃないんだが……」
「ふむふむ?」
「毎年、田舎の婆ちゃんが梨を送ってくれるんだ。だけど、この前腰を悪くしたらしくってな。今年は無理だって連絡が来たんだよ」
「あちゃあ。そりゃキツいっすね。さすがにこの重労働、腰を痛めた婆ちゃんには無理でしょう」
「まぁな。俺も気にするな、無理せず休んでくれって言ったんだ。……だけどよ、いざ食べられないと知るとこれがまたどうしても食いたくなってくるんだよなぁ」
そんなことをしみじみとつぶやきながら、荒根は梨を収穫する。きっとこのあと、たくさんおすそ分けしてもらって家に持ち帰るであろうことは疑いようがない。いいや、例え荒根が拒否したとしても、楠は無理やりにでも持たせることだろう。
そしておそらく、荒根はもらった梨を件の婆ちゃんとやらにも送るはずだ。普段より多く分けてもらうつもりだったからこそ、荒根はこうして自ら手伝いに来たのだろう。
「ふう、っと。だいたいこんなもんかね?」
そして、作業することしばらく。園芸部のリヤカーいっぱいの梨を収穫し終えた一同は、額の汗をぬぐいながら一息をついた。もちろん、華苗も途中からはしっかりと参加し、その収穫量の少なくない部分に貢献している。
リヤカーにいっぱいにある梨であるが、まだまだ樹上にもたくさん残っている。今らか食べ放題コースを開いても、おすそ分けにいろんな人に配っても、全然余裕はありそうだ。
「えーと、この収穫したのは運動部とかに持ってくんだよな?」
「…ええ。あとはじいさんのところと調理室、それに職員室と保健室ですね」
「……なんか、ホントすごい作業量だよな。改めて、いつもありがとうな」
改めて、その大きなリヤカーを荒根は仰ぐ。梨がこれでもかと入った籠が、これでもかといわんばかりにぎっしりと載っている。その重量が果たしてどれだけあるのか、想像するのは少し怖い。
「……いい筋トレになるのか?」
「…後は持っていくだけですので、さすがにそこまでお手伝いしてもらうわけにはいきませんよ。それに、もう時間も時間です」
言われてみれば、もうすでに太陽はほぼ真上に来ている。華苗のお腹もそろそろ昼餉を所望する頃合いだ。先程食べた梨はもちろん別腹なので、この場合はノーカンである。
「あー……なんか悪いな。中途半端なところで抜けることになっちまってよ。午後からどうしても外せない教員会議があるんだよな」
「先生もお忙しいんですねぇ。あ、よかったらその会議にこの梨持っていきませんか?」
「おっ、いいのか?」
もちろん、華苗に断わる理由はない。どうせ腐るほどあるのだ。腐らせる前に美味しく頂いてもらえれば、それに勝る喜びはない。
「…持ち帰り用のは別に包んでおきましょう」
「ホント、何から何までありがとな。……あれの準備も全然顔出しできてねえし、全く、教師としてふがいなく思えてくるぜ」
「…いえ、本格的に忙しくなるのは来週くらいですから、まだまだ大丈夫ですよ」
「そう言ってもらえると助かるぜ」
そう言って荒根はひらひらと手を振り、畑を後にしていく。彼の来ていたシャツはやっぱりぐしょぐしょになっており、背中の部分が汗でぴっとりとくっついていた。一応はこのあと着替えるのだろうが、シャワーの一つも浴びることができずに面倒な仕事をしなきゃいけないことを考えると、華苗は荒根にちょっぴりだけ同情したくなる。
「ところで、先輩?」
「…どうした?」
「さっき先生が言っていた、あれってなんです?」
「…あれはあれだろ?」
楠は面倒くさそうにリヤカーのハンドルをつかむ。秋山もにやにやと笑いながら、後ろからリヤカーを押す体勢に入った。
「なに? 華苗ちゃんの所はまだやっていないかんじ? あれ、意外と夏休み明けすぐだから、そろそろ本格的に動かないと大変だぜ?」
経験者は語る、というやつなのだろう。秋山はきれいにぱちりと華苗に向かってウィンクし、そして楠もまた、その言葉に賛同するように深くうなずいている。
「あ、もしかして──」
その様子を見て、華苗もピンとくるものがあった。
「年に一度のビッグイベント! 園島西高校って言ったらこの行事は外せない! 俺たち三年に取っては、事実上最後の青春イベントと言っても過言じゃないッ!」
秋山が大袈裟に言葉を紡ぎ、そして楠がその言葉を引き継いだ。
「──園島西高校文化祭。通称【ガーデンパーティ】。…これからどんどん忙しくなるぞ」
夏の空の下、がたんと車輪が回る。それは、華苗を新たなる思い出へと導く鐘の音でもあった。
この前「にっこり」って名前の梨を食べたのですが、すんごく大きくてびっくりしました。もちろん味はちょうデリシャスで、その瑞々しさが凄まじかったです。良い梨ってどれもが果汁たっぷりなような気がします。
幼少の砌は皮をむかれていると、りんごと梨の区別があまりつかなかったっけ。どっちも『うめえうめえ!』って満面の笑みで食べていたような……。
梨地状って言葉はもうあまり見たくない。考察考えるのすっごく大変だった。
 




