水紋、決別と泡沫。
六月下旬、彼は、私の前から姿を消しました。彼のSNSのアカウントからは、東京藝大の文字が消えていました。
一枚の絵と詩を残し、それが全てだと言わんばかりに、彼は絵から去りました。
訊きたい事が沢山ありました。伝えたい事も、それ以上にありました。
展示の時に、先生から焼き上がった皿を貰い、私はそれぞれ父と母と姉に送りました。それで何かが変わるわけでもなく、依然として私の家族はその形を変えたままでしたが、私は彼にそれを伝えて、きちんとお礼を言いたいと思いました。
「絵は好きかどうか」の問いに、あの時は上手く言えなかった答えを添えて、あなたの絵が好きです、と。
退学届に書かれていた名前も、藝大の展示も、どちらも「小鳥遊葵月」ではなく、「朝日奈葵月」と書かれていました。それでも彼は、私に「小鳥遊葵月」だと名乗り、その名義でSNSのアカウントも運用していました。彼と親しい人は、彼のことを名字で呼びませんでした。
彼が残した詩を想いました。
『この筆で全てを壊してやりたくて、壊そうと思って、そしたらどれほど嬉しくて、空虚なんだろうと想像して、私には傘なんて無くたってそれができる。』
そこには明確に、怒りと迷いがありました。きっと、盗作やそれ以外の、彼に対する不条理な雨に対して、一種の復讐という形で筆を取ることも出来たはずでした。それができるだけのものを持っていて、その上で彼は、そういう風に絵を描かない事を選びました。
たとえそこで溺れてしまったとしても。彼が最も愛した筆を、失ったとしても。
彼は、美しいひとでした。
『私が筆を取る時、私のために泣いてくれる人がいること、わたし、識ってしまった。』と結んだ言葉が、彼の全てでした。
彼はちゃんと、泣けたのでしょうか。
彼が絵との対話の中で生みだした様々な彼だけの感情を、勝手に奪われ、描き直され、それが評価されているという彼自身への冒涜に、きちんと悲しんで、怒って、泣いたのでしょうか。
大学の物理学Aには、有栖川さんが相変わらず一人で授業を受けていました。何一つ面白くないといった顔で、ペンを回して遊んだり、スマホで何かを見ていたりと、退屈を隠さない様子でした。
彼に電話をかけようかと何回も迷って、せめて、あなたの絵が好きですという事だけでも伝えようと思いましたが、彼が絵画を手放した今、私がそれを言うのは憚られました。
塾のバイトでは、彼の妹の皐月さんと少しだけ会話しましたが、その中で彼の今を知る事はできませんでした。皐月さんは物静かな雰囲気ではありましたが、明るく話してくれる一面もありました。雑談の中で家族旅行などの話題になる事はありましたが、彼女は、兄は来ないです、と溢しました。それは、その話題を避けたいような様子はなく、そういうものだと認識しているような一種の無関心すらありました。
七月が少し過ぎた頃、バイトの夏期講習前の面談があると言われました。
塾長だけでも良いらしく、面談に同席するかはどちらでも構わないと言う事でしたが、私は同席する事を選びました。
私が何か話す事は特にないので、事前準備は特別必要ありませんでしたが、自分の立場を使って彼に会おうとしている狡さが、少しだけ緊張に変わっていきました。私はそれを振り払うように時計を見てから、雑務をこなし、彼が現れるのを待ちました。
チャイムが鳴って、私が鍵を開けました。彼は七月にも関わらず薄手の長袖を着たままそこに立っていて、やはりその瞳に温度はありませんでした。私が会釈をすると、彼はゆっくりとこちらを向いて、その温度のない瞳が、何かを迷ったような色を見せました。
「嘘ついてごめん」
彼は、私に聞こえるか聞こえないかの小さな声で、そう言いました。「嘘」が何を意味しているのか、上手くわかりませんでした。
思い当たる事と言えば、彼が小鳥遊葵月と名乗った事くらいでした。しかしそれは、彼の両親が離婚している事を考えれば、言いたくないこと、名乗りたくない名前、その他の理由で少し嘘を混ぜるくらいの話で、謝る必要もないような小さな事だと思いました。
あまり合点のいかないような顔をしている私を見て、彼は瞳を閉じて、困ったように少しだけ笑いました。
彼はそれから何も言わず、塾長に案内されるがまま面談室に入り、私もそれに着いて行きました。
彼は必要最低限しか話さず、「彼女がやりたいようにして頂けたら」と言って、面談は終わりました。その言葉は、彼の感情の抜け落ちたような無表情と相まって明確に何かに線を引いているような気がしました。彼がこの必要最低限の面談でしか私の前に姿を現さないように思えて、私は無意識に彼の背中を追いかけました。塾長は既にブースに向かっていて、私は特に授業予定もなかったので、咎められる事もありませんでした。
「葵月さん」
彼は言葉を返さずに、黙ってこちらを向きました。噴水で彼を最初に見た時と同じ、何かを憂いているような、感情の読めない瞳でした。
「お酒、まだ、返せてないです」
何を思ったか、私は本当に意味のわからない事を言いました。彼とこの世界を繋ぎ止める何かが、一つでも多くあれば良いというただそれだけの理由で。
彼はゆっくりと瞳の中の憂いを溶かして、不思議そうな顔をしてから、首を傾げ、おかしそうに笑いました。
「ああ、そういえばそうだった、ごめんごめん。取りに行くよ、いつが良い?」
彼は常に、私が何を選ぶのかを待っていました。自分からは尋ねず、私が話したい事を私のタイミングで伝えるのを、ただ待っていました。そして、私はそれを、受け取らないという選択をしました。
「葵月さんは、いつが良いですか?」
一種の賭けのような気持ちでした。彼は目を細め、何かを迷うように横を向いたあと、数秒黙ってから、どこか諦めたように笑いました。
「……俺、自分のこと、まともに一人で決められないから、どうしたらいいかわからない」
今度は私が彼に手を差し出す番でした。彼が私に送った言葉のような、美しい優しさは私には持ち合わせていませんでしたが、私は変わらない事実を持ち合わせていました。
彼の世界は、色と言葉でできていました。対して、私の世界は、数式と実験でできていました。
どちらが良いかではなく、それは、ただ単に、世界の見方が違っているだけでした。
「この後空いてるなら渡しに行きます、今日が無理なら明日。明日が無理なら明後日。この後予定はありますか?」
「……いや、特には」
「じゃあそうしましょう」
私は首から下げていた名札を外し、受付の端末にかざしました。無機質な音が、私の勤務が終わった事を告げました。彼は少し戸惑ったように私の方を見ました。その瞳の中に、私には読み取れない様々な感情が滲んでいました。




