梅雨、未完成の絵画。
六月。彼は相変わらず、私の大学の講義には顔を出しませんでした。きっと展示の設営諸々で忙しいのだろうと思いました。
私は暇さえあれば、一年前から更新の止まっている彼のSNSを開き、そこにあげている絵の数々を見ていました。その感情の名前はよくわかりませんでした。はたして私は、彼の絵が好きなのか、絵画鑑賞が良いと思ったのか、彼の事を知りたかったのか。
結局、何もわからぬまま、少しだけ彼の絵に詳しくなった私は、少し緊張しつつも展示会に足を運びました。理工学部に入学した時は考えられもしなかった、自分自身の行動力や興味の幅に少し驚くと共に、私のその変化の兆しを与えてくれた彼に感謝していました。
時計は一時半を指していて、会場はかなりの人で賑わっていました。渡されたパンフレットを軽く読みながら、ロビーに犀川先生の姿を確認しました。紙袋を持っていた先生はこちらを認識し、「あら、良いところに」と笑うのでした。私は会釈して、先生の迷惑にならないようそっと立ち去るつもりでしたが、先生はこちらに歩いてきて、「一人? 良かったら一緒にどうかしら?」と微笑むのでした。
その底抜けに明るい顔と、芸術に詳しい人の感想はどうなのだろうという思いが、私を「ありがとうございます」と頷かせました。
無機質な廊下を抜け、先生の案内と共に一つずつ展示を見ていきました。人によって本当に作風が違っていて、違うジャンルの曲を絶え間なく聴いているような感覚でした。絵のキャプションがびっくりするほど長いものや、タイトルだけが淡々と置いてあるもの、イーゼルに並べられていたり、壁にかざってあったり、と見せ方だけでもかなり違いがあって、なんとなくそれを面白いと思いました。
絵のことは私にはよくわかりませんでした。一つだけわかるのは、写実的な、いわゆる上手いものではなく、「描きたいもの」に天秤を振り切っている印象がありました。
それは、『私の世界の見方はこれです』と伝えているようでした。技術的なことは勿論分かりませんでしたが、絵から感じる圧のような何かは、一種の心地よさすらありました。
先生は技術的な話は特にせず、「これ良いわね〜」だとか、「ここおしゃれだわ」だとか、つまり、ほとんどが簡単な感想でした。しかし、ある展示を見た時に「あら」と本当に驚いた、先生にしては少し低い声を発しました。
先生の視線の先を見ると、その声の意味がわかりました。
恋をテーマにした、といったことが書かれているキャプションと共に、数々の絵がイーゼルに並べられていました。
私はそれに、見覚えがありました。
「……難しいわねえ、これ」
そこに並べてあったのは、彼がSNSにあげていた絵とかなり似通っていました。色使いやディティールこそ違うものの、彼が「小鳥遊葵月」として描いた作品が、彼とは違う解釈で並べられていました。
そして、一年以上前から上げていた彼の絵と、ここに展示されている絵のどちらが新しいかは考えるに及びませんでした。
真ん中に、『帰雁』と同じ構図のものが置いてありました。柔らかな春の日差しすら感じる、恋情に溢れた絵でした。
私たちは、在廊しているであろうこの作品の製作者を探す事もせず、黙ってそれを後にしました。「次も見にいきましょうか」と、穏やかに、しかし少し寂しそうに笑う先生に連れられ、次の階への階段を登りました。
彼はここに何を展示しているのか、私はあまり見たくないような気がしました。盗作に対する彼の答えが、ここにあるような気がして、私はそれが、少し怖いとさえ思いました。そこに彼の絶望があれば、私はどうしたら良いのかよくわからなくなると思ったからです。考えれば考えるほど、心臓の鼓動は段々と早くなりました。
いくつかの独創性溢れる作品の数々を見ながら、芸術に身を置く人たちの自分自身の創作への信念のようなものを感じました。教室の使い方や展示の仕方に突飛なアイデアが敷かれていましたが、やはり、恋と冠した盗作の展示にだけ漂う異質さは、他のものにはありませんでした。
少しだけ他の展示の制作者と話したりしながら、私たちは次のブースに向かいました。
真っ白い部屋の中、一枚の大きな絵が真ん中に置かれていて、詩が添えられていました。
息を呑みました。
在廊しているはずの制作者の姿は見えませんでしたが、私はなぜか、それが、彼のものであると理解しました。
灰色を基調にした、雨模様のような絵でした。豪雨にも小雨にも見えました。外は晴天だというのに、部屋の無機質な白と相まって、どこかペトリコールすら感じました。
上から白で大胆に削りが入れられていて、それは、印象のような、抽象のような、何だか上手く言い表す言葉が見つからない、しかし、彼の絵でした。
わかってくれ、と言われている気がしました。『帰雁』や『回雁』などに通ずる、まるで枯れた花の哀しさだけを拾うような、遠い感情はありませんでした。ただひたすらに、「私の世界は雨が降り続けている」と、訴えてくるような、そんな、真っ直ぐにこちらを突き刺す何かを感じました。
気付けば多くの人が入ってきていて、一枚の絵だけを置いた強気の展示と、そこに添えられた詩の繊細な感情の揺らぎのコントラストが、感嘆のため息を誘っていました。
彼は、確かに盗作に対する答えを返していました。それは、実力で真っ向から勝負するやり方でも、彼の今までを台無しにするやり方でもありませんでした。
ただ真っ直ぐに、まるで、これ以上語る事は無いと言わんばかりのそれは、最も美しい、返答でした。
『梅雨、未完成。 油画専攻四年 朝日奈 葵月
______雨が降っている。傘を知らない私を笑って、止まない雨が降っている。この筆で全てを壊してやりたくて、壊そうと思って、そしたらどれほど嬉しくて空虚なんだろうと想像して、私には傘なんて無くたってそれができる。
それでも私は、未完の雨に打たれることを選びたい。たとえそこで溺れ、翅を失ったとしても、私が筆を取る時、私のために泣いてくれる人がいること、わたし、識ってしまった。』




